第3話

 木枯らしが強くなってきた夜の街を、駆けていく。目的地は、もちろん逢見川にかかるあの橋だ。

 橋が見えてくると、長髪姿のシルエットがあった。今回は庵織の方が早く着いたらしい。

「みなとさん、こんばんは」

 庵織が話しかける。

「お、おう」

 こんばんはというかしこまった言葉を言うのは少し恥ずかしかったので、目を合わせられず、適当に応える。

「行きますか」

 庵織のその一言で十分だった。俺たちは歩き出した。何をするのかというと、散歩に行くのだ。夜の街に。毎日のように待ち合わせをし、特にあてもなくぶらぶらと歩いているが、かれこれ一週間くらいが立つ。

 庵織に夜の散歩に誘われたのは、庵織に死ぬ資格がないのではと言われた後だった。聞くに、庵織は一年位前から夜道を散歩しているらしい。

「少しでもみなとさんの死にたい気持ちが薄らいでくれれば、嬉しいのです」散歩をした初日に庵織に言われた言葉が、不思議と心にずっと残って、何度も頭の中で再生されている。庵織はどうなのだろう。散歩をすることで死にたさは薄らいでいるのだろうか。

 風が強く吹き、しばらく切っていないもっさりとした髪をぐちゃぐちゃにしていく。鬱陶しい。そろそろ冬の片鱗が見え始めている。夜だと、特に顕著だ。寒いから当たり前だろうが。

 庵織とは、色んな所に行く。気分によって、今日は西とか、東とか。遠出したい気分だと隣町まで行ったり、動きたくない日だと、公園にずっと留まっていたりする。

「行きたいところとか、希望はあるのです?」

「ううん、特に」

「分かりました」

 庵織はたまに、こうやって行き先のリクエストを聞く。俺は別に行きたいところはないし、あくまで庵織の散歩に付き添う形なので、リクエストは出さないようにしている。

「どうしましょうか」

 庵織が上を向いて思案する。

「そうだ、潮の風に当たりたい気分なのです。海に行きましょう」

 庵織は明瞭な声で言った。

「け、結構遠いな……」

「駄目ですか?」

「そうじゃないけど……」

「大丈夫です。みなとさんはこの一週間、私と一緒に歩いてきたじゃないですか。体力もついているし、きっと余裕なのです」

 ここから海の距離は大体二キロメートルくらいある。正直歩くのは面倒くさいが、庵織の言う通り、体力もついてきたし、健康のためにも運動だと思うことにした。

「分かった。行くよ」

 庵織は海の方に足を向け、歩き出した。

 俺はそれに倣ってついて行く。

 沈黙の時間が始まった。初めは気まず過ぎて何か話そうともたもたしていた。しかし、庵織は沈黙が苦にならないタイプらしい。そういうタイプの人は初めて会ったので、慣れるのに結構時間がかかった。

 何も喋らないからこそ、周りのことがよく見える。例えば空。夜の暗さに目が慣れてくると、自分の思っていた何倍も星が多く見える。前は月の明るさに驚かされたが、今回は星だった。

 この街は都会というにしては住宅地ばっかでビルが目立たないが、一面田んぼという典型的な田舎ほどではない。つまりそこそこ栄えている街だと思っていて、夜も明るいから星なんてあまり見えないだろうと思い込んでいたが、そうでもないらしい。

 他にも気づくことがある。夜は静かなこと。言っちゃあ当たり前だが、俺の感じたものはその当たり前ではなかった。たまにその時間帯に起きる昼下がりの、静けさとはまた違うのだ。あのときは、室内の窓から自動車の排気ガスの音だったり、スズメやキジバトが時折り鳴いている音が聞こえた。今は本当になんの音もしない。強いて言うなら、たまに道を走り急く自動車や、暴走族、消防車の火事防止のサイレンくらい。本当に街全体が寝静まりかえっている。鳥一匹も起きていない。実際には、住宅に所々ある白い光の奥にはまだ起きている人はいるし、もっと都会に行ったら人の一人や二人は道端にいるだろう。

 しかし、本当にこの世界に二人ぼっちしかいないかのような錯覚を覚えた。

 遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。散歩初日は、深夜に子供二人でいつ警察に見つかって補導されるのかビクビクしていたが、そんな恐怖も日を経るごとに、なくなっていた。

 だいぶ歩いて、流石に疲れた時、ふと塩っぽい風が鼻孔をくすぐった。

「そろそろ着きますね」

 庵織が言った。

「やっとか・・・・・・」

 そう呟いた途端、まだ片道だったことに気づいた。この後、同じくらい長い道を辿って帰らねばならないのだ。

「明日は筋肉痛か」

「ふふっ」

「あ、えっなんか変なこと言っちゃった?」

「みなとさんの独り言が、ちょっとツボっちゃったのです。ふふ」

 浜と道路の境にある防波堤によじ登ると、そこには大きな黒があった。夜に海を見たことがある人はいるだろうか。多分少ないだろう。俺も今まで見たことがなかった。絵とかでよく見る紺色ではない、本当に黒なのだ。

 それこそ墨汁のように。海の真ん中で、登りたての月だけが、海面映しだされ、薄白く光っていた。

 また、風がさらに強くなった。冷気が頬を往復ビンタしてくる。

 庵織の方を見ると、その場に座り込んでリラックスしていた。

「あれ、海の方に行かないのか」

「ここの浜は石浜じゃないですか。足元が見えない夜は、浜の方に行くのはやめているのです」

「なるほど」

 ここの浜は、一般的に想像する砂浜とは違い、石だけでできた浜、庵織の言葉を借りるなら石浜である。

 以前、アウトドアな従姉弟が家に遊びに来た時、この浜に連れてかれたが、インドアな俺は足がもつれて捻挫した。ただでさえ明るいときに怪我をするのだから、暗いときはなおさら危ない。

 俺も腰を下ろした。

 ここからでも、風の騒音に交じって、波の寄せては返す音が聞こえてくる。

「星が綺麗。どの星ががどの星座なのでしょうか。あっちがふたご座?それともこっち?」

「こっちがボルックスとカストルで、二つ揃って双子座。それであっちが魚座。それから冬の星座で一番有名なオリオン座。左上の星がベテルギウスで、右下の星がリゲル。あと、あそこにあるおおいぬ座のとシリウスとそっちのこいぬ犬座プロキオンと、さっきのベテルギウスを繋いだのが冬の三角形。あとは・・・・・・」

 そう言って庵織の方を向いてから、しまったと瞬時に思った。またやってしまった。俺はしょっちゅう、うんちくをたらたら言ってしまう癖がある。

『うわ、オタクくせえ。キンモッ。他の奴らより僕ちんはこんだけ知識があるんですよーってユウエツカンにヒタッテてるんだろ?どうせお前気づいてないだろうから教えてやるよ。お前の早口うんちく、みんな心ん中でうっぜえと思ってるぞ』

 ・・・・・・あぁ嫌な記憶がフラッシュバックしてしまった。庵織に迷惑を掛けないように、下らないうんちくを語るのは今後やめようと決心しようとした、のだが。

「え!凄いのです!なんでそんなに詳しいのですか?」

「小学校の時に、たまたま図書館にあったギリシャ神話の図鑑があったから読んだだけ」

「一冊だけなのですか」

「あと、ついでに星座が載ってる宇宙の本を読んだだけ」

「ヤバいのです。ヤバすぎるのです。どんだけ記憶力いいのですか!?」

 庵織の目には、面倒くさそうな色も、困惑も苦笑いもなく、ただ純粋な感嘆があった。俺にはそれがとても信じられず、

「ご、ごめん、もうしないから」

と目をそらすが、

「え?なんで謝るのですか?もしかして私、そんなに変な顔してたのす?」

「そうじゃないけど、前に、その・・・・・・いやな顔された時があったから」

「そんな人もいるんですか。信じられないのです。私はみなとさんのお話聞くの、楽しいですよ」

 庵織は俺の話を面白いとまで言ってくれた。

「それにしても誰ですか!みなとさんに悪口を言った人は」

「そこまで言ってないよ。いやな顔されただけだから」

「みなとさん、その人のことなんて気にしちゃだめですよ・・・・・・クシュンッ!」

 庵織が鼻元を手で押さえた。

「大丈夫か」

「大丈夫なのです。でも冷えちゃいましたね。そろそろ帰りますか」

 俺と庵織は帰路についた。

 体は冷えて、今にもガタガタ震えそうな顎を必死に止めていたが、不思議と心は穏やかになって、頭は明瞭になった気分だった。やはり海には何か力があるのだろうか。

 また、庵織の言葉で、いくらか、いや随分と心が掬われた。

「そうだ、言い忘れていたのです。実は明後日に天文同好会の星観察会があるのです。良ければ来ます?」

 庵織の言ったことに、俺は嫌な予感がした。

「天文同好会ってなんだ?」

「あ、説明するの忘れていたのです。天文同好会っていうのは今年できたクラブで、部活みたいなものです。会員は少ないですけど、みんないい人ばっかでとっても居心地がいいです」

「へー・・・・・・」

「みなとさんは星にも詳しいって分かったので尚更来て欲しいのです」

 ぶっちゃけ行きたくない。そもそも俺はコミュ障で人との関りは苦手である。ましてや不登校になってからはその傾向は悪化している。全くもって行く気が湧かない。言った所で誰にも話しかけられずに終わるだろう。

「どうしよっかなぁ・・・・・・」

「その日に何か用事でもありますか?」

「ない、けど」

「だったら大丈夫ですね。お願いです!一回だけでいいので」

「わ、分かったよ・・・・・・」

 俺は星観察会とやらに行くことになった。

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