第8話。椿綺の日常

「ということがあった」


 いつもは白雪しらゆきから報告を受ける側だが、珍しく私の方から白雪に今日の出来事を話していた。


 主に本屋で起きたことだ。店番を任され、とある本の読者にも出会った。白雪には聞かせるにはちょうどいい話だった。


「へー本屋さん」


「行ったことあるか?」


「ないよ。本は嫌いだから」


 白雪の本嫌いは、もっと物理的なものが原因だった。昔、白雪は図書室の本棚に突っ込み、その下敷きになったことがある。


 それ以来、白雪は本棚には近づかなくなった。


「まさか、あの本のファンに合うとはな」


「ねえ。その本って誰が書いたの?」


「……私達の祖母だ」


 そのことは初めから知っていた。


 母親から本を渡された時、それを祖母が書いているものだと聞いた。当時は本の内容にも期待をしたが、私には受け入れられなかった。


「おばあちゃんって作家さんだったんだ」


「らしいな」


 最近、私は祖母と顔を合わせてはいない。白雪は正月に会いに行っているが、かなりの数の親戚が家に集まる場合もあると聞いて、私は祖母の家に足を運ぶことを控えていた。


「今度、サインしてもらってくるね」


「……サインを貰っても売れないぞ」


「売らないよ!」


 サインを書いても付加価値は無いだろう。そんな考え方をする私だからこそ、祖母に合わせる顔がなかったのかもしれない。


「おばあちゃん。椿綺つばきに会いたがってたよ」


「私の代わりの孫がいくらでもいるだろ」


「そういえば多いね」


 白雪が手を伸ばし、私の頬に手を近づける。


「でも、みんな違う花だよ」


 それは誰に対する言葉なのか。


「くだらないな」


 私は白雪の手を払った。


「誰からも愛されない花だって存在する」


「椿綺はそうなりたいの?」


「ああ。そっちの方が楽だ」


 私は適当なことを口にしたと自分でも思った。


 愛されない花。なんてものは存在しない。


 匂いの薄い花、枯れた花、散って地面に落ちた花。どんな花であっても、それを好む人間はいる。


「私は椿綺のこと。好きだよ」


 きっと、白雪はそういう人間だ。


「……白雪。そろそろ風呂に入れ」


 白雪が仕事を終え、自宅に帰ってきてからずっと話をしていた。私は先に風呂に入ったが、白雪はまだだった。


「椿綺。たまには一緒に入らない?」


 期待も何も無い誘いの言葉。私が断ると知っているからなのか、それとも僅かに残る私の匂いに気づいていたか。


「ああ。いいぞ」


「え……」


 だから、私が予想外の返答をすれば、白雪も戸惑ってしまう。いつもなら無駄な会話だと、口にはしないが、最近は白雪と二人きりで話す時間も減っていた。


 そのせいか、私も冗談を口にしてしまった。


 私は白雪との会話を心の底では求めている。しかし、それとは別に表の面で白雪と会話をしている私が対話を拒んでしまう。


「白雪。冗談だ」


 だから、こうしてすぐに終わらせようとする。


 ようやく白雪が一人で生きる手段を手に入れたというのに。私が足を引っ張るわけにはいかない。白雪の日常から私は少しづつ離れる必要があった。


 このやり方が正しいとは思わなかったが。


「椿綺……あの……」


 リビングから出て行こうとする白雪が立ち止まり私に声をかけてきた。私は白雪の顔を見て、内心驚いていた。


 何故、そんな不安そうな顔をするのか。


「やっぱり。なんでもない」


 私は白雪の様子に気づいていたが、引き止めはしなかった。もしも、白雪が何かを口にしていたら私なりに言葉を返していたはずだ。


 リビングで一人なった時、私は少しだけ後悔していた。白雪には自分しかいないというのに、寄り添ってやることが出来なかった。


 自分を責めるのは簡単だが、問題は解決しない。


 私は椅子から立ち上がり、自分の部屋に行くことにした。まだ眠るには早い時間だったが、ケータイを部屋に置いていることに気づいた。




 日付が変わろうとしていた頃。


 まだ起きていた私はケータイにメッセージが届いたことに気づいた。ケータイを持ったまま自分の部屋からリビングの方まで移動をする。


 すべての明かりはつけずにキッチンの方だけ明かりをつけた。冷蔵庫を開けて、中に入っている水の入ったペットボトルを取り出して口にした。


「最悪な気分だ」


 ずっと避け続けていたが、そろそろの限界のようだ。私はケータイを操作して、電話をかけることにした。


 向こうも待っていたのか、すぐに繋がった。


「もしもし。こんな時間に何の用だ?」


 ケータイの向こうから聞こえる女の声。


「ああ。わかっている。明日には行く」


 通話の途中で扉が開く音が聞こえた。


「また連絡する」


 そこで通話を終わらせたのは、会話の内容を白雪に聞かれたくなかったからだ。リビングに入ってきた白雪は目をうっすらと開けて、ウトウトしていた。


「……」


 寝ぼけているのか。こういうことは稀にあるが夢遊病とは違うのだろう。私は白雪に近づいた。


「白雪。ここはリビングだ」


「椿綺が部屋にいなかった」


 私の部屋に行っていたのか。


「何故、私が部屋にいる必要がある?」


「一緒に寝たかった」


 勝手にベッドに潜り込まずに、私に確認するのは感心だ。もし、白雪が黙って私のベッドに入っていたら、確実に引きずり落としていた。


 普段の生活でさえ、他人に触れられることに抵抗がある。自分から触れるのは平気だが、相手から触れられるのは苦手だ。そんな私が白雪と一緒に眠ることは難しい話だった。


 しかし、白雪も私のことを知っているはずだ。


「白雪。何かあったのか?」


 それでも私に頼りたくなるわけがあるはずだ。


「……寂しい」


 白雪は私に体を寄せるが、触れる寸前で止めた。


「その寂しさの原因はなんだ?」


「最近……椿綺と一緒にご飯食べてない」


「……っ」


 私はそんな状況に慣れようと努力した。


 だから、白雪の言葉を聞いて、少しだけ苛立ちのようなものを感じた。私と白雪が一緒の時間を過ごせなくなったのは、白雪に原因があるというのに。


「白雪。少し、待っていてくれ」


 白雪を椅子に座らせた。


 その間に私は自分の心を落ち着かせる。


 明日、昼から用事があるが、少しくらい夜更かしをしても問題はない。白雪も睡眠は十分取っているだろう。


 キッチンに立ち、いつもは開けない棚を開けた。


「まだ残っているな」


 人に教わった料理の中に、こういう時にも作れる物もあった。私の将来の為だとか言われた気もするが、私ではなく白雪に料理を教えるべきだったと今でも感じていた。


「まだ寝るなよ」


 白雪はテーブルに顔を伏せていた。


 手早く済ませて、白雪が眠る前に準備を終わらせた。出来上がった物をテーブルを置くと、白雪が顔を上げた。


「パンケーキ……」


「白雪はこれが好きだろ」


 もう一つ。メイプルシロップも置いた。


 私が白雪の為にパンケーキを作るのは特別な時だけだ。今日が特別というわけではないが、白雪が働き始めた記念ということで用意した。


「椿綺の作るパンケーキは美味しいから大好き」


 幸せそうな顔をしながら、白雪はパンケーキを口にする。それなりに作ったが、すぐに無くなりそうだ。


「椿綺は食べないの?」


「こんな時間に食べたら太るからな」


「うっ……」


 白雪はパンケーキの一切れをフォークで刺すと私に向けてきた。


「椿綺には幸せをおすそ分けします」


 断ることも考えたが、それでは意味がない。


 私はそれを口にした。


「椿綺。ありがとう」


「気にするな」


 いつもの食事とは程遠いのかもしれない。それでも家族と一緒に過ごす時間は大切だ。白雪と私が一緒に食事をして、これでまた明日もお互いに頑張れるだろう。


 これが人並みの幸せというものか。私は忘れかけていた大切なモノを思い出しながらも、失うことに少しだけ恐れのようなものを感じてしまっていた。


 いつまでも幸せなんてものは続かない。

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