第16話。椿綺の孤独
今日は朝から
仕事があるとは言ってなかったが、たまにはそういう日もあるだろう。朝食は私と
「
食事の後に来夏からそんなことを言われた。
「家に帰るのか?」
「いいえ。少し、散歩がしたい気分なので」
天気予報では今日は雨が降ると言っていた。
「傘、持っていくといい」
私は来夏に傘を持たせた。いくら来夏を家に泊めていると言っても、束縛しているわけではない。来夏が外に出たいと言うのなら、それは来夏の自由だった。
「椿綺さん。行ってきます」
「ああ。気をつけてくれ」
来夏が家を出た時に私は気づいた。
「靴が無い……」
玄関には白雪の靴が無かった。
出かけているなら、それは当然のことだ。しかし、私が気になったのは、いつから靴が無くなっていたかについてだ。
最近、白雪の仕事が忙しいことは知っている。
いきなり従業員が辞めて、店の経営も大変だと聞いている。そのせいか白雪の帰りが遅い日が続いたこともあった。
「本当に、それだけなのか」
私がこの場から離れようとした時、玄関の扉が開いた。来夏が家に戻って来たのかと思ったが、それが間違っているとすぐにわかった。
「あ、椿綺……」
白雪は昨日と同じ服を着ている。
「白雪、お前は……!」
私の感情が揺らいだ瞬間、急速に冷めた。白雪の隣に立っている人間。あの弁当屋の店長をやっている男だ。他人の前で感情的な説教なんて私には出来なかった。
「白雪。話がある。リビングに来い」
「待って、椿綺。私は……」
「……っ」
なんだ、この違和感は。
白雪の雰囲気がいつもと違う。そこに立っている人間が、私の知っている白雪ではないという不気味な感覚があった。
「扉を閉めてくれ」
白雪は玄関の扉を閉めた。白雪の隣には、あの男もいるが、その顔からは素敵な笑顔が消えていた。
「椿綺、あのね……」
「白雪。朝帰りの理由を話せ」
これは姉妹の対話ではなかった。
一方的な主張の押し付け合い。相手の気に入らない部分を押し潰すような、最悪なやりとりだ。
「私だって、もう子供じゃない」
「子供じゃない、か。だったら、何故、連絡をよこさない?後ろめたい気持ちがあったから、私に黙っていたんだろ?」
「それは……椿綺に言ったらダメって言われるから……」
「何故、私がそう答えるか理解出来ないか?」
いつもなら、この辺りで白雪は自分の非を認めるだろう。しかし、今日に限っては白雪が引き下がる様子はなかった。隣に立っている男と白雪の繋がれた手が覚悟の証明となっていた。
「私は二人の交際に関して、口を出すつもりはなかった。だが、店が大変な時にお前達は何をやっているんだ?」
破滅の未来。
そんな最悪な結末すら今は想像が出来る。
私は白雪には今は我慢するように伝えていた。どちらかがしっかりしなければ、店を潰すことになってしまうというのに。
私との約束を白雪は破った。
「私達だって毎日お仕事頑張ってるんだよ……」
「頑張るだけなら誰にでも出来る」
「少しくらい、辛いことから目を背けて何が悪いの……」
「目を背けても、現実は変わらない。そこにある現実は自分の選んだ結果によって成り立っている。だったら、目を背けずに少しでもよくしようと思わないのか?」
白雪が大きく動き、私の服を掴んできた。
「子供のくせに、大人ぶらないでよ」
「それは誰かさんがずっと子供だったせいだ」
本音と本音のぶつかり合い。
本当に醜くて、くだらない。
「椿綺って、私のこと嫌いでしょ?」
「いいや。愛している」
「だったら、どうして私のことを否定するの?」
愛してるからこそ、駄目な部分を否定したくなるのではないか。より良く、白雪には幸せに生きてほしいと願っているからこそ、私は簡単に引き下がるわけにはいかない。
「白雪。お前は普通の人間とは違う」
「そんなのわかってる」
「なら、どうして。自分の方が正しいと思える?」
私は徹底的に白雪と向き合うことにした。
生まれて初めて、本気でやる姉妹喧嘩だ。暴力ではなく、口喧嘩になってしまうのが、この姉妹の残念なところだが。
「誰かにとっては間違っていることでも、私にとっては正しいことだから。椿綺の言葉がすべて正しいなんて思わない」
「白雪。この世界は私の言葉通りに生きる人間の方が多いはずだ。それを否定するということは、自分達の方が間違っているからだと理解が出来ないのか?」
男の体がわずかに動いたが、白雪が止めた。先程から男が黙っているのは、これが大事な話し合いだと理解しているからだろう。
もし、私の言葉で白雪の心が折れるようなら。
二人の関係は強引にでも終わらせるべきだ。
「椿綺が言ってるのは綺麗事だよ。世の中そんなに上手くいかないし、理不尽なことだってたくさんある。なのに、椿綺は全部想像で話をしている」
「確かに私は想像で語っている部分もある。人の感情という要素が、より不可解で理不尽な事象を生み出すのだろう」
私は一度呼吸を整えた。
続けて言葉を告げる為に。
「だったら、白雪は私の言葉を聞かずに耳を塞げばいい。説得なんてものは不要だ。お前と私が分かり合うことなんて絶対にありえないのだから」
白雪の理想とする世界に私は共感が出来なかった。結局、白雪は自分の意見を私に押し付けているだけだ。そんなもの納得出来るわけもなく、私は白雪を強く否定した。
「椿綺。私は……」
その時、白雪の心が揺らいだように見えた。
本当は白雪が優しい人間だと、私は誰よりも知っている。自分の妹に罵声を浴び続けるほど白雪の心は強く育ってはいない。
だからこそ、私が白雪の背中を押す必要があった。白雪の妹として、今出来ること。姉を立派な人間にする為に何を犠牲するべきか、選択をしなくてはならない。
私はずっと心配だった。
白雪は普通の人間とは違う。ただ、生きているだけで、周りのものを傷つけていく。誰も幸せに出来ない、哀れな存在だった。
しかし、そんな白雪を受け入れてくれる人間が見つかった。今は浮かれて、馬鹿なことをしているが、すぐに彼もわかってくれるだろう。
白雪は幸せにするべき人間なんだと。
本当に白雪を幸せに出来るのは私ではない。
私は白雪が幸せになってくれるなら。
自分の幸せを手放しても構わなかった。
「白雪」
いつも通りの私だ。
何も変わらない。
だから、この言葉を白雪に贈ろう。
白雪がもっとも、聞きたくない言葉を。
「お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃだ」
私は白雪に突き飛ばされた。
壁に背中をぶつけ、地面にずり落ちた。
「椿綺なんか、大嫌い!」
白雪は大声を上げて、男と一緒に家を飛び出して行った。玄関の扉が力強く閉められ、私の耳に響いた。
もう、白雪は家に帰って来ないだろう。
私の吐いた言葉は呪いと同じだ。しばらくは白雪は苦しむことになるが、いずれ私の存在と一緒に呪いすらも忘れるだろう。
「私の役目も終わりだな……」
すぐには受け入れられなかったが、時間が経てば私の動揺も治まるだろう。私はずり落ちるようにして、床に倒れた。
全身の力が抜けたような感覚。あやつり人形の糸が全部切れたかのように、私は体に力が入らなくなっていた。
酷い脱力感。白雪を失った私にどれほどの価値があるというのか。誰も答えてはくれず、誰もいない世界で、私は無駄な時間が経過させた。
時を刻むほど、私が白雪を失ったという実感が得られた。引き換えに私の中で不快な感覚が膨れ上がり、心が蝕まれていくようだ。
「雨……」
窓の向こうに見える灰色の空。
私は立ち上がり、外に出ることにした。
私に罰を与えてくれる人間を探す為に。
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