第7話。椿綺の本屋

「はぁ……」


 急な雨で制服が濡れてしまった。


 学校の帰りということで、鞄が濡れることは避けたかった。それでも雨が激しくなり、最低限雨の凌げそうな場所に立ち止まり、雨が弱まるまで待っていた。


 今日、白雪しらゆきはバイトでそれなりに遅くなると言っていた。だから、急いで帰る必要もなく、こうして灰色の空を眺めるだけの時間があった。


「そこのお嬢さん」


 背にしていた建物から声が聞こえてきた。


 振り返ると、若い男が立っていた。声からしてもっと幼いと思ったが、見た目だけなら青年とでも呼ぶべきか。私は少しだけ警戒心を抱いた。


「邪魔だったか?」


 ここが本屋であることは気づいていた。初めはシャッターが半開きになっており、中に入ることは出来なかったが、今は八割ほど開けられていた。


「いや。もう閉めようと思ってから」


「そうか」


 私は雨の中に出ようとした。


「ちょっと待ってよ」


 店から出てきた彼が私を止めてきた。


「これ。持っていきなよ」


 彼は手に傘を持っていた。


「必要ない」


「濡れたくないから、ここにいたんじゃないの?」


 他人に恩を売るのは避けたい。しかし、後で鞄を濡らした時、この場で傘を受け取っておけばよかったと後悔するくらいなら。今受け取るべきか。


「……明日。返す」


 どうせ学校の帰り道だ。手間にもならない。


「ばいばい。はじめましての人」


 そんな言葉を背にしながら、私は雨の中を傘をさしながら帰った。




「誰かいないのか?」


 翌日。学校が終わった後に本屋に立ち寄ると、店は開いていた。しかし、中に入ると、独特な空気と匂いが、不安という抱く必要のない感情を溢れさせてしまう。


 店の外は晴れており、余計に店内が暗く感じてしまう。明かりはついているが、放たれる光が弱く見えた。


「何か探し物か?」


 棚の陰から現れたのは、それなりの歳に見える男性だった。白髪と髭が貫禄すら感じさせるが、想像とは違う人物が現れたことに私は驚いた。


「この店で若い男が働いていないか?」


「若い男……ああ、孫のことか」


 私は手に持っていた傘を差し出す。


「昨日、その男から借りた物だ。渡しておいてくれ」


 傘を渡したところで私は立ち去ろうとした。


「本に興味はないのか?」


「昔は読んでいたが、最近はまったくだ」


「なら、本を読むといい」


 本屋の人間だから、商売でもしているのか。それとも単純に本が好きなのか。どちらにしても余計な出費は避けたい。


「私に合う本があれば読む」


 無謀な提案をして、男を黙らせようとした。


「雪に落ちた椿のような女だな」


「……っ」


 名前を呼ばれた気がしたが、違う。それに、その言葉に相応しい人間がいるとしたら、私の母親だろう。


「何か、本のセリフか?」


「前に同じ花を見たことがある」


 男は近くの本棚に手を伸ばした。


「……私の母を知っているのか?」


「あれほどの花を他に見たことはない」


「答えろ。私の母と何処で会った?」


 本棚から取り出された、表紙に何も書かれていない本。男は私に向けて本を差し出してくるが、まだ私の質問に答えてもらっていない。


「この本を彼女は選んだ」


「……っ」


 私は本を受け取り、表紙をめくった。


「くだらないな」


 この本を誰が書いたのか、私はずっと昔から知っていた。これは私と血の繋がりがある人間が書いた本だ。


 読んでもつまらない本だからと、ろくに売れもしなかったそうだ。それでも、この本を読んで共感した人間はいたらしく。人間としての本質。いや、人間が人間であることを否定する内容だとも知っている。


 本当にくだらない。


「すまない。少し、店を頼むよ」


「何を勝手に……」


 男は私の前から姿を消した。


 店の奥にでも行ったのか。私は本を手に持ったまま移動をする。座れそうな場所を見つけて、腰を下ろした。


「前に読んだのはいつだったか……」


 一度、子供の頃に読んだ気がする。


 今思えば、ここで母親が同じ本を買っていたのだろう。あの男もよく覚えているものだ。おそらく私の母親に会ったのは何年も前のはずなのに。


「もう一度、読む気にはならないな」


 持っていた本をレジに置くと、入口の方で扉が開く音が聞こえた。


 入って来たのは若い女性。ここが本屋であるのなら、客で間違いはないだろう。しかし、漫画や若者が読みそうな本はなく、年齢層的にも珍しいのではないか。


 そういえば、あの男は少しと言っていたが、私に接客させるつもりか。店の評判を落とすような結果になろうとも、私は責任を取るつもりはなかったが。


 こうして店番のフリをしているだけでも、マシだと思ってくれればいい。私は目を閉じて、時間が過ぎるのを待つことにした。


「あのー」


「……っ」


 眠っていた。いや、声が聞こたのだから、意識はあったのか。私は目を開けて、レジの前に立っている人物に目を向けた。


 先程、店に入ってきた女性だ。私よりも歳上であることは間違いないが、私は態度を変えるつもりはなかった。


「新しい、バイトさんですか?」


「私のことか……」


 常連客か。自然な笑顔と大人の雰囲気。おそらく誰からも愛されるような人間だろう。白雪とはまた違った存在感のある人間だった。


「私はあの男に店番を押し付けられた哀れな人間だ」


「あーよくありますね」


「よくあるのか」


 笑顔が自然と浮かぶ女性だ。本人も意識をしてないと思うが、彼女にとってはそれが普通なのだろう。裏表がない分、私が苦手な人間ではあったが。


「その本。お好きなんですか?」


 私の指が乗っている本。それはあの店主に渡された本だ。手元にあったから触ってしまったのだろう。


「……この本を読んだことがあるのか?」


「はい。読みました」


「感想を聞いてもいいか?」


 この本を実際に読んだ、読者の貴重な意見だ。


「今まで読んだ本の中でも、この本は……」


 彼女は笑顔のまま。


「とても、素晴らしいものでした」


 彼女も本の内容に共感した人間の一人か。


「残念だが、私には理解が出来なかった」


 今読んでも結果は変わらないはずだ。内容を理解しても、それが受け入れられるかは別の話だった。


「でも、感想を聞くんですね」


「どういう意味だ?」


「理解が出来なかったのは本に興味が無いからではないですか?なのに、本の感想を聞く。なんて、不思議に思ったんです」


「……例えば、不味い飲み物を飲んだ時に。自分の味覚がおかしいのではないかと、同じ物を飲んだ相手に味の感想を聞くことが。おかしいと思うか?」


 この本を書いた人間と親戚であることを話すつもりはなかった。だから、質問の理由を適当に誤魔化すことにした。


「でも。それで相手の方が美味しい。と答えたら、アナタは自分の味覚がおかしいと思いますか?」


「……いや、思わないな」


 不味い物は不味い。それは味の感想を聞いたところで、自分にとっては変わらない事実だ。それでも相手に聞くのは、誰だって自分の感覚に不安を抱くからだろう。


「私も、この本は万人受けするものだとは思っていません。私は、多くの人間よりも、本当に必要とする人間に向けて書かれたモノだと感じました」


「本だけにか?」


 普段は言わないような、つまらない冗談を口にした。白雪と違って、話しやすい相手だったせいか。気が緩んでしまったようだ。


「……なんだか、この本を書いた人とアナタは似ている気がします」


 私の冗談については何も言わず、彼女は私と本の関係に気づいた。それはつまり彼女は心底、この本が好きだと言うことか。


「作者に会ったことはあるのか?」


「いいえ。調べても、見つかりませんでしたから」


 本や名前が売れた訳でもない。普通に探したとしても、作者は見つからない。だから、私は手元にあった紙に住所を書くことにした。


「会いたいなら、ここに行くといい」


「これって……」


「まだ生きてるなら会えるはずだ」


 これは私なりの嫌がらせだった。この本を書いた人間は自分の為だけに本を書き、初めから読者を必要とはしていなかった。


「ありがとうございます」


 きっと、あの人間は喜ばないだろう。


 それでも今、目の前にいる彼女には会ってほしいと感じてしまった。でなければ、この本が可哀想だと、私は考えてしまったのだから。

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