小説家

三好祐貴

小説家

 私が子供の頃には、まだ小説家という職業があり、それを生業なりわいとしている者達がいた。小説家は自らが書いた小説(紙の上に書かれた物理的な小説ではなく、抽象的な意味での小説)を自らの作品と称して、その作品にまつわる権利、著作権を主張し、そうすることによって、そういった作品を出版社が本として複製し、販売した際に生じる利益の一部を受け取っていた。つまり、小説家は、それまで知られていなかった小説を世間に広める際、その小説を自らの創造物だと主張し、その小説にまつわる権利を他人に認めさせていたのだ。これは、その時まで誰も使ったことのない、とてつもなく大きな数字を紙に書くなどして最初に使った人が、その数字を自らの創造物と主張し、別の人がその数字を使う際に金銭を要求するようなものであり、現代人の感覚からすると、到底信じられない馬鹿げた与太話のように思えるだろう。ところが、そんな馬鹿げたことが、昔は実際、公然とまかり通っていたのである。

 もちろん、昔の人間が現代人と比べて劣っていたというわけではない。私が子供の頃にも、また、それよりずっと以前からも、こういった風習に対する疑問の声は存在していた。しかし、そうした声は出版業界により封殺され、一般には浸透していなかったのだ。

 出版業界にどうしてそんなことができたのか、また、彼らはどうしてそんなことをする必要があったのか、当時を知らない現代人にとっては分かり辛いことかもしれないが、昔、特にインターネットがなかった時代は、出版業界が情報伝達に関する絶大な力を有していた時代でもあり、世論というものが出版業界の一部の人間の手により形成されていた時代でもあった。そんな時代において、作品として重宝され、著作権により守られていた小説本は、その小説家と出版契約を結んでいた出版社が独占的に販売できる代物で、小説本は各出版社の売り上げに多大な貢献を果たしていたため、出版社による小説本の独占販売に支障をきたしかねない著作権への批判は、出版業界にとって断じて看過できない、絶対に押し潰さなければならないものであったのだ。

 この、当時存在した著作権という仕組みの崩壊を招いたのが、インターネット空間における「中央図書館」の創出である。中央図書館自体は現代人なら誰もが日常的に利用しているものではあるが、ことにその歴史に関しては、あまり知られていない印象なので、ここで簡単に説明しておこうと思う。

 「中央図書館」は元々、AIに小説を、当時の言い方で言うと、書かせる、つまり、発見させることを目的として設立されたAI文学社という会社が、自社のAIが書いた小説を保存していたデータベースの呼称であった。このAI文学社は途中、それまでの経営方針を転換し、20世紀に活躍した小説家、ホーヘイ・ルイース・ボージェスの発見した小説、「バベルの図書館」に登場する図書館の日本語版をインターネット上に生成するという計画に着手した。本来ならここで、「バベルの図書館」についての話をきちんとするべきなのかもしれないが、私の今回の目的はあくまで小説家についての記述であるため、それは割愛する。重要な事は、AI文学社が日本語の文章で使用されている全ての文字や記号の、あらゆる長さの、あらゆる組み合わせを自社のスパーコンピューターを使って生成するという作業を開始し、そこで生成された膨大な量の文章データを中央図書館に保存したということだ。これが我々が現在使っている中央図書館の始まりである。

 もちろん、日本語の文章に使われる文字や記号のあらゆる長さのあらゆる組み合わせは無限であるのに対し、中央図書館の蔵書は有限ではある。しかし、中央図書館には、速読に長けた人間が不眠不休で文章を読み続け、およそ百年以上かかっても読み終えることのできない程の文字数の文字のあらゆる組み合わせが、その開設当初より網羅されており、実質的には、人間が読み書きすることのできる全ての文章が保存されていると言えた。当然、その中には中央図書館開設以前に人々が書き、発表していた小説も含まれていたが、AI文学社は、それらを除く全ての小説に関する権利を中央図書館開設と同時に主張した。

 しかし、残念ながら当時の法律上、著作権は人間の創作物にしか認められておらず、AI文学社の主張は認められなかった。そこで、AI文学社は次なる一手として、万能検索ソフト「司書」を開発した。周知のとおり、現在の司書は我々の個人情報を基に、ボタン一つで各々がその時々に求めている小説を自動的に判断し、用意してくれるものだが、開発当初の司書にはそういった機能が備わっておらず、自分がどういった小説を求めているかを音声又はキーボード入力で説明しなければならないという、現在の物と比べると、随分と不便なものではあった。しかし、検索精度においては、当時より非常に高い水準を誇っており、「司書さえ使えば、ハズレなし」や「オタクに聞くより司書に聞け」などとうたわれるほどの絶大な人気を博し、結果、AI文学社は司書の使用料で巨万の富を得ることに成功した。

 因みに当時、最も流行した司書の使用用途は、人気小説家が次に発表しそうな小説を、噂や小説家の過去の発言を基に予想し、司書に探させ、それを個人のホームページや配信動画で紹介するというものであった。このため、その頃、新刊として発行された小説はことごとく、その文体も含めほぼ同一の内容のものが、その小説の発売以前より、既に中央図書館からダウンロードされ、インターネット上に出回ってしまっているという憂き目にあい、新刊書と司書の検索によるものとの類似性の比較はネットを連日、盛大に賑わせた。

 なお、この流行は、AI文学社が仕掛けた、小説家や出版社を淘汰するための戦略だったとする見解が一般的ではあるが、AI文学社側はそれを否定している。真偽はどうあれ、上述の出来事は小説家の不要性を人々に強く認識させ、小説を読むためにわざわざ本を買う人の数は激減した。

 こうして、中央図書館の開設後、司書の登場からわずか半年足らずにして、小説家及び出版業界は、かつてない程の窮地に追い込まれるまでに至ったのだが、無論、彼らも一連のAI文学社の動きを黙って見ていたというわけではない。彼らは、中央図書館や司書は人間性の喪失に繋がるとして、その運営の即時中止及び法的規制を求める呼びかけを著名人を旗振り役として起用し、行い、世論の扇動を試みた。

 対するAI文学社側は司書を使い、小説家や出版社の主張を人々の心情に訴える形で論破する文章を探し、それを広める活動に従事した。ここでは長々とした具体例の紹介は省略するが、AI文学社側の反論は基本的に以下の三つであった。


 1.中央図書館や司書が人間性の喪失に繋がる危険なものだという主張は、もっともらしい事を言っているようだが、その実、具体的には意味の分からない、内容の欠落したものである。 小説家や出版社とその賛同者達は、「人間性の喪失」という言葉が何を意味しているのか、中央図書館や司書が、どう、それに関係しているのか、全く説明していない。


 2.人間が小説を書かないということが、その人間の人間性の喪失に繋がるというのなら、世の中のほとんどを占める小説を書いたことのない人達は人間性に欠けているはずだが、それを裏付ける証拠はない。少なくとも、小説家や出版社とその賛同者達は、それを提示していない。彼らの主張は、小説家が小説を書き、それを出版社が出版することで、これまで人々の人間性が保たれてきたという彼らの思い上がり以外の何物でもない。


 3.仮に、小説を書くという行為が人間性に不可欠であったとしても、中央図書館や司書は人間の小説を書くという行為自体を、一切、妨げてはいない。小説家や出版社が著作権を行使し、それにより金銭的な利益を得ることを難しくしているに過ぎない。


 この論争は出版社や小説家と、その利害関係者を除く、ほぼ全ての人々の支持を得たAI文学社側の勝利で終結し、これを受けて、この論争の最中に既に広がりを見せていた著作権不要論は一段とその勢いを増し、結局、著作権に関わる法律のほとんど全ては撤廃されることとなった。その後、中央図書館と司書の小説等、娯楽以外の面での利用価値から、AI文学社は政府の管轄下に置かれるようになり、さらには情報発掘省へと昇格し、今日に至るまで様々な分野の発展に貢献している。特に、文書内の記述の全てにおいて整合性が見られるものの、それまで真実とされてきたものとは全く違う内容の文書の発掘は、新たな理論を生み出し、科学技術を飛躍的に発展させる大きな原動力となっている。

 一方、小説に関するそれまでの商業戦略の変革を余儀なくされた出版社は、文房具メーカーや伝統工芸師達と手を取り、装飾写本のような工芸品としての魅力を有する本の制作、及び販売へと舵を切った。小説家においては、そのほとんどが、そのまま姿を消していったのだが、些細な抵抗を見せた者達も稀にいたので、ここで紹介しておこう。

 まず、複数の著名な小説家達が、中央図書館の蔵書に存在しない独自制作の新しい記号を散りばめた小説を発表し、中央図書館には存在しない小説を書いたと宣言した。しかし、これらの新しい記号を使って書かれた小説は、どれも、中央図書館の蔵書の記号や漢字のいくつかを新しい記号に置き換えただけのものに過ぎないとの厳しい批判に晒された。酷評を受け、前述の小説家達の若干名は、中央図書館の蔵書内で使われている文字や記号の数を上回る数の新しい記号を制作し、それらのみで全てのページを埋め尽くした本を中央図書館内に存在しない小説として発表した。残念ながら、これらの本はグラフィックデザインの資料としては一定の関心を集めたものの、小説としての価値は皆無と評された。

 その他の小説家達の動向で特筆すべきは、その場での観客とのやり取りを通し、即興で短いお話を書いてみせるという、小説書きパフォーマンスに活路を見出した者達についてであろう。ただし、こういった小説書きパフォーマンスは、主催者側の人間を観客の中に仕込んでおきさえすれば、後は司書で予め検索して用意しておいたお話を、あたかも即興で書いたように披露するだけで成立したものなので、これにおいて、実際にその場でお話を制作する能力は特に必要とされなかった。そのため、小説書きパフォーマンスで活躍したのは古参の小説家達ではなく、「小学5年生の天才作家」といった触れ込みの神童系、元ホームレスの老人や、辛い生い立ちの人による、お涙頂戴系、そして、何百年に一度の美少女小説家といった謳い文句のアイドル系の新人小説家達であった。

 しかし、人が文字を書いている姿を見せるということで観客を長時間引き付けることは、たとえ観客たちが宣伝文句の魔法にかかっていたとしても困難であり、これらの小説家達のほとんどは早々にその姿を消していった。

 唯一、生き残ったのは執筆中の思考の過程を歌詞として歌いつつ、それに振りをつけて踊るという形式にパフォーマンスを発展させたアイドル系小説家達で、アイドル系の成功に伴い、よりパフォーマンスに重きを置く、新たなパフォーマンス小説も姿を現した。その代表例は、リング上で小説家同士が闘いながら、どちらが先に審判が合格点を付与する小説を書きあげるかを競う、格闘小説と、料理を作りながら、その料理に関連する小説を書き、書き上げた小説を披露する際に、料理を振舞って食べてもらうという、お料理小説であろう。

 こういった新種の小説書きパフォーマンスは、その物珍しさ故に一世を風靡するには至ったものの、やはり長続きはせず、現在ではアイドルのコンサート、プロレス興行、学校の文化祭等の出し物として極稀に行われるくらいである。

 かくして小説家業は衰退の一途を辿り、この種の人間はこの世界から消え去る運命にあるものかと思われた。しかし、そんな存亡の機に瀕した小説家を救った者達がいた。他ならぬ、動物愛護団体である。彼らは、職を失って暇と時間を持て余した小説家とその関係者らと共に、各地で執拗なデモ活動を繰り広げ、小説家を絶滅危惧種の特別天然記念物として認定させることに成功した。この認定をうけ、希望した小説家達は中央図書館設立以前の世界を模した特別区で、国により保護してもらえる運びとなり、小説家の絶滅は辛うじて回避されることとなった。というわけで、お陰様で今日に至るまで、私のような小説家はこんなくだらない小説を書きながら、何一つ苦労することもなく悠々自適な毎日を送れているのである。

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