第2話 事の発端
事の発端は、どこの家庭にでも転がっていそうな夫婦間の不和だった。
私は三十代後半にして女の盛りを感じるようになると、夫にその解消をお願いしてみた。すると夫は、私の弛んだ下っ腹を乱暴につまんで、鼻で笑いながら寝てしまったのだ。計画的に作った一人息子がいるのだから、女としての役目は終わったではないか、とばかりの、冷たい仕打ちだった。
お前はもう女ではない。そんなことを夫から告げられた悲しみは、掃除のときに入った息子の部屋で更に拡大した。息子のゴミ箱には、もはや私には無縁なものであることを嗤うかのように、オスの臭いが溜まっていた。別に自分の息子に欲情したわけではない。ただ、私は一生、夫の精を受けられないと思うと、ここ数年してこなかったこととはいえ、例えようのない喪失感を覚えて、悲しくなってしまったのである。「もう、一生ない」という言葉は、私の自尊心という大切な箱をひどく圧迫してきて、最終的にはその箱が潰されてしまうのではないかという、恐怖を与えてくるのだ。
私の喪失感は夫のそれでもあると思っていたのだが、実際にはそうでないどころか、もっと恐ろしい事実が待っていた。夫は他の女と不倫をしているようなのだ。具体的な証拠を掴むには至ってはいないが、夫はよく情事を終えた後の高揚感を帰宅時に持ち込んできた。近づけば、覚えない石鹸の香りもする。夫が私を捨てて他の女と不倫していることに、私は純粋な怒りを覚えた。具体的に言えば、不倫自体よりも、私を相手にしなくなったことに対して怒っているのだと思う。「男なんて、性欲をぶら下げて歩いているものだ」と、母はよく笑って言っていたが、私には、夫の振る舞いをそんな笑い話として理解することができなかった。自分の欲求不満を解消すべき相手が、自分だけ快楽を追求しているなんてことは、どうしても許せないのである。
だから、私はその愚痴を聞いてもらおうと、あの友人を誘って喫茶店に入った。友人は私の泣き言を最後まで黙って聞くと、「少し外の空気を吸いましょうよ」と言って、私を連れて行ったのが、あの公園だった。友人は私の愚痴の内容を予想して、あの薬を持ってきたのだろうか。私は少しだけ疑問になったが、それ以上に私の頭の中は、その薬を何に混ぜて一回目の殺人をしてやろうかということで、一杯になっていたのだった。
帰宅して、買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていくと、私の視界にビールの茶色い瓶が入った。
「――そうか。これは良い方法かもしれない」
一回目の殺人方法は決まった。後はバレないように、夫の好物でも作って目を逸らさせればよいのだ。私はこれで夫を一回殺すことができると思うと、昨日からの偏頭痛を不思議なくらいに感じなくなっている。ちょうど良いことに、犯行時は息子は塾で帰りが遅い。薬は十回目でないと本当には死ぬことはないのだから、とてもお気楽な殺人ではないか。
「ただいま」
都合の良い条件は重なり、今日は水曜日の定時上がりだったので、夫の帰りが早かった。これで、息子に見られる心配は皆無になった。結婚して十五年も経つが、私は夫が帰宅したことに、久々に胸が躍った。
「おかえりなさい」
私はできるだけいつものような表情と声のトーンを保とうと努力をしながら、これから死ぬ夫を迎えてあげるのだった。
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