第15話
クロウニーの案内で大ホールに足を踏み入れた雪夫は、ひときわ異彩を放つグランドピアノの前で足を止めていた。
「ち、父上っ」
「狼狽えるでない、やつの身なりを見ろ。摩訶不思議な衣服ではあるが、靴が泥まみれではないか。誇り高い貴族があんなふざけた靴を履くはずがない」
「さ、さすが父上!」
バード伯爵が自信に満ちた表情で雪夫を貴族でないと断言する様子に、ガーブル子爵の心は揺れ動いていた。
「フィオナ、ほ、本当に彼は辺境伯で間違いないのだな?」
「お父様まで何を馬鹿なことを言っているのよ!」
「し、しかしだな……審美眼を持つと言われるバード伯爵があそこまでユキオ殿を怪しんでおられるのだ。やはり、彼には何かあるのではと疑いたくもなるだろう」
「たとえお父様であっても、それ以上言うなら殴るわよ」
「こら、少し落ち着きなさいフィオナ。お父さんはあなたのことが心配なだけよ」
「そんなこと分かっているわよ」
「あなたも、焦らずとも答えならすぐに出ます」
「そ、そうだな」
彼らが見つめる先には、ピアノと向き合う雪夫の姿があった。
「雪夫、ピアノ弾く?」
「……」
ファンシアが質問しても、幹夫は返答せず、ただ懐かしむように幼い頃の思い出にひたりながら、ピアノチェアに腰掛ける祖父を見つめていた。
「「「「「「――――!?」」」」」」
雪夫がピアノの鍵盤に指を触れた瞬間、静かだったホール内に強烈な音の波が広がった。雪夫の指が鍵盤を優雅に愛撫するように触れるたび、深い感情が音符となって溢れ出してくる。音の一つ一つが空気を裂き、聴衆は心地よさからその音の波に身を委ねてしまう。
一瞬の沈黙、その後に放たれる音楽の嵐が心を鷲掴みにし、聴く者を感動の淵に引きずり込んでいく。
「なっ、なんだ、この曲は……」
「そんな……うそだ」
「すごい」
「きれい……」
「素晴らしい」
「なんて美しいの」
1835年にフレデリック・ショパンによって創られた幻想即興曲は、その卓越した即興性と情熱的な表現によって輝く傑作だ。
異世界よりも遥かに優れた楽曲と、演奏テクニックを有する現代人が奏でる音楽は、異世界人からすればまさに魔法だった。
その音のハーモニーは聴く者を引き込み、魅了し、その美しさに心を奪われ、彼らはしばらくの間感動に包まれていた。
「驚きました。まさか雪夫さんにこんな才能があったなんて」
二日酔いで部屋に引きこもっていた女神も、ピアノの調べに誘われるかのように、静寂の中を抜けてホールへと降りてきていた。
「女神なのに知らなかったの?」
「そういう幹夫さんはご存知だったんですか?」
「元気な頃はよく弾いてくれたからね」
「雪夫さんは昔からピアノがお得意だったんですか?」
「得意なんてもんじゃないよ。ああ見えてもじいちゃんは元ピアニストなんだ。若い頃は天才だの、金髪の貴公子だのと騒がれていたって、ばあちゃんがよく自慢していたよ」
「あら……とても意外です」
「金髪の貴公子に関してはばあちゃんの嘘だと思うけどね。じいちゃんハゲだし」
女神は演奏に没頭している雪夫を注意深く観察し、納得したようにゆっくりと頷いた。
「そちらはまあ、本当なんじゃないですか?」
「……みんなにはどんな風に見えているんだろうね。残念ながら、僕にはやっぱりただのハゲた爺さんにしか見えないよ」
5分間の演奏が終わると、ホールは爆発的な拍手に包まれていた。フィオナは雪夫に駆け寄り、シュトラハビッツ夫妻は感動の涙を流し、クナッパーツブッシュ親子も思わず手をたたいていた。クルセアやクロウニーを含む使用人たちも、心からの拍手で演奏を称賛している。
「――ハッ!? ばっ、馬鹿者! やめんか!」
はたと我に返ったバード伯爵は、隣で手をたたく息子のウィルの腕をつかみ、フィオナと微笑む雪夫を冷たい視線で睨みつけた。
――認めたくはないが、先程の演奏……あれは平民などでは到底到達できぬ境地だった。
怒りを抑えるため、バード伯爵は深呼吸し、その後雪夫に静かに歩み寄った。
「先程の演奏、見事でした。失礼ですが、ユキオ卿の師は誰ですかな?」
「え……っと……」
――近所で子供たちにピアノを教えていた鈴木さん……とはさすがに言えないよな。
返答に困り果てた雪夫は、苦笑いを浮かべながら「秘密です」と言った。
「正体を知られたくないということですかな。徹底しておりますな」
「……いえ、まあ、それほどでも。あは、ははは……」
――実に忌々しい男だ。私のフィオナたんがこのような男と腕を組むなど……くそっ。
かくなる上は、殺してくれるわ!
「ウィル様!」
「すまない、少しひとりにしてくれないか」
辺境伯としての雪夫を認めることをためらうウィルは、演奏が終わると黙ってその場を去った。呆然と立ち尽くすクルセアは、自分の無力さに苛立ちを覚え、拳を握り締めた。
「あの男が辺境伯……違う! そんなはずはない!」
庭にひとり立ち、雪夫と微笑むフィオナを思い出すたび、ウィルの心に漆黒の感情がじわりと広がっていく。
「フィオナはボクと結婚するんだ!」
ウィルがフィオナに執着する背景には、母を早くに失った心の傷と、父であるバード伯爵が彼に無関心だったという二重の経験が影響している。
幼い頃のウィルは、父であるバード伯爵に認めてもらおうと必死だった。しかし、剣技やピアノの腕をどれほど磨こうとも、父は彼に興味を示すことはなかった。やがて、ウィルは剣やピアノ、学問に真剣に取り組まなくなり、かえって父の注意を引くために悪戯を繰り返すようになっていた。
唯一ウィルのわがままに立ち向かったのは、当時12歳のフィオナ・シュトラハビッツだった。伯爵の息子として何をしても黙認されていたウィルを初めて叱り、彼と初めて真剣に向き合った存在だった。ウィル・クナッパーツブッシュは、フィオナ・シュトラハビッツに亡き母の面影を見いだしていた。
その瞬間から、ウィルはフィオナに心を奪われた。彼女に相応しい男になるべく、剣技やピアノの腕、そして勉学に没頭した。父がフィオナとの婚約の話を持ちかけたとき、神が自分の努力を認めてくれたかのような感覚に包まれていた。
しかし、突如としてフィオナとの婚約が破談になった。それはウィルにとっては言葉では表せないほどの辛い瞬間だったのだ。
「フィオナも父上も、みんなあいつに騙されているんだ」
地面を睨みつけていたウィルが違和感を感じて顔を上げると、そこには見覚えのある男が立っていた。
「お、お前はっ!? なぜお前がここに――――ぐぅっ……」
腹部に強烈な一撃を叩き込んだ男は、気を失ったウィルを肩に担ぎ、宿敵がいる屋敷を睨みつけていた。
「あのふざけた野郎だけは絶対にこの手でぶっ殺してやる」
◆◆◆
時は少し遡る。
列車内で幹夫に敗北した妖盗蛇衆のドブラは、憎き勇者への復讐を誓い、一人でシュトラハビッツ家に忍び込んでいた。
「――――た、たとえばあの茂みの奥に……」
しかし、運の悪いことに、ドブラは偶然にも雪夫が指し示した場所に潜んでいたのだ。
「!?」
――ありえんっ!? オレの潜伏スキルは妖盗蛇衆随一なんだぞ!
「クロウニー!」
「くっ……」
多勢に無勢と悟ったドブラは、瞬時にその場を離れることを決断する。
「にしても、なんちゅう勘してやがんだあのガキッ。
「誰がアマだってぇ? ドブラ」
「げっ!? 姐さん!」
突如として路地裏から姿を現した女に、ドブラは顔をひきつらせていた。
「何が姐さんだい。裏じゃあたしのことをアマ呼ばわりかい。調子に乗ってんじゃないよ!」
「わ、悪かった。いや、悪気はねぇんだ。わかるだろ?」
ソイフォンは軽く鼻を鳴らし、まるで嫌なものを見るかのように冷酷なまなざしで部下をにらみつけた。
「まあいい。その代わりあのガキを攫ってきな」
「え……オレがかぁ?」
「あんた以外に誰がいるってんだい? これは頭の命令だよ」
ソイフォンの威圧的な態度と力には逆らえず、ドブラは渋々これを受け入れた。
「くれぐれも殺すんじゃないよ。ガキは
ソイフォンの姿が消え去ったことを確かめると、ドブラは怒りに震えながら、「くそったれめ!」と地面を蹴りつけた。
シュトラハビッツ家に戻ったドブラは潜伏スキルを巧みに駆使し、茂みに身を隠しながら、伯爵の息子を誘拐する方法を考えていた。そこに従者も連れずにひとりで現れたのが、目的の少年だった。
「ゲハハハ――こりゃついてるぜ。まさか向こうからノコノコ出てきてくれるたぁありがてぇ」
ドブラはうつむいたまま考え事をしている少年に静かに近づき、少年が不審な存在に気づいて顔を上げると、もうドブラは少年の前に立っていた。
「お、お前はっ!? なぜお前がここに――――ぐぅっ……」
少年の意識を瞬時に奪ったドブラは、鬼のような眼差しで屋敷を睨んでいた。
「あのふざけた野郎だけは絶対にこの手でぶっ殺してやる」
慣れた動きで少年を拉致したドブラは、榛村たちが待つアジトへと帰っていく。
◆◆◆
まだ演奏の余韻が残る屋敷では、雪夫と密着する形でフィオナが佇んでいた。彼の心は彼女の豊かな胸に触れるたびに「おおっ!」と歓声を上げていたが、すぐに冷えた股間に視線を移し、がっくりと肩を落とす。
「あのような素晴らしい演奏は初めて聴きましたぞ! まだ興奮が冷めやらぬほどですぞ」
「魂まで震える演奏とは、まさにあのような演奏のことを言うのですわね。ユキオ卿はこの国一のピアニストですわ!」
「リネットのいう通りだ。さすがは辺境伯ですな。剣の腕もピアノの腕も超が付くほどの一流とは恐れ入った」
「娘のフィアンセがユキオ卿だなんて、私たちもとても鼻が高いですわ」
シュトラハビッツ夫妻は先程の演奏に深く感動した様子で、かれこれ一時間近く感想を語り続けていた。
「あの程度の演奏で魂など震えるかっ」
「旦那様、どちらへ」
「便所だァッ!」
怒りが頂点に達したバード伯爵は、クルセアの声を振り払い、極度の不快感を滲ませながらその場を後にした。
「なにが娘のフィアンセがユキオ卿でよかっただ! 何が超が付くほどの一流だッ! ふざけるでないわァッ!!」
――ユキオッ……貴様などハイムラの手にかかれば路地裏で野垂れ死ぬ野良犬も同然。私を怒らせたことをあの世で後悔させてくれるわ。
「少しいいだろうか……?」
クルセアはずっとウィルの姿が見えないことに不安を感じていた。バード伯爵がトイレに行った隙を見て、シュトラハビッツ家の使用人に話しかけていた。
「ずっとウィル様の姿が見当たらないのだが、居場所を知らないだろうか?」
「ウィル様でしたら少し風に当たりたいと、お庭に出られていましたよ?」
「そうか、助かった」
クルセアは使用人の少女に教えられた通り、庭に足を運んだが、そこに守るべき主君の姿はなかった。
「ウィル様、一体どちらに行かれたのですか」
彼がフィオナに御執心だったことを知っているクルセアは、ウィルの気持ちを考えると胸が張り裂けそうだった。
「さて、どうしたものか……」
探すべきか、それとももうしばらくそっとしておくべきかと悩むクルセアの視界に、ふと何かが光った。
「あれは……!?」
急いで駆け寄り、彼女は庭先に転がっていたブローチを拾い上げた。
「間違いない……ウィル様が大切にしているブローチだ。なぜ、これがこんなところに」
それは亡き母の形見のブローチであり、ウィルがそれを決して離さず身につけていることは、クナッパーツブッシュ家に仕える者なら誰もが知っている不動の事実だった。
「んんっ……!?」
クルセアはその場で身をかがめ、庭先に残された2つの足跡を指でなぞった。
「まだ新しい。大きさからして一つはウィル様のもので間違いない。では、この巨大な足跡は一体……」
クルセアの脳裏に、とある盗賊たちの姿が浮かび上がっていた。
「まさか……」
妖盗蛇衆を列車内で捕らえそこねた上に、最近この地域で彼らが出没しているとの情報を得ていたクルセアは、最悪の事態を予測して心がざわついた。
「――ウィル様ッ!」
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