第17話。椿綺の落花

 灰色の空から雨が落ちてくる。


 雨の中をふらふら歩き続け、私は目的の場所に辿り着いた。この場所には以前、一度だけ来夏らいかと一緒に荷物を取りに来たことがあった。


 二階建てのアパート。建てられてから随分経っているのか、外から見れば廃墟のようにも見えてしまう。


「確か、この部屋だったか」


 私は玄関前の呼び鈴を押して、扉が開くのを待った。相手が出なければ再び呼び鈴を鳴らして、また待ち続ける。


 すると、家の中から足音が聞こえ、扉が開いた。


「何度もうるせぇぞ」


 ようやく姿を見せたのは、来夏の父親だった。


「来夏はいるか?」


「アイツならずっと帰ってきないぞ」


 男が扉を閉めようとした時、私は足を挟んで止めた。想像していたよりも痛い。


「何の真似だ?」


「来夏のことで話がある」


「お前、大人を舐めてるのか?」


 私の態度に腹を立てたのか、男が再び扉を開いた。いつもよりも私が言葉遣いに気を使っていないのは、相手が尊敬に値しない存在だからだ。


「お前は来夏を虐待しているだろ?」


「だったら、なんだって言うんだ?警察にでも通報するか?アイツらに言ったところで、相手にもしてもらえないだろうよ」


「何故、来夏を虐待するんだ?」


「来夏が俺の所有物だからだよ。アイツをどうしようが、俺の自由なんだよ」


 これが人の親なのだろうか。話し合いで解決するとは思っていなかったが、そもそも私の望みは来夏の救済ではなかった。


「来夏を暴力をふるのをやめてほしい」


 私は頭を下げた。気持ちの一つも込められていない謝罪だ。相手には何も伝わらないだろう。


「俺がお前の頼みを聞くわけがないだろ」


 私は顔を上げで、決めていた言葉を思い出す。


「もし、来夏に手を出さないと約束をしてくれるなら。私の体を自由にしてもらっても構わない」


 これは白雪しらゆきを傷つけた私が自分に与える罰だった。きっと誰も私の行動を認めてはくれないだろう。来夏に恨まれる結果になろうとも、私の考えは変わらない。


「……」


 先程とは違って、男は迷っているようだった。


 問題があるとすれば私の年齢だろう。迂闊に手を出せば、痛い目を見るのは自分の方だと男は理解している。


「だったら、俺の子供を産んでくれよ」


 返ってきた要求は、想像を遥かに超えていた。


 この男は私を孕ませようというのか。


 自分の娘と同じ歳の人間に対して、そのような考えが浮かぶのは異常だ。初めから知っていたが、この男は本当にろくでもない人間のようだ。


「お前の子供を産めば、来夏は自由になれるのか?」


「ああ。その時は来夏をお前にくれてやるよ」


 男を信用はしていないが、私に手を出したのなら黙らせる方法も手に入る。男が約束を破ったとしても、来夏を父親から引き離すことは出来るだろう。


「わかった。約束は守ってくれ」


 私は家の中に足を踏み入れた。部屋にはゴミが散乱しており、臭いも酷い。ただそこだけは睡眠の為に確保されているのか、汚れた布団が目に止まった。


「いいか、騒いだりするなよ」


 恐怖。今、私は確かに恐れを感じている。


 ここから生きて出られるかもわからない。


 だが、これから起きる出来事に比べれば、私の抱いたささいな恐怖なんて塗り潰せるはずだ。覚悟を決める必要はない。


 これは私が受けるべき罰だ。


 私は目を閉じた。あとは男に身を委ねて、私はすべてが終わる時を待てばいい。私の体が男の欲望で穢されようとも、私の心は何一つ変わりはしないのだから。




「……っ」


 永遠にも思えた時間の終わり。


 それを告げたのは、一つの気配だった。


 男は私の体に夢中で気づかなかったが、ソレは確かに存在していた。


 私が見たのは、人間の顔をした鬼だ。鬼は何かを振り下ろして男の頭を殴りつけた。男が酷い声を上げるが、さらに鬼は男を殴りつけ、何度も何度も何度も、殴りつけ。男が動かなくなるまで、繰り返された。


 最後に男が力なく倒れた時、私は男から離れた。


「……なぜ、ここにいる?」


 鬼は私を見ていた。


「私の家だからですよ」


 その鬼の正体は来夏だった。来夏の手にはバールのようなものが握られており、返り血を浴びていた。


椿綺つばきさん。私、父のことが嫌いでした」


 それは屍に向けられた言葉のように聞こえた。


「理由もなく殴られて、邪魔者扱いされて。この世界に生まれたことを私は何度も後悔しました」


 来夏の過ごした日々がどれほど酷いものだったのか私には想像すら出来ない。


「でも、殺すほどじゃありませんでした。だって、いつの日か、父が罰を受ける日が来るんじゃないかと、ワクワクしていたんです」


 既に来夏は手遅れだったのかもしれない。ここで父親を排除しても、来夏が本当の意味で救われることはなかった。


「なのに……どうして……」


 来夏が私の体に目を向けてくる。


「来夏。これは私が望んだことだ」


「そんなの、許されないですよ!」


 来夏が鈍器を私に向けてくる。来夏の顔には怒りや悲しみ、様々な感情が浮かび上がっていた。


「……私を殺すのか?」


「殺さないですよ。椿綺さんは外に出てください」


「来夏……」


「お願いします。今は言う通りにしてください」


 私は立ち上がって、外に出ることにした。まだ外は雨が降っていたが、私は喉の渇きを潤す為に近くの自販機まで足を運んだ。


 冷たい雨が全身の熱を引かせるようだ。


 私は自販機の取り出し口から、飲み物を取り出そうとした。それが上手く掴めず、しゃかんだ。


「……死の臭い」


 ゆっくりと振り向いた時、目の前の光景がすぐには理解は出来なかった。灰色の世界を切り裂くように紅葉のような鮮やかな炎が上がっていたのだから。


「来夏っ!」


 私は急いでアパートに戻ろうとした。しかし、他の部屋から飛び出してきた住人とぶつかり、私は地面に倒れた。


「くっ……」


 すぐに立ち上がろうとしたが、私を見下ろす少女がいた。少女は手を差し出しており、私の行動が無意味だったと思い知らされた。


「椿綺さん。立てますか?」


「来夏……」


 私は来夏の手を掴み、立ち上がった。


 すぐに建物からは離れたが、来夏は逃げるつもりないのか。燃え続ける建物をただ静かに見つめていた。


「どうして、火をつけた?」


 来夏が放火したことには気づいていた。


「……タバコの火が布団に落ちて、近くにあるゴミに炎が燃え移った。父は逃げ遅れて、そのまま死んでしまった」


「何を言っているんだ?」


「そんな終わり方だったら、十分な罰になるんじゃないですか。まあ、自分の娘に殺されることに比べたら幸せかもしれないですけど」


 来夏が証拠隠滅を計ったのだと思った。


 しかし、あの男が殴られて死んだことは調べられたらわかるはずだ。それでも火をつけたのは、娘なりの父親に対する最後の恩返しのようなものだろう。


「椿綺さん。私は罰を受けます」


「それに何の意味があるんだ?」


「父との関係を……すべての呪いを断ち切る為には必要なことだと考えてます」


 もしかしたら、来夏はずっと前から父親のことを殺そうとしていたのではないか。来夏が持っていた道具も初めから用意されていたと考えれば、来夏には明確な殺意があったということだ。


「……私も椿綺さんと同じだから」


 来夏が自らの腹を触っていた。


 それがどんな意味なのか、理解したくもない。


「椿綺さん。ありがとうございます」


「来夏は本当にこれでよかったのか?」


「はい。私に必要だったのはキッカケだけです」


 その時、来夏は幸せにそうに笑っていた。


 羨ましいくらいの笑顔。人を殺して、笑っていられるのは狂人か。あるいは既に心が壊れている人間くらいなものだろう。


「哀れだな」


 その後、来夏がどうなったか私は知らない。


 もし、来夏が自らの命を絶つような選択をするとしたら、あの炎の中で父親と共に死んでいたはずだ。


 来夏は一生罪を背負いながら、生き続けるのだろう。それだけの覚悟が来夏にはあったのだから。




「来夏には悪いことをしたな」


 誰にも届かない独り言。白雪と来夏を失った私には何も残されていなかった。ただ、不思議と孤独であることは忘れられた。


「なあ、お前は……」


 誰も座っていない椅子。


 そこに誰かが居なくても構わなかった。


「……私にとって、大切なモノになるのか」


 私は今も罰を受け続けていた。

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