第18話

『グゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』


 毒の息と共に凄まじい咆哮を轟かせるドラゴンゾンビは、肉が腐り、あばら骨が一部丸見えだった。


「フィオナ、口を塞げ!」

「――――!?」


 俺は急いでフィオナとクルセアを両脇に抱え、ポイズンブレスから逃れるように後退する。


「どうしてこんな所にドラゴンゾンビなんているのよ!」


 フィオナの疑問は理解できるが、今はそれどころではない。狭い空間が毒で充満しようとしている。しかし、毒に包まれた中でソイフォンたちは動じる様子がない。おそらく、かつてファンシアに贈ったイモータルアンチドートのようなものを身に着け、毒への耐性を得ているのだろう。


「さすがに判断が早いね」


 ソイフォンは、まるでペットのようにドラゴンゾンビを飼い慣らしていた。


「答えろソイフォン! お前たちのリーダーは異世界人――勇者なのか」

「おや、名前を聞いただけでわかるのかい?」

「……っ」


 やはり、そうか。

 ナオキなんて名前、どう考えても日本人以外に考えられない。

 だが、おかげでようやく理解したぞ。ソイフォンのあの妙な余裕は、背後にチートを持つ勇者がいるからこそだったんだ。


 まさか勇者が盗賊団のリーダーをやってるとか、世も末だな。女神が焦って俺を異世界に送り込むのもうなずける話だ。


 しかし、そうなるとこのドラゴンゾンビ、勇者が所有する何らかのチート能力ということになる。

 あの女神、一体どんな能力を授けたんだよ。


「でも、これでもうわかっただろ? あんたじゃ妖盗蛇衆あたしらには絶対に勝てないのさ」

「そいつはどうだろうな?」

「この期に及んでまだ勝機を見出そうってかい。健気なのも結構だが、あまり諦めが悪いと女にモテないよ」

「自分の力を行使せず、他力本願に威張り散らすだけの女に言われたくねぇな」

「女の力や価値ってのはね、付き合う男で変わるもんさ。口説き落とした時点でそいつはあたしの力になる。腕力が強けりゃいいなんて考えは、二流三流のボンクラがすることさ。つまり、あんたのことさ」

「腕力が強いだけの男かどうかは、すぐにわかることだ」

「その前に、毒に侵されて死ぬのがオチさ」


 確かにこの毒は厄介だな。

 扉を蹴破って外に逃げることはできるが、魂が抜け落ちたような状態のクルセアを抱えたまま逃げるのは避けたい。


「おい、フィオナたんは殺すなよ! 性奴隷として飼うのだからな」

「うるさいねぇ……仮に毒に侵されたとしても、この解毒薬を飲ませれば問題ない」

「冗談じゃないわよ!」


 毒とドラゴンゾンビの対処法を模索すべく、俺は神々の書庫からグリモワールを拝借することにした。


「こんな時に呑気に読書かい? というか……そんな分厚い書物どこから出したんだい?」

「企業秘密だ」


 状態異常回復魔法・毒魔法に関する項目を開き、有効的な魔法を調べる。

 毒霧に対して最も有効的な魔法は、トキシン・エリミネートという浄化魔法のようだ。この魔法は空気や霧の中の有害な毒素を排除し、清浄な状態にする効果がある。専門的な詠唱が必要とされる魔法だが、女神チートを駆使すれば詠唱なしで即実行可能だ。


「トキシン・エリミネート」

「「「!?」」」


 浄化魔法を発動すると、まわりを覆っていた有害な霧が瞬時に消え去っていく。まるで高性能な空気清浄機のような効果だ。


「毒の霧が消えていく!? 坊や、あんた何をしたんだい!」

「そ、そんな馬鹿なことがあってたまるかッ!」

「おい伯爵、なにか知ってるならあたしにも分かるように説明しな!」

「こ、これはトキシン・エリミネートだ」

「トキシン・エリミネート……?」

「高難易度の、それも広範囲に効果をもたらす浄化魔法だ!」

「は? 浄化魔法……? いや、ちょっと待ちなよ! あの坊やは詠唱なんてしていなかったじゃないかい!」

「たとえ宮廷魔導士であっても、無詠唱による浄化魔法などできるはずがない。こんなことができる者がいるとすれば、かの賢者くらいだ」


 へぇー、やっぱりスパランドを作った賢者は無詠唱魔法の使い手なのか。将来的に戦うことになるなら、相当手ごわそうな相手だな。


「なら何かい? あの坊やは剣の腕は超一流で、魔法の腕は賢者クラスだとでもいうのかい! ふざけんじゃないよ!」

「そんなもん私が知るわけないだろ! とにかくやつは危険だ! 今すぐに殺せッ!!」

「あんたに言われなくたってそうするよ! ドラゴンゾンビ、今すぐに坊やを踏み潰しておしまい!」

「――ヒーリングオール!」


 凄まじい雄叫びとともに前足を振り上げるドラゴンゾンビに対し、俺は完全回復魔法を発動した。当然のことながら、いつも通り無詠唱での展開だ。


「これはなんだい!?」

「この強烈な光……まさか聖女しか使えぬという神聖魔法か!? ありえんっ!?」

「し、神聖魔法!? なんだいそりゃ!?」


 やっぱりステラの下半身不随を治療したヒーリングオールの威力は凄まじいものがある。

 ヒーリングオールを受けたドラゴンゾンビは、まるで塩をかけられた蛞蝓のように、急速に縮んでいく。


「おおっ!」


 やはり思った通り効果は抜群のようだ。アンデッド系の魔物に対して回復魔法が有効なのはRPGゲームでは当然の知識である。グリモワールにもそう記されているしな。


「ナ、ナオキから貰ったあたしのドラゴンゾンビが……」

「こ、これでは小汚い野良犬ではないか!」


 俺の絶対的な強さの前に、ソイフォンとバード伯爵も唖然となり、驚きの表情を浮かべていた。


「……」


 フィオナはぺたんと尻もちをついて、夢かどうか確かめるべく頬をつねっていた。

 最後に、ターンアンデッドでドラゴンゾンビを穏やかに成仏させてやる。不死の呪いから解放されたドラゴンも、おそらく俺に感謝しているだろう。


「き、消えてしまったではないか……」

「じょ、冗談じゃない。こんな化物にかなうわけないだろ!」

「ま、待て! どこへ行くつもりだ!」

「――離しなっ! ドラゴンゾンビがやられちまったんじゃ、もうあたしじゃどうにもならないんだよ!」

「ふざけるでないわっ! やつを殺してもらわねば私の立場が――」

「あんたの立場なんぞ知るかっ!」

「なんだと貴様ッ! 話が違うではないか!」

「――騒がしいな」


 言い争いを始めた二人の背後から、眠そうな目をこするアジア系の少年が姿を現した。


「これじゃあおちおち昼寝もできやしない」


 サスペンダーと白いYシャツをだらしなく身にまとった少年は、日本にいた頃は運動部に所属していたのだろう。その焼けた褐色の肌が印象的だった。


「ナオキ!」

「ハイムラ!」


 少年の名前はハイムラ・ナオキというらしい。

 彼の登場により、逃げ腰だった二人の瞳が一気に輝きに満ちていく。まるで子供たちがヒーローの登場に歓喜するかのような光景だった。




 ◆◆◆




「フィオナたちは大丈夫かしら?」

「ユキオ卿が付いておられるのだ、きっと皆を無事に連れ帰ってくれるはずだ」


 雪夫たちが妖盗蛇衆のアジトに潜入していた頃、シュトラハビッツ家に残った幹夫たちのもとにも、狡猾な蛇の毒牙が忍び寄ろうとしていた。


「このオレが、あんな平べったい顔の眼鏡野郎になめられたままでたまるかっ! 見つけ出してぶっ殺してやる」


 妖盗蛇衆の中でも特に執念深い性格のドブラは、幹夫を抹殺すべく、シュトラハビッツ家に忍び込んでいた。


「あら、あなた新人さんですか?」

「……ええそうよ、あたし、今日からここでメイドとして働かせてもらうことになったドブ子よ、よろしく」


 2メートル近い巨大なメイドに対して、シュトラハビッツ家のメイドは首を傾けていた。


 ――まさかこのメイド、このオレの完璧な変装を見破ったわけじゃねぇだろうな。


「あなた、脛毛濃いですね」

「ええ、意外と毛深いって言われるわ」

「まったくもって意外ではありませんが、服のサイズ間違ってませんか? 背中破けちゃっていますし」

「これ以上大きいサイズはなかったみたいなの」

「そうですか」


 納得した様子のメイドに胸をなでおろすドブラだったが、メイドはドブラの顔を見つめたまま動こうとしない。


「あなた……絶対おと――」

「――女よ! あたしこう見えて女なの。大きいから時々間違われるだけよ!」


 どこからどう見ても男にしか見えないと思ったメイドだったが、心と体が必ずしも一致しないことを彼女は知っていた。


「本人がそういうのですから、きっとそうなのでしょうね」

「あっ、ちょっと――!?」


 安堵のため息を吐き出すドブラの手を掴んだメイドは、彼を慣れた様子で浴室まで案内し、デッキブラシを差し出した。


「ここの掃除が終われば屋敷の裏手で薪を割ってください。本来は執事のクロウニーさんのお仕事なんですけど、彼は今は手が離せませんので、私たちメイドで対応することになっています。ドブ子さんのような力の強そうなメイドが入ってきてくれたことは、不幸中の幸いでした。では、よろしくお願いします」

「え、あっ、ちょっとっ! ……くそっ! なんでこのオレがこんなことッ!」


 悪態をつきながらも、迅速に浴室を清掃し、誇る腕力を生かして薪を効率よく割っていく。担当仕事を全て片付け、憎むべき相手の捜索を始めようとしたその瞬間、再びあのメイドに声をかけられてしまった。


 ――またコイツかよ!


 メイドに連れられてやって来たのは調理室だった。


「ではこちらを、食堂まで運んでもらえますか?」


 バーカートには、マカロンやクッキーに加え、高級そうなワインも数本載せられていた。


 ――貴族の連中はいつもこんな上物を飲んでいやがんのかよ、くそったれぇ……。


「あっ!」


 バーカートを押しながら食堂に入ると、そこで遂に復讐の対象を見つけたドブラ。


 ――あの眼鏡野郎!


「ひぃっ、わたちぃのおちゃけ、もっでぇぎでぇぐれだんでずね……ごくろうざまでしゅ、ひっ」


 ――うわぁ、くっせぇッ。なんだこの酔っぱらい。真っ昼間からべろんべろんじゃねぇか。


「ぷーくすくす。あなだ、ゴリラみだいにぶじゃいぐなメイドでしゅね……ひぃっ。ぎっと、じぇんしぇでよぐないごとしたんでしゅね、ひっ」

「……っ」


 ――このアマッ!


 ドブラはぶん殴ってやりたい衝動をぐっと抑え、今は宿敵に怒りの焦点を合わせることを決意する。


「御主人様、ファンシアもっと沢山お菓子うめうめするぅ!」

「任せてよ! さっきメイドさんにマカロンとクッキーを持ってくるように言ったから、一緒に食べようね」

「わーい!」


 ――なるほど。この菓子はあのくそったれが食うってことか。


 悪童の笑みを浮かべるドブラは、懐から〝猛毒〟と書かれた小瓶を取り出し、ためらいなくマカロンとクッキーに振りかけた。


 ――ざまあ見やがれクソ勇者。いくらてめぇが勇者でも、この猛毒を口にすれば即死はまぬがれねぇ。


 ドブラがまき散らした猛毒は、1ミリグラムでも摂取すると、鯨ですら10秒も経たずに絶命してしまうほどの強力な毒だった。その強力な毒を、彼はまるでミートパスタに粉チーズを振りかけるかのように、たっぷりとまき散らしていた。


 ――ゲハハハ、これを食ったら最後、てめぇは蟹みてぇにみっともなく泡吹いて倒れてお陀仏だ。


「お待ちいたしましたわ、勇者様」

「ありが……うわぁ、君すごく毛深い上にブサイクだね。人手不足でゴリラでも雇ったのかと思ったよ」

「なっ!?」


 ――誰がゴリラだこの野郎!


「こ、こちら、とてもおいしいお菓子ですよ、勇者様」


 ――さあ食え! 早く食え!


「……」


 ところが、彼の意図に反して、幹夫は提供されたお菓子とドブラを交互に見ながら眉をひそめた。


 ――まさか、気づかれたのか。


 その瞬間、ドブラの心臓の鼓動がわずかに速まる。


「これ、君が作ったの?」

「え、ええ、それはもう、心を込めて作らせていただきましたわ」

「そっか、なら僕はいいや。ファンシアにぜーんぶあげちゃおーっと」

「御主人様、しゅきー」

「うおおおおおっ! 僕もだいしゅきだよファンシアアアアアア!!」


 自分の分まで幼女に差し出すという予想外の行動に、ドブラは声をかけざるを得なかった。


「ゆ、勇者様、せっかく私が心を込めて作ったんです。せめて一口だけでも食べてはもらえませんか?」

「いや、無理」

「え……?」

「僕はこう見えても潔癖なんだ。君すごく不潔そうだから、君が作ったお菓子はさすがに食べられないよ」

「……っ」


 ――殺す! このガキゃぁ絶対にぶち殺す!


 ますます、ドブラの心には幹夫に対する殺意が高まっていた。


 ――まあいい。そのガキが苦しみもがき死んでく様をじっくり見てやがれ。


「ファンシア、おいしい?」

「御主人様、これめちゃくちゃおいしい!」


 ――馬鹿なっ、ありえない!? 何がどうなってやがるんだ!


 猛毒パウダーがたっぷり振りかけられたマカロンやクッキーを、幼女は次々と口に運んでいく。ところが、幼女は苦しむどころか、笑顔でそれらを完食してしまった。


「ファンシアもっとうめうめするぅ!」

「うんうん、沢山うめうめしようねー」


 ――1ミリグラムで鯨も即死するような猛毒だぞ。


 驚きと信じ難さを込めて、6歳の幼女を見つめるドブラは知らなかった。その幼女が首から提げている首飾りが、所有者に永続的な状態異常への耐性を与える神器であることを。


「ちょっとゴリラメイドさん、聞こえなかった? 早くおかわり持ってきてよ」

「だっ――」


 ドブラの我慢も限界に達していた。


「誰がゴリラだぁあああっ!」


 トレーを床に投げつけたドブラは、隠し持っていた短剣を取り出した。その瞬間、食堂内は混乱に包まれる。シュトラハビッツ夫妻は急いで席を立ち、メイドたちは壁際に後退して悲鳴を上げた。女神はまるで見世物が始まったかのように、笑顔で手拍子をして喜んでいた。


「貴様、何者だ!」


 ガーブルの質問に対し、ドブラは「よくぞ訊いてくれた」と言わんばかりに、刃先を舌で舐めた。


「ただの変質者だよ」

「違うわッ! てめぇオレのことを忘れたわけじゃねぇだろうな!」

「……申し訳ないけど、僕には女装趣味のおっさんの知り合いなんていないよ」

「だからちげぇーよ! オレだよ、オレ! 列車で会っただろ! 妖盗蛇衆次期頭領のドブラ様だ!」

「……ごめん、全然知らない」

「そ、そんな……」


 ショックでその場に崩れ落ちるドブラは、目の前の少年が自分よりもずっと高い犯罪係数を持っていることを知らなかった。


「妖盗蛇衆だと!?」

「……おおっ! わかってくれるかぁ!」


 ガーブルの反応が、ドブラにとって唯一の救済だった。


「貴様ら妖盗蛇衆の目的はなんだ!」

「オレらの目的……? オレの目的はこのガキを殺すことだが、バードの野郎は辺境伯を殺してフィオナとかいう女とセックスすることが目的だって、ソイフォンは言ってたな」

「なっ!?」


 誰もが言葉を失い、その驚愕の事実に凍りついていた。


「あっ、これ言っていいやつだったかぁ? まあいいか」

「ドブラと言ったな。今の話は事実なのだな!」

「今の……どれだ?」

「だから、その……バード伯爵がユキオ卿の殺害を企て、娘と……だな」

「セックスするって話か?」

「……っ、事実なのかと聞いておるのだ!」

「そりゃ自分の妻を殺し、今度はガキまで殺そうって野郎だぜ? あんなイカれ野郎は早々お目にかかれねぇよ」

「なんと……バード伯爵はメナ様までも手にかけていたのか」


 嫌悪感に顔を歪ませたリネットは、胸に手を当て、一度深呼吸し、その後問いかけた。


「では、ウィル様を攫うよう、あなた方に指示を出していたのはバード伯爵で間違いないのですね」

「だからそう言ってんだろ。しつこい連中だな」

「なんということだ」


 シュトラハビッツ夫妻がバード伯爵とともに妖盗蛇衆のアジトに向かった娘と雪夫の身を案じていた。その一方で、怒りに燃えるドブラは勇者幹夫に剣を向けていた。


「今頃てめぇの連れもただの肉の塊になっているだろうぜ」

「さすがにそれはないかな。あのじいちゃんチート王だし。はっきり言って何でもありだからね」

「てめぇの連れが例えどれほど強かろうが、ハイムラにだけは絶対に勝てねぇ。奴が本気になれば、国だって一夜で滅ぼせちまうんだ」

「榛村……?」


 榛村という名前を聞いた瞬間、幹夫の脳内にはサッカー部の補欠だったクラスメイトの顔が浮かんでいた。


「それって榛村尚輝のこと?」

「やっぱり同じ勇者だけあって知ってんのか」


 シュトラハビッツ夫妻は、勇者という言葉を聞くと顔色を失い、酒を飲んでいた女神はにやりと笑みを浮かべた。


「そっか。榛村くんも気の毒に……」

「何を訳のわからねぇえこ――」


「「「「!?」」」」


 幹夫は席を立つや否や、魔剣レーヴァテインでドブラの腕を斬り落とした。夫妻はその突然の出来事に声を発することもできなかった。


「いぎぁあああああああああああああああああああああああッ!?」


 幹夫は、右腕を失ったドブラが床を転がる様を、無表情で見下ろしていた。


「答えてくれるかい? 榛村くんはどれくらい集めていた?」

「なっ、なんのことだ!」

「とぼけないでよ。仲間なら知ってるんでしょ、彼の能力。答えないなら、そっちの腕も斬り落とすよ。その次は脚だ」


 足下の男に顔を向けてはいるが、幹夫の瞳にはなにも映っていない。わずかに焦点を失った双眸は、どこまでも黒く塗りつぶされていた。


「い、いちまん……ハイムラはそう言っていた。それ以外は知らねぇ。嘘じゃね! その数字が何なのかもオレにはわからねぇんだ!」


 必死に弁明するドブラの言葉など、幹夫はすでに聞いていなかった。


「まずいな。……ファンシア、すぐにここから離れるよ!」

「御主人様、お出かけ?」

「うん、良くないことが起こるかもしれないからね」

「幹夫さん――」


 ファンシアの手を引き、足早に食堂を出ようとする幹夫を、女神は呼び止めた。


「逃げたら……わかっていますよね?」


 女神へと振り返る幹夫の額からは、大粒の汗が流れ落ちていた。

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