完全な犯罪 一万文字ミステリー②

狭霧

完全な犯罪

 何か気になることでもあるのか、喫茶店の、何人もいない客を神経質そうに見回している。

 その男は私の目の前に腰を下ろしている。くたびれたコートは片襟が立っている。着方もだらしないが、コート自体、只くたびれているのではなく、所々に汚れが目立つ。右袖口にはソースか何かのシミもある。その男の差し出した名刺には〈調査員・川辺泰介〉と書かれている。裏面を見ても他の文言は何も無い。電話番号すら書かれてはいない。私は上目遣いで男を見た。これで怪しんでいることは男にも十分に伝わるはずだ。

「観察――ですか」

 名刺と男を見比べて私は呟いた。男は私の手から名刺を取ってポケットに仕舞い込んだ。使い回す気なのだろうと思うと気の毒にも思えた。

「観察です。それ以上のことはお願いしませんよ。ご安心ください」

「安心しろと言われてもねえ」

 男は身を乗り出し、ジャケットの内ポケットから封筒を取りだした。

「これは、お願い出来る場合のお礼です。百入っています。期間終了後には、残りの百をお支払いします」

 合計二百万円。隣人を観察するだけで手に入るという。

「面倒をお願いしたいのではありません。ただ、田所宗一というお隣さんを観察し、その日の動きなどを報告していただければいいんです」

「報告すれば良い――と簡単に言われても、観察とやらは一日中でしょう?私が見ていない時間帯だってある。そこはどうするんです?どうしてくれる!なんて後で言われても困りますよ」

「それはご心配なく。決してそんなことは言いません。あなたが観察出来た範囲でいいんです。勿論可能な限り気を配ってはいただきたいですがね」

 一ヶ月間、隣人を見張ってくれるだけで二百万の――税申告の必要が無い報酬になると男は言うが、私には気になって仕方が無いことがふたつある。

「なぜあなたがやらないんです?」

 男は椅子にもたれ、苦笑を見せた。

「無理なんです。その人物は大変に鼻の利く男で、私らの臭いを嗅ぎ分けてしまう。その点あなたは私ら側の人間ではない。それにね、もしもこちらで誰か用意して空いている部屋に入居なんかさせたら、それこそ怪しまれます。だから田所よりも先に入居していたあなたを選んだんです」

 なるほど――と一応頷ける理屈ではある。

「もうひとつ、この人は……何をしたんです?犯罪ですか?凶悪な人なんかイヤですよ?」

 それにも男はニヤリと笑って見せた。

「全然!粗暴だとか、犯罪歴があるなんて話ではありません。恐らくですが、日常は静かなものでしょう。目立たず、周囲ともトラブルなど起こさない人間です」

「そんな人を見張るんですか?意味あります?」

 男はジッと私を見て言った。

「あります。とても重要なことなんです。あなたの働き如何では、あなたはとてつもない人助けをすることになるでしょうね」

 目立たなく静かな人間を観察する――この、実に楽そうな依頼を結局私は受けた。仕事も失っていた私の背を積まれた札に押されたわけだが、この時はまさかこれほど大変な事になるとは想像もしていなかったのだ。


 部屋に戻り、もう一度渡された紙を読んでみた。初めに〈指令書〉と題されている。

「CIAかよ」

 大袈裟に思えるが二百万だ。そのうちの百万はすでに受け取っている。冗談とは到底思えない。

 箇条書きで三項目記されている。

〈早朝から深夜まで、許す限り長時間隣室の様子を記録する〉

〈出入りする者がいれば可能な限り盗撮する。不可能ならば特徴を記録する〉

〈外出は可能な限り尾行し、どこへ行き、何をし、何を買ったか記録する〉

「なんだこれ?」

 思わず声にした。

「刑事かよ」

 CIAから刑事に変わった。

「粗暴とかじゃないとか、犯罪者じゃ無いとか言ってたが本当だろうか」

 私は指令書を見つめた。

「そう言えばあの男、妙なことも言ってたな。読み終えたらこの髪は必ず焼き捨てるように――とか。探偵事務所か何かなんだろうが、凝りすぎてないか?」

 私は流し台で紙に火を付けた。燃えて落ち、全てが灰と化した。


 約束の期間は一ヶ月。私は早速準備に取りかかった。まずは記録を取る為のノートと筆記具を揃えた。カメラはスマホで良いとして、尾行をするのなら変装も必須に思えた。何しろ隣人なのだ。顔を覚えられたら、尾行など出来るものでは無い。

 幸い対象である田所宗一は引っ越してきても挨拶にも来ない付き合いの悪い人物だ。こちらに関心が無いのは好都合と言えた。

 観察を始めた初日で、田所という人物には個人的な興味を失ってしまった。初めはどんな奇妙な男なのだろう?などとも思ったのだが、想像したのとは違い、田所宗一は実に地味な人物だった。

「銀行員なんだな…」

 田所宗一は、私も住むそのアパートの隣にある信用金庫の職員をしていた。ATMからそれとなく覗いてみたが、奥で事務仕事をしていた。

「まさか一日中信金のソファーに陣取るわけにはいかないよな」

 バカな独り言を言い、自室に戻った。不意に疑念が頭をもたげる。

「もしかして、この仕事の依頼者ってのは田所宗一の上司とかなにかで、素行を知りたいとか?うん、無い線じゃない!」

 ギャンブルや女に散財して業務上横領を働く――よくある話だ。テレビのワイドショーで今まさにそんなニュースが流れている。

「なるほど、確かに人助けにはなるのかも知れない」

 頷き、ノートを開いた。時系列で簡単な行動メモを記す。書けることは少ない。何時に起き、何時に洗濯を干し、何時に出勤した――程度だ。

「いずれ田所は競馬場やキャバクラに行く。尻尾を捕まえてやるぜ!」

 奇妙にやる気が出てきた。やはり人間は自分に託された仕事の意味を知るということが大切だ。

 夜八時、隣室の明かりが灯った。

「銀行員って随分帰りが遅いんだな」

 三時に閉めたら四時くらいには帰れるのだろうと、勝手にずっと思っていたが、どうやらそうでは無いらしい。再びドアの開く音がしたのでこちらもソッと開けて見た。着替えた田所が階段に向かうのが見えたので慌てて後を追った。

「よし!キャバクラだ!」

 勇んで階段に向かう。

「なんだ?」

 階段を下りると、工事業者らしき数人の男達が図面を見て話し合っているのと出会った。

「じゃあ通行人に注意して、ここにパイロンを置き――」

 何かの工事らしいが、こんな時刻に打ち合わせる必要も無いだろうに――と思いつつ私は田所の後を追った。

 田所はアパート前の商店街をゆっくりと歩いていた。帰宅を急ぐ者達で、結構な人が歩いている。見失わないように付いていった。

 2分も行くと小さなスーパーがある。すでに主婦達の姿はなく、帰りがけの買い物客だけだ。その多くが惣菜コーナーに立ち寄る。手にするのは、値引きされた弁当類だ。田所も弁当とカップ味噌汁を手にした。レジに向かう際、お菓子のコーナーからスナックを二袋、カゴに放り込むのも見えた。私も同じ商品をカゴに入れ、列に並んだ。

 買い物を終えた田所は傍のコンビニに寄って雑誌を眺めた。いかがわしい本には目もくれず、経済誌を立ち読みしている。

「まじめか」

 暇なのでツッコミたくもなるというものだ。

 それも済むとアパートに戻った。業者の姿はすでに無く、階段を上がって田所は自室に入った。部屋は静まり。それきり深夜まで物音一つ聞こえては来なかった。

「これだけ?」

 いやいや、これから奴は本性を現すに違いない。私はノートに書き込んだ。

〈八時に帰宅〉

〈着替えて近所のスーパーへ〉

〈竜田揚げ弁当を半額で買い、スナックを二袋購入 合計五百五十円〉

〈隣のコンビニで雑誌の立ち読み 経済雑誌〉

〈八時三十八分帰宅 以後動き無し〉

 ペンを置く。

「さあ、明日からも暴いてやるぞ!」

 ベランダに置いた小さな鏡で田所の部屋の明かりは見える。それが消えたのは深夜一時だった。私も布団に入った。

 早朝、工事の音で目が覚めた。時計は午前八時だ。

「なんだよ、くっそ喧しいな」

 まさに騒音だ。ドドド……!ガガガ……!と鳴り響き、アパートが震えている。

「マジかよ……」

 こんな工事が入るなどと大家からも聞いてはいない。そもそもが遠くに暮らす老いた大家だ、運営は駅前の、これもまた老人一人でやっている不動産屋に仲介して細々と続けている。連絡もあったのか無かったのか――。ぼやきながら起き上がった。

 ハッとした。廊下のドアをソッと開けると、今まさに田所はドアを閉めて施錠をしているところだった。

「あっぶねえ……危うく見逃すところだったぞ。にしてもあれは出勤の恰好だな?ならまあいいか」

 すぐに商店街任したベランダの窓から下を見下ろした。田所の頭が見えた。田所は隣の信金へと入っていった。

 私も着替えた。田所の仕事が銀行員だと知った私は、親戚でやはり銀行に勤めている従兄に訊いてみた。すると従兄は「外回りもあるぜ。預け入れを預かったり、大口さんには金融商品を紹介したりもするんだ。ペコペコしてカネ集めて運用し、利子付けて返すのが俺等の仕事さ。人のふんどしで相撲を取って、勝ち星は自分ってワケだな。まあ預けた連中にも礼をするんだからウインウインって感じだ。カネ?いや、興味なくなるぞ。どのみち他人のだ。働き出してすぐ、どんな札束もただの紙に見えたもんだ」

 そう聞かされた私は、いつでも尾行出来るようにとメモとスマホを手に、アパートの向かいの喫茶店へ向かった。ここならば田所が出てくるのが見える。

 信金に駐車場はない。だが近隣に借りている場合、尾行する方法がない。それが心配点だったが、杞憂だった。田所が外回りに出ることはなかった。信金に出入りする客、通行人、そしてアパート一階で何やら工事をしている男達の他に動きなど無い。

 それでもいつ何があるかも判らないので、とりあえず喫茶店での張り込みは続けた。

 そうして半月が過ぎた頃、私に新しい疑念が生まれた。

「田所の何が怪しいんだ?」

 定時に起きて仕事に行く。勤め先は信金だ。夜は出掛けずに弁当で済ませる。酒は飲まないらしく、買っているのを見たことがない。夜は午前一時になると明かりを落とす。休日はと言えば出掛けもしない。一度だけ隣町の書店まで尾行したが、目当ての本を買うと真っ直ぐに帰宅した。品行方正そのものだ。

「出入りする人間にも注意するったって、記録を取り始めてからただの一人も見てないぞ」

 付き合いもなく、派手に通販の物品が届くこともない。私は首を捻りながら、田所の起床時刻だの就寝時刻だのを記録していった。そうして二十日が過ぎ、階下の工事もいつの間に終えたのか静まっていた頃、事件は起きた。

 早朝、けたたましいサイレンの音で脳みそを攪拌され、飛び起きるとアパートの前に警察車両が五台止まっていた。何事かと見ていると、警察官が大挙して信金に出入りしている。まだ開かない時間にだ。

 ふと視線を感じて振り返った。隣のバルコニーに、私同様に外の騒動を見ている田所宗一がいた。どうするか迷ったが、とりあえず軽く頭を下げておいた。その田所の目はパトカーと私を見比べていた。刑事が訪ねてきたのは、その日の昼前だった。

「任意で同行?」

 刑事は無表情で頷き、言った。

「拒否も出来ますが、その場合裁判などでは不利になることもありますので、よく考えてください」

 二人の刑事は瞬きもせずに私を見ていた。

 それは、任意聴取という名の取り調べだった。狭い部屋で私は、二人の刑事に挟まれ、縮こまっていた。

「説明していただけませんか?」

 ワイシャツの袖をまくり上げた一人が尋ねてきた。

「だから何を説明すれば良いんですか!こっちこそ説明が聞きたいですよ!私は何も――」

「していない――と?」

 腕組みしたもう一人が言った。

「したとかしてないとか!何が何だか分からないって言うのに!」

「今日、日付がかわって少しした頃、お隣の信用金庫が契約している警備会社の非常ベルが鳴りました。駆けつけてみると、外からは異常が認められない。不審に思い、警備会社の人が中に入ってみても一見すると異常は無かった。反応したのは対人センサーだったので、誰かが侵入したのは間違いが無い。そこで彼らは金庫を調べたそうです。すると――」

 もう一人が受け取って続けた。

「あの信金、金庫は二つあるんだそうですよ。一つは大金庫で、これは指定時間内はロックされ、営業開始三十分前にならないと開かない。と言っても、本店のような物凄い設備ではないそうで、やる気になればバーナーで扉を焼き切り、中を物色することは可能だそうです。でも、実際にはそんな痕跡も無ければ、中のカネも無事だった。ただね、もう一つの金庫は無事ではなかったんです」

 腕まくりの刑事が再び引き取った。その度に私は右を見たり左を見たりだ。

「そっちには大金庫とは別に、一番で提携ATMに入れておく現金が納められてたそうです。総額約二千八百万円。それが、すっかり無くなっていたんですよ」

「だから!そんなことが私となんの――」

「お仕事は何をなさっているんです?」

 尋ねられ、口ごもりながらも「まあ……無職ですけど……」と言うと、二人の刑事は目を見合わせた。

「変ですね」

「なにがだ!」

「あなたのお部屋、捜索令状が出ていて調べさせていただいたんですけど、九十数万円の現金が見つかりまして」

 口の中が乾いていく。

「これ、どこからどういった名目で得たお金でしょうか?」

「そ、そんなことは関係ないだろう?」

「説明出来ないんですか?では質問を変えます。田所宗一さん――」

 ギョッとした。なぜそんな名前がここで出るのか。

「ご存じですね?」

「それは……確かお隣の方でしょうか。フルネームは知りません。付き合いもないし」

「これもおかしな話ですね。田所さんは今回事件のあった信用金庫で出納の責任者だそうですが、実に興味深いことを話されているんです。つまり、ここ半月以上もの間あなたに尾行されていた――と」

 唾を飲みたかったが飲めない。口はカラカラだ。

「買い物に出るとあなたの視線を感じていたそうです。なんの目的かも分からないので気づいたことを悟られないようにしていたそうですが、それはどうです?事実ではないと言われますか?」

 拳を握りしめ、テーブルを凝視した。

「否定されても構いません。でもね、あなたの部屋からもう一つ、興味深いものが見つかってるんです。ノートですけどね。あれはなんです?」

 手は震え、視線は凍り付いたように動かせない。

「田所さんの行動記録ですよね?なぜあんなものがあるんでしょう?そして、さらに」

 もう一人に言葉を譲った。

「一階の工事の件です。ええ、あなたの丁度真下の101号室のね。あそこの工事はあなたが田所さんの記録を取り始めたのと同じタイミングで始まったんだそうです。近所に聞くとそう言ってました。ところがなんの工事なのか分からない。業者は架空で、大家さんも遠方なので把握していない。仲介をしている不動産屋も老齢でなんだか話が怪しいんです。訊いたら、もう店を閉めなきゃねと子供とも話していたそうです。その工事、きっと喧しかったでしょう?事件の起こる前日まで続いていたんですから。苦情、言いに行かなかったんですか?」

 話が見えない。

「実はね、その部屋の地下を掘り、隣の信金のトイレの床を破って侵入したんですよ、犯人たちはね。ええ、間違いなく複数犯です。こんな仕事、一人じゃあ無理だ。工事をする者、そこの職員の行動を観察する誰か、そして信金周辺で工事なりに不信感を抱く者がいないか監視する者――何人か必要です。アパート前の喫茶店の店主も言っていましたよ。ここ二十日間ほど、あなたが信金の見える窓辺で粘っていたって。それまでは一度だってうちでコーヒー一杯飲んだ試しもないのに――とね」

「い……いや!ちがう!私はただ――」

「ただ――なんですか?」

 言葉を失った。どう説明すれば良いのか?とにかく正直に――。

「人に依頼されたんだ!田所という男の日常を観察して欲しいって!部屋にあったカネもそいつから受け取った前金で、一ヶ月の観察が終わったら残りの百万を払うって――言われて……それで私は……」

 刑事の四つの目が私を凝視するのを感じる。まるで信じてはいない目で、私は見つめられている。

「正直に話しては貰えませんかね?共犯者のこと」

 顔を上げると、感情のない眼差しがそこにあった。

「そんなものはいない!」

「隣町までも尾行して行ったそうですね?目的はなんですか?以来と言われるが、依頼人とは誰です?証拠はありますか?」

 燃え尽きた紙片が脳裏に浮かぶ。言葉がない。尾行は本当のことだ。記録も取っていた。だが、銀行強盗など私は――!

「ちなみに、銀行ってところでは札の中に結構な割合で番号を把握した奴を混ぜておくのだそうですな。どこかで使えば分かるんです。でも、奪われた小口にはそれがされていないんだそうですよ。でも、指紋は残る。あなたの部屋の札にべったりと付いていたんです。出納の田所さんの指紋がね」

 身体から力が抜けていく。私は一体、今なんの目に遭っているのだろうか。

「あなたの身柄は今日検察に送られます。そこでの勾留は二十四時間。延長される場合は十日間。更に必要と裁判所が認めればプラス十日間、あなたの身柄は拘束されます。詳しいことは検察の取り調べでも構いません。あなたには逮捕状が出ています。読み上げますが、あなたには黙秘する権利と弁護士を――」

 

 私は検察に送られた。共犯がいると目される為、保釈は許可されないと言われた。勿論、保釈して欲しくともそんなカネもない。面会可能なのは国選弁護士のみだ。弁護士からは犯行を認めて共犯者を売り、情状に訴え罪一等を減じさせるのが最善と言われた。

「幸い障害行為などもないんだから、それが一番でしょう?」と、若い弁護士は眼鏡を光らせた。

 検察の取り調べでも、私は正直に話した。だが、どう言おうとも私の言葉が正しいと信じてもらう為の材料は無さ過ぎた。結局私は共犯者と略奪した現金の所在不明のまま、損壊、非現住建造物侵入、窃盗などの罪を問われた。裁判を通じて無知だった法に触れたが、こうした複数の犯罪が相まった場合は〈牽連犯〉と言い、その中で最も重い罪が適用されるのだ。私は一貫して共犯者の情報を秘匿したということで、窃盗罪の最長刑である十年を求刑されたが、自ら罪を認めたとして減刑され、確定刑期は八年となった。そう、私は罪を認めた。私には起死回生の救いの道など無いことを理解したのだ。

 今私は塀の中に居る。何故こんな場所に居るのだろう?誰か教えてくれ。


「完全犯罪というものは誤解されているんだよ。細大漏らさずに情報を収集し、計画し、緻密にして正確にそれを実行することだと思っているんだ。まあ、アプローチとしてはそうなんだが、どうだろうな?それで完全犯罪というものは成立するんだろうか?私はそう思わない。もっと言えば、それを〈完全犯罪と呼んでいい〉ものかな?」

 部屋の明かりは消しておけと言われ、言われるままにそうしておいた。その男の首から上は闇の中だ。テーブルに載せた指先でタバコが紫煙をくゆらせている。

「完全と不完全、その線引きってのは要するに発覚したかしないかだ。だが、それもあくまでも警察や一般社会側から見た話だ。犯罪行為があると警察が認知し、捜査をするとする。結果として犯人が判明することもあれば、結局分からず仕舞いのこともある。分からなかったらそれは完全犯罪なんだろうか?違う。ニアリー完全犯罪でしかない。本当の完全犯罪というのは、犯罪があったことすら認知されないものを指す。追われる可能性のある犯罪を完全とは言わない。言えたとしてもそれは犯人が死ぬ時だ。死ぬまで裁かれなかったら、完全犯罪だったと言っても差し支えない。ただしそれが完全だと認知出来る者は、どんな場合の完全犯罪もそうであるように、その犯罪者だけだ。私は犯罪に美学を持っている。揺るぎない証拠をセットして警察に提示する。刑事警察、司法共に満足してその者を裁く。犯人とされた者は自分は無実だと叫ぶだろう。だがその時点ですでに自身にすら理解を超えた次元で犯罪は完結している。まあ簡単に言えば確かに冤罪だ。だが、冤罪にも覆される可能性のあるものとそうでないものがある。私は運に頼らないんだよ」

 そう言い、男は席を立った。

「奪った総額は二千八百万。折半が条件だから、事前にこちらから彼に渡した百万を含めた千五百万をこちらが、残額を君が受け取る。現金はその鞄の中だ。確かめてもらって構わないが、時間の無駄だと言っておこう」

 立ち上がり、出て行こうとした男の背に田所宗一は声を掛けた。

「またいつか頼めるでしょうか?」

 男は振り返らず、闇の中で言った。その声は人のものとも思えない重い響を持っていた。

「失敗は欲の卵の殻を破り生まれる。私は、組めると判断した依頼人と言えども一度しか組まない。以後接触はしないよ。安心してそのカネを使うといいが、それで終わりだ。後は真面目に生き、真面目に死ぬんだな」

 ドアの外に立ち、最後に言った。

「失敗の生まれる卵など、私は産まないんだ」

 ドアは閉まり、男の気配は〈完全〉に消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

完全な犯罪 一万文字ミステリー② 狭霧 @i_am_nobody

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ