異性関係

違う日の週末の夜6時。例によって仕事を終えた藍はネットカフェで一時間程時間を潰すと、また自宅とは違う場所を目指していた。しかし今回行くのは鈴佳の家ではなかった。長い髪に夜風を浴びながら颯爽と向かった先は、安っぽくもなければ高級そうでもない、至って普通のマンションだった。

エレベーターに乗ると、5階のボタンを押す。上に向かっていくさなか、藍は少し苛ついたように溜息を吐き出した。これから会う人物と会うのに気乗りがしなかったからだ。


エレベーターを降り、505号室の呼び鈴を押す。中から出てきたのは、20代半ばほどの男だった。仕事から帰ってきたばかりなのか、スーツ姿のままだ。互いにおざなりな挨拶をすると、藍は室内に通された。

中村光紀こうきというその男とは、月に一、二度こうして会う間柄だった。以前藍が居酒屋で一人飲みをしていた時に声を掛けてきた。煙草を吸っていた藍が火を点けようとしてライターが壊れたことに舌打ちをしていた時のことだった。それ以来藍は定期的に中村の家に通っていたが、交際していた訳ではなかった。——藍が自分の体を差し出す代わりに、金を貰う為だった。

中村は風貌もコミュニケーション能力も至って人並みで、特別女に困っているわけではなかった。現に中村には交際している女が居た。それでも金を出してまで藍を呼ぶのは、——自分の歪んだ性癖を満足させるためだった。

中村は行為の最中さなかに女を乱暴に扱うのが好きだった。しかし交際相手に対してはそういった嗜好を抑えている為、代わりに藍がその捌け口となっていた。

その日も藍は、顎が水平より上がる程にまで後ろから髪を掴まれ、激しく犯された。仕打ちを受けている時はもうどうにでもなれという思考だった。彼女は自分を大切にするすべを知らなかった。行為中、藍の瞳は虚ろで涙を流すことさえしなかった。涙を流すという感情の処理の仕方は、もうずっと前にどこかに置いてきてしまっていた。


「はい、いつもの」

事が終わって藍が身支度をしていると、中村から一万円札を三枚渡された。藍はそれを顔をしかめながら雑に受け取った。アルバイト生活で、節制もろくにしていないのに生活していけるのはこの稼ぎもあってのことだった。

「じゃ、あたしもう帰るから」

用意が終わると藍はさっと立ち上がった。中村から暴力的に犯されて体は疲れていたが、この家に長く留まるつもりは到底無かった。中村は苦笑いした。

「いつもつれねーな。酒の一杯でも飲んでいけばいいのによ。可愛げないな」

「そうやってまた犯されたらたまらないから」

藍は突き放すように言うと、足早に玄関に向かい、別れの挨拶もせずに中村の部屋のドアをバタンと閉めた。マンションの外に出ると空気は冷たさを増していて、藍は適当に羽織ったままになっていた上着の前を閉めた。


中村の玩具にされている自分をみじめだとは思わなかったが、同じ年頃の、普通の恋愛をしている少女達はどんな気持ちなのだろうと藍は思った。過去に二度交際はしたことがあったが、一度目はお互いがいい加減な気持ちで付き合っていて相手への尊重も幸福感もあったものではなかったし、二度目の相手は本気で好きだったが、向こうの男には他に付き合っている女がいた。しかも自分が浮気相手だった。その事実を交際早々に知り、生まれて初めて感じた幸福感はたった一週間で泡と消えた。


幸せって何だろう。どうしたら手に入るんだろう。幸福な恋愛をしたら手に入るのか?そう思ってはみたけれど、類は友を呼ぶというか、藍を浮気相手にした男といい、中村といい、荒んだ人間には荒んだ男しか寄って来なかった。

恋愛でなくても、人として幸せになることも考えたが、経験していないものはやはりどうしてもわからず、怠惰に、自虐的に人生を送ることが肌身にしみついてしまっていた。皮の脱ぎ方が分からなかった。


星が点々と浮かぶ昏い夜空を見上げた。その濃紺さは、明けない自分の人生の夜を想わせた。藍はスニーカーで石ころを蹴飛ばしながら、「あたし、どうしたらいい?」と誰にともなく心の中で呟いた。



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