第40話 ピロートークは煙草と共に


「アシュフィールド先生?」


 もうダメだと諦めかけたその時、突然先生が俺に重なるようにして崩れ落ちた。


 当然ながら唇が重なるようなことはなく、俺の耳元でスゥスゥと呼吸をしている。



「え? なにこれ。寝落ち?」


 そういえば先生、映画館でビールを飲んでいたけど割とすぐに顔が赤くなっていたような?


「……もしかして本当は下戸だったり?」


 思い返せば研究室で飲んでいたのもノンアルコールだった。


 泊まった時もお酒は飲まず、ずっと陽夜理の淹れたお茶ばかり飲んでいたし……。



「あー……まさか先生、緊張をほぐすために無理に飲んでいたんじゃ」


 思えば終始やたらテンションが高かったり、お喋りだったのもそれが原因か!?


「おいおい、マジか……」


 俺は恐る恐る顔を上げると――そこには安らかな表情で眠る先生の寝顔があった。


 俺は小さくため息を吐くと、その身体を畳の上に優しく横たえてやる。そして布団を敷くと静かに彼女を寝かしつけ、そっと掛け布団をかけてあげた。



「……おやすみ先生」


 ふと視線を上げると窓の外はすっかり暗くなっていた。


 どうやら結構な時間話し込んでいたらしいな。これは華菜さんや陽夜理に叱られるかもしれない。だけどまぁ……仕方ないか。



「ん……?」


 そんなことを考えていた俺だったが、ふと身体の上に何か重みを感じてそちらへ目を向けた。すると俺の腹部にコアラのようにしがみつく先生の姿が視界に飛び込んできた。


「うみゅう……堂森ぃ、お前だけだぁ……」


 あっちゃあ、寝言でもまだ言ってら。しかも今度はがっちりホールドされているから抜け出せないぞコレ?


「まったく……どうしてこの先生は、俺の前だとポンコツになってしまうんだろう」


 俺は呆れたようにため息を吐くが、先生の楽し気な顔を見ているとそれも許せてしまいそうだ。そして静かに彼女の頭を撫でてあげたのだった。



 ◇


 翌朝。目が覚めた俺は、隣で眠り続ける女性の身体を揺すって起こした。すると彼女は眠そうな瞼を擦りながら目を覚まし――それから俺の顔をジッと見つめてくると、どちらからともなくキスをした。


 柔らかく、しっとりとした感触が唇越しに伝わってくる。


 相手の息が漏れたタイミングで舌を侵入させると、不意だったのか彼女のカラダがぶるりと震えた。


 だが嫌ではなかったらしく、むしろ歓迎するように絡ませ、しばらくのあいだ堪能するように味わっていた。


 ただの朝の挨拶にしては随分と時間を掛けて――それでも互いに少し名残惜しそうに一つから二つに戻る。



「――おはよう。ソーゴ君」


「おはようございます、華菜さん」


 え? アシュフィールド先生と寝たんじゃないのかって?


 そんな命知らずなことをできるわけがない。


 酔っぱらった先生が寝落ちしてから数時間後、客室の布団の上で彼女は目を覚ました。そして慌てたように身体を起こし、土下座をしてきた。



「ももも申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁ!!」


 そんな彼女の奇行に目を丸くする俺だったが――どうやらあの一連の出来事は覚えているらしいな?



「いやまぁ大丈夫ですよ。別に何もなかったわけですし」


「そ、それはともかく! 私は酔った勢いでお前にとんでもないことをしてしまったのではないか!? もしそうだとしたら責任をとらせてほしいのだが!」


 そう言って再び頭を畳に擦りつけた彼女だが――しかし俺はそんな彼女に対して告げた。それはもう爽やかな笑顔で。


「何もなかったので安心してください」


「本当に何もなかったのか!?」


「えぇ、一切!」


 いや……俺としてもギリギリのところで踏みとどまったのだよ。それに先生も正気じゃなかったわけだしさ? 


 でもそこで手を出したら本当のクズに成り下がるのでやらなかった。天国にいる父さんや母さんたちが見ていたかもしれないし。


 両親に行為を見られるって最悪だな、うん。判断間違えなくて良かった。



 俺の言葉を聞くと先生はホッとしたように胸を撫でおろしたので、釘だけは刺しておく。


「でも次から人前でお酒を飲むのはやめましょうね?」


「……はい、すみませんでした」


 恥ずかしそうに俯いてプルプルと震える先生の姿はとても可愛らしい。


 俺がそんな彼女を微笑みながら見つめていると、彼女は思い出したように顔を上げた。


「撮影……できなかったな」


 折角準備したのに……と残念そうな表情を浮かべる彼女。



「それはまた今度、シラフのときにやりましょう」


「ホントか!? 良いのか!?」


「はい、約束します」


 俺がそう言うと先生は嬉しそうに抱き着いてきた。


 そんな彼女を受け止めつつ、俺は内心でため息を吐いた。



(また華菜さんを説得しないとだな――)


 そんな俺の心の声は先生には届かず、ただ上機嫌そうな声だけが耳に届くのであった。



 ◇


(とまぁ、どうにか華菜さんを説得わからせできたわけだけど)


 目覚めの一服に一本吸いながら、隣で着替え始めた華菜さんを眺める。


 女性を脱がせるのも良いけど、着ていく姿も中々に乙なものである。



「なにニヤついてるの? なんだか腹立つ表情になってるわよ?」


「あはは。女の味を知った男の顔ってやつですよ」


「もう……男の子ってみんなそうなの?」


 まだ時刻は五時で外も暗いけど、早く戻らないと娘の美愛ちゃんや妹の陽夜理に気付かれてしまう。


 華菜さんは上手いこと誤魔化しているみたいだけど、ひとつ屋根の下で住んでいるんだしバレるリスクは最小限にした方が良いだろう。いや、それなら家でするよりも街のホテルに行った方がいいのかな。



「ねぇ、週末のクリスマスイブはヒヨリちゃんと街でデートするんでしょう?」


「えぇ。ケーキを一緒に買いに行こうって約束してまして」


「私も一緒について行っちゃおうかな」


 悪戯っぽい笑みを浮かべてそんなことを言ってきた華菜さんだったが、俺が答える前に首を横に振った。


「冗談よ。ヒヨリちゃんはずっと頑張ってきたんだもの。サンタさんは良い子にプレゼントをあげなきゃね?」


「ははは。そうですね」


 我が堂森家では、クリスマスは宿を休んで家族で過ごすのが定番だった。――両親がまだ生きていた頃は。



 実は両親が行方不明になったのは、その前日であるイブだった。


 年内最後の営業日である24日にカップルで泊まりたいという予約が急遽入り、食事を提供するために海へ出た。


 その結果が――遭難だ。



「陽夜理には最悪なプレゼントになってしまったんですよ」


「彼女にとっては本当に嫌な思い出でしょうね……」


「だから思い出して辛くならないように、兄である俺がどうにかしたいんです」


 陽夜理は以前に比べれば立ち直ってくれたし、今では前と同じように笑顔を振りまいている。でも時々見せる陰のある表情や落ち込んだ様子を見ると心配になるのだ。


 俺は彼女の笑顔が好きだ。いつも笑っていてほしいと思っている。



「それで貴方が辛そうな顔をしてどうするのよ」


「え?」


 華菜さんは俺の肩に手を乗せて笑顔を浮かべた。


「大丈夫よ。ヒヨリちゃんは強い子だから。きっと乗り越えてくれるわよ」


「……はい、俺もそう願っています」


「それに今は私たちがいるでしょ? 少しは私に寄り掛かりなさい?」


「おっと……」


 まるで子供をあやすかのように頭をポンポンと撫でられてしまった。


 すると華菜さんはクスクスと笑う。



「なんだか昔のことを思い出すわね」


「昔……ですか?」


「ミアも夫が蒸発してからしばらくは元気なかったのよ? だからこうしてくっついて、頭を撫でていたの」


 あ、そっか。美愛ちゃんにもそういう時期があったんだな。


 普段は気丈に振る舞っているけど、やっぱり陽夜理と同じように不安だったに違いないだろうに。なのに俺はそんな素振りにすら気が付かなかったようだ。なんだか申し訳ないな。



「……今度からちゃんと甘えていいですか?」


「ふふ、いいわよ」


 そんなやり取りをしていると、ようやく着替え終えたらしい華菜さんが俺の前に立った。そして嬉しそうに微笑むと、その唇を俺の頬に落としてきた。


「ねぇ、華菜さん」


「ん? なぁに?」


 彼女からのキスを受け止めながら、俺はある疑問を口にする。


 今までもずっと感じていたことだ。だけど言い出せなかった。


「華菜さんがこうして俺と寝るのは、ミアちゃんのためだってのは分かってます。でも俺、貴方のことが好――」


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