蜘蛛の糸の背後にあったお話

@oka2258

全話

カンダタが登っていた蜘蛛の糸が切れ、彼とその後ろから登っていた何千何百の罪人が地獄に落ちていく。


蓮の池を通してそれを見ていたお釈迦様が少し悲しげに去っていかれた後、蓮の池の周りには天部衆が集まってきた。


「危ないところでしたな。

カンダタや他の罪人が本当に上がってくるかとヒヤヒヤしましたぞ」


口火を切ったのは梵天である。


「いやいや、危機一髪とはこのことかと。

お釈迦様の御慈悲の心は誠にありがたいものですが、それを発揮される時と場所を考慮頂きたいものです」


帝釈天がそれに呼応する。


「ガンダタやそれに類する悪人どもが極楽に来たらどんなに治安が悪くなることやら。

アタシや吉祥天などはここには住めずに逃げていかなきゃならないわ」


「本当に怖かったわ」

弁財天と吉祥天が顔を見合わせて体を震わせる。


「それは大丈夫だ。

奴らが上がってきたらすぐに叩き落としてやる準備はしていたからな」


毘沙門天の言葉に残りの四天王は、そのとおりと槍や刀を高く掲げて振り回す。


「私は奴らが来たら面白いと期待していたのだがね。

この極楽は退屈すぎる。

あいつらを組織して帝釈天と一戦交えてやるかと思っていたのに残念だ」


どこまで本気なのか真面目な顔でそんな事をいうのは阿修羅。


それに生真面目な帝釈天が「お望みならここでもう一度負かしてやるぞ」と怒り始めて場が混沌とした時、「馬鹿げたことをおやめなさい」と涼やかな、しかし毅然とした声がする。


声の方を見れば観音菩薩である。


「すべてはお釈迦様の掌の上。

結果をお見通しの上で、悪人でも良きことを成せば救いの手を差し伸べようと教えられたに決まっているではありませんか。

それを怯えたり、怒ったり、それでは悟りに至るのはまだまだ遠いですね」


観音菩薩の説明に、一同が修行への一層の精進を誓ったところに、蓮の池の下から大きな声が響いてきた。


「その結果をもたらすために、儂らがどれほど苦労したか。

お釈迦様は結果はわかるのかも知れないが、儂らはそんなこと知る由もない」


「何をお怒りですか、閻魔大王」


観音菩薩の声に、下から怒鳴り声が響く。


「儂が生前の行いを見て判決を下し、それを獄卒が苦労しながら執行している。


それを極悪人のカンダタが脱獄しようとしており、それも手助けしたのがお釈迦様と聞いて、儂らがどれほど驚いたか」


一旦切れた言葉はすぐに続く。


「お釈迦様が見ている手前、無理やり引きずり下ろす訳にも行かず、更に他の重罪人まで後に続く始末。


こんな脱獄を許せば地獄の秩序も現世の善悪もなくなる。

どんな極悪人でも極楽に行ければ誰が善行をしよう。

地獄の存在意義はなくなり、儂らは失業じゃ」


聞いている観音菩薩や天部衆はその声の迫力に呑まれ、声も出ない。


「あのカンダタの上から糸が切れたこと、奴の慈悲のない言葉の為だと本当に思っているのか?


あれは儂が、これまで地獄に落ちてきた中で一番の弓の名手である紀昌に頼んだのよ。

紀昌め、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとくに引き絞ってひょうと放てば、見事に注文通りの場所の糸を絶ってくれたわ」


そう言うと閻魔大王は急に疲れたように声を落とした。


「今日は本当に危機一髪であった。

それにしてもお釈迦様は何を考えておられるのやら。

天眼通で結果はご存知であろうに」


その時、いつの間に戻ってきたのか蓮の池の側に佇んでおられたお釈迦様が言葉を発せられた。


「それはお前達の危機管理を見たのだ。

極楽や地獄も、また私についても何があるかわからない。

その時に私の天眼通に頼らずにお前達が対処できるかを見させてもらった。


閻魔大王や獄卒の見事な対応ぶりに比べ、菩薩や天部衆は私の挙動を見ているばかり。

もし、あのまま大罪人が極楽に入ってくればどうするのだ」


「それは四天王達が撃退を…」

と言いかけた観音菩薩を遮り、お釈迦様は話しを続ける。


「続々と来る地獄の住人を追い払い続けられるのか。

それよりも侵入させないようにすべきであろう。

もし私の偽物が来て、極楽を破壊しようとしていればどうするのだ」


そしてお釈迦様は蓮の池の蜘蛛から二本の糸をお取りになり、池の下にお下しされた。


「閻魔大王とその配下よ。

この糸を使って極楽に来て、しばしここでの暮らしを楽しむが良い。


そして観音菩薩と天部衆よ。

この糸を使って地獄に下り、そこで仕事をするが良い。

十分だと判断できればまた戻そう」


それを聞いた閻魔大王以下の獄卒は嬉々として蜘蛛の糸を登り始めた。

許された者以外が登ることのないよう、最後尾には紀昌が登り、容赦なく見えない矢を放つ。


観音菩薩や天部衆は暗い顔をして、糸を下り始めた。

極楽に慣れた彼らに地獄での暮らしは辛いことになりそうだ。


両者の姿を見届けてお釈迦様は、彼らの危機感のなさでは極楽の安全は危機一髪、今回の件で引き締めができたかと思いながら散策に戻られた。


そのあとは蓮の池の白い花からいい匂いが流れてくるだけであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜘蛛の糸の背後にあったお話 @oka2258

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ