ルシファー ~絶対進行形暗黒物体~

エール

第1話 ルシファー ~絶対進行形暗黒物体~

「やっぱり、今日はウミガメ、上がってないみたいね」


 一人の少女が、残念そうにつぶやいた。


 夏休み初日、早朝六時。

 宮本真優、高校一年生。

 傍らには、彼女の幼なじみで同じ高校の同級生、速見亮太が並んで歩いていた。


 この海岸は夏に数頭だが、ウミガメが上陸することでも知られている。それを見たいと彼女が言い出したのだ。


 真優の性格は、亮太に言わせれば「天然」。

 この日のように振り回される事は多々ある。けれど、それを楽しいと感じていた。

 腰まで伸びる長い髪と、アイドルさながらの可愛らしい顔立ち。

 亮太は、本音では彼女に惹かれていたが、その関係は現時点ではただの幼なじみだった。


「……亮太、あれ、何かな?」


 海岸線の南端である河口まで歩いたとき、真優はそれを見つけた。

 指差される方を見ると、ソフトボールほどの大きさの球体が、波打ち際と堤防の中間ぐらいに、約1.5mほどの高さで浮かんでいる。


「なんだ、あれ? 風船? にしては小さいな……」


 彼も興味をそそられ、彼女と共にその物体に近づいた。

 それはほぼ完全な球体で、黒く、わずかに金属光沢を放っていた。陸上で使う砲丸を、もっと黒く、ツルツルにしたような印象だ。


「動いてるよ」

「ああ、そうだな……なんか、こっちに近づいて来る」


 それは人が歩くより少し遅いぐらいの速度で、まっすぐ彼らに向かっている。

 やがて、ほんの二メートル程の距離にまで近づいてきた。

 見れば見るほどただの黒い鉄球だった。なぜ浮いているのか、なぜ進んでいるのか、二人にはまるで分からない。


「UFOよ! 凄いわ、大スクープよ! 亮太、どうしよう! ビデオカメラとか、持ってない?」


 大げさにはしゃぐ真優。

(確かにこれは凄いかもしれない……)

 亮太は冷静を装って、ポケットから最近買ったばかりのスマホを取り出した。


「これで動画、撮影できる。しかも4K画質でだ」

「すごい、さすが亮太! 早速撮影よ!」


 大喜びの真優。

 約1.5mの高さを、一定のゆっくりとした速度で北北東方向に進む物体。

 それをただ、ずっとカメラで撮影し続ける。


 約五分経った頃だった。

「……なんか、つまんないね」

 真優が不満そうに呟いた。

 速度を上げることも無ければ、方向も変えない。ただ、ひたすらまっすぐ、ゆっくりと進む。


「ちょっと、石投げてみるね」

 真優はそう言うと、波打ち際まで行って手頃な石を数個、拾ってきた。


「おいおい、やめとけよ。キズが付くかもしれないだろ?」

「いいの。その時はその時よ。第一、他に見てる人いないし」


 最初は十メートルほどの距離から石を投げていたが、真優のコントロールではなかなか当たらない。

 徐々に距離を詰め、ついに一メートルほどの距離から、ダーツの矢を飛ばすようなフォームで小石を投げる。

 見事命中。しかし、特に音が鳴るわけでもなく、小石は上に大きく跳ねた後、ただ普通に落下した。


「当たったー! でも、なんか変ね……」

 本当に鉄球ならもう少し音がしてもいいはずだった。

 その後も何度か挑戦するが、当たる場所によって下の方に落ちたり、横に弾かれたりで、結果は同じだった。


「……あ、いいもの見つけた!」

 と叫ぶと、一目散にかけだし、なにやら白いものを拾ってきた。

「これで捕まえてみよう!」

 彼女が手にしていたのは、レジ袋だった。

(……小学生か!)

 彼は心の中で突っ込みながらも、撮影を再開。

 真優はレジ袋を広げて球体の進行方向上で待ち構える。

「たあぁー!」

 子供っぽい掛け声と共にそれを被せ、そして反対方向に引っ張ろうとする。

「……くっ、重っ……強っ……きゃああぁ!」

 彼女は逆に球体に引っ張られ、転び、三十センチほど引きずられ、ようやくレジ袋から手を離した。

 レジ袋は風で飛んでいってしまった。

 亮太は笑いをこらえるのに必死だった。


 ここまでで分かったことは、

 ・この球体の正体は全く謎

 ・浮遊したまま、一定の速度でまっすぐ進行を続ける。それを止める事ができない。


 これだけだった。また、この後も、徹底してそれだけの物でしかなかった。

 しかし、たった「それだけ」の、ソフトボールほどのこの物体が、日本中を大パニックに陥れることになろうとは、二人とも想像すらしていなかった。


 その後約三十分、彼等はいろいろ実験したものの、特に大きな発見はなかった。

 また、この頃になってようやく、散歩に来た人や近所の人が、物珍しそうに集まりだした。

 一度こうなると、面白がって携帯で知り合いを呼ぶ人が現れ、あっという間に三十人ほどにまで増え、皆でぞろぞろと球体に付いていく。

 いつの間にか警察官や消防団員まで来たが、何をやってもその進行を止めることができない。


 最初の発見から約一時間半。

 全長四キロある砂浜をほぼ縦断した球体の行く手には、高さ二メートル程の丈夫なコンクリート製の防波堤が迫っていた。

 ここに来て、警官や消防団員が危ないから下がるように、皆に注意する。

 得体の知れない物体のことだ、防波堤に跳ね返され、勢いよくどこかに飛んでいくかもしれない。

 亮太と真優は、他の住民と共に、正直なところワクワクしながら、どうなるかを撮影、観察していた。

 ついに、球体が防波堤にゆっくりと衝突する。

 がこん、と大きな音が一度響く。

 そして次の瞬間、雷がその場に落ちたかの様な壮絶な轟音が響いた。

 一同、一瞬耳を塞ぎ、目を閉じ、その場に立ちすくむ。

 そしてゆっくりと目を開いてみると、防波堤のその部分が砕け散っていた。

 球体はその高度と速度を保ち、なお進行を続けている。

 さすがに全員、顔色を変えていた。

 あの丈夫なコンクリート製の防波堤が、いとも簡単に破壊された。

「……すごいね、亮太。怖いよ……私、こんなの捕まえようとしてたのね」

 さすがに脳天気な真優も、少し青ざめている。

 謎の球体が引き起こした、初の被害。

 それは彼等に大きな衝撃をもたらした。


 しばらくして、テレビカメラマンと女性アナウンサーが派遣されてきた。

 どうやら彼らは堤防が破壊される前から呼び出されていたようで、想像以上に騒然としたこの現状にかなり慌てていて、現在は田んぼの上を飛行する球体の撮影はもちろん、状況の報告など、非常に忙しそうだった。

 やがて、そのうちの一人、亮太も名前を知っている、地方テレビ局の美人女性アナウンサー・佐藤さんと、彼女と行動を共にしているスタッフ数人が近づいて来る。


「あなたたちが、第一発見者かな?」

「はい、そうです……もしかして取材とかですか?」

 真優が嬉しそうにそう逆質問する。

「ええ、お願いしてもいい? 見つけたときのこと、聞かせてもらえたらうれしいけど」

「あ、はい、もちろん!」

 真優は目をきらきらと輝かせながら、弾むような声で亮太に目で確認を取る。

「いや、俺はテレビに映りたくないから。最初に見つけたのは真優だし、一人で取材受けなよ」

 同級生や彼女の母親に、早朝から真優と二人で、海岸でデートしていた、と思われたくなかったのが彼の本心だった。


「最初に見つけたときの様子、教えてもらっていいですか?」

「はい、友達と二人でウミガメ上がっていないか確認しようと歩いてたら、あの球が浮いているの見つけたんです。で、しばらく見てたけど、ゆっくりと進むだけで、ちょっと飽きてきて、いろいろ実験したんですけど……」

「実験? どんなことしたのかな?」

「えっと、いろいろ……そうだ、そのときの動画、スマホで撮っているんですよ!」

 嬉しそうに亮太の方を向く真優。

 そこで一旦撮影を中断し、彼はスマホの動画を見せた。

 そこには実験映像だけでなく、堤防破壊の様子も収められている。

「……これ、すごいわ! スクープ映像よ、真優ちゃん、これ私たちにコピーもらえないかしら?」

「あ、はい、もちろん!」

「じゃあ、急いで編集して放送しなくちゃ……インタビューの続きもすぐ撮ろうね」

「お願いします!」

 撮影再開。

「この正体、何だと思います?」

「正体?」

「そう。最初に思いついた印象みたいなものでいいので」

「何かな……最初はUFOかなって思ったんですけど、なんかずっと一定方向にしか進まないし……幽霊? うーん、なんだろ」

「謎の飛行物体だし、初めて見つけたんだから、名前つければいいんじゃないかな?」

「名前……うーんと、じゃあ……『ルシファー』」

(……おまえはなんて名前を付けるんだ! 悪魔じゃないか!)

 亮太は口には出さないが、心の中でそう非難した。

 名付けた理由を後で確認してみると、「なんとなくかっこよさそう」だから、ということだった。


 その後、このスクープ映像は地方の放送局から全国放送へと展開され、ルシファーの異常さ、ネーミングにSNSでも一気にバズった。

 また、第一発見者で名付け親の真優は、その可愛らしさもあって、午後には一気に時の人となった。

 その間も、ルシファーは重要文化財の民家や、小さな山に突入してトンネルの一部を破壊し、反対側から出現して、なおも進行を続ける。

 六回階建てのビルを貫いた際は、重要な鉄骨を貫通したせいか、ビル全体が少し傾いたぐらいだった。

 結果、警察がこの球体の進行方向に当たる地域を、一部交通規制する騒ぎとなった。


 さらにテレビ局が進行方向をチェックした結果、この地方でも有名なご神木にぶつかる可能性を危惧していた。

 真優は、その様子の生放送に出演してほしいと要請され、亮太が付き添ってくれるなら、と了承したのだった。


「……ご神木の辺り、なんか人が集まってるね。やっぱりルシファー、ぶつかるのかな」

「ああ……どうやら、そうみたいだな」

 心配そうに答えた亮太だったが、内心、少し興奮していた。


「御神木」とは、この街を東西に通過する国道沿いにぽつんとたたずむ、樹齢五百年は超えていると言われる巨大なクスノキだ。

 神聖であることを意味する注連縄も締められている。

「この木を切り倒そうとする者には災いが降り注ぐ」という、ありがちでまことしやかな伝説も残っているらしい。


 亮太は、なんとなく「御神木を貫く悪魔」という決定的場面を見てみたい、などという少々不謹慎な期待を持っていた。

 人だかりの中心には、御神木と、そのすぐ脇に二台の大きなカメラ、そして佐藤アナも立っていた。


 ルシファーの進路を正確に測定した結果、御神木にはほんのわずか「かすめる」程度で済むということだった。

 それを証明するために、レーザーによるマーキングが進路調査隊の手によって行われており、その様子を放送したいが、レーザ光を受ける役割を担うスタッフが必要、という話だ。

 御神木は、わずかにカーブする県道の内側に立っており、奥側は幅百メートル程の川が流れている。

 スタッフと真優が居るのは、田園地帯と川を分ける大きな堤防の上だった。


 真優の役目は、御神木と道路を挟んだ反対側にしゃがみ込んで、ルシファーの進路を示す赤いレーザー光を、スケッチブックで受けるだけだ。

 ルシファーは海抜の関係でかなり低い位置、道路面ぎりぎりを通る事が既に分かっていた。

 真優はしゃがんで、抱えるようにそのスケッチブックを持つ事になる。

 ジーンズを履いているので、変な気を遣う必要もない。

 しばらくの後、スタッフの合図と共に、生中継が始まった。


「こちらは、まもなくルシファーが通過すると見られる現場です。ごらんください、この立派な木。樹齢五百年を超えると言われる、地元では御神木として名高いクスノキです。当初、ルシファーがこの御神木を直撃するのではないかと心配されましたが、幸いにもかすめる程度で……」

 亮太を含めた見物人は三十人ほど。全員、スタッフの事前の指示に従い、一定の距離以上は近づかない。

 そんな中、テレビモニターの映像は、真優の全身をアップで映し出した。

 抱え込むように持っているスケッチブックの白い紙面に、鮮やかな赤い点がくっきりと光っている。

 ちょっと緊張した彼女の表情まで、しっかり確認できた。


「あの赤い点は、ルシファーが建物に開けた穴と、今浮遊中のルシファーの上端をレーザーで結んだその先にあるものです。つまり、ルシファーはあの点のわずかに下、まさに地面ぎりぎりを通過するものと思われます……」

 佐藤アナの解説が続く。   


 そのときだった。

 数人の、大きな悲鳴が聞こえた。

 それにはっと顔を上げた亮太の目に、恐ろしい光景が飛び込んできた。

 わずかにカーブする道路を、不自然に傾いて走行する巨大なトレーラー。

 そこに満載された、長さ十メートルはあろうかと思われる、数本の鉄骨。

 不安定に積まれていたそれらが、トレーラーの傾きにバランスを失い、崩れ落ちる。


 生中継のカメラが映し続ける中、巨大な車体の横転と同時に、スローモーションのように鉄骨は降り注いだ……スケッチブックを抱える、真優の真上に。

 そこに居合わせた全員が身をすくめる轟音、そして数秒、時間が止まった。


「……う……うわあぁぁ、真優!」


 真っ先に声を上げたのは、亮太だった。

 土煙が上がり、数本の鉄骨が横たわるその場所に、彼は自らの危険も顧みずに飛び込んだ。

 やがて他の見物人や、テレビ局のスタッフも我に返り、急いで彼女がいた場所へと駆けつける。


「御神木の呪い……」

 誰かが、そうつぶやいた。


 ――それは、奇跡だった。

 腰より下を鉄骨の下敷きにされながら、彼女は、目を開いていた。


「……亮太……私、どうなったの?」

「真優、真優……よかった、生きてた……どっか痛くないか?」

「うん……でも、動けない……」


 痛くないが、動けない。それは、亮太をひどく不安にさせた。

 彼女は、痛みを感じることができないほどの大けがなのではないか、と。


「……こりゃあ、凄い! 運良く、歩道の段差にはまってる!」

 腹ばいになって、彼女と鉄骨の隙間を覗き込んだテレビ局のスタッフが叫んだ。

 亮太も、同じようにやってみて、彼女が生きている理由を悟った。

 車道と歩道の間には、段差が存在する。

 そしてたまたま、その切れ目、つまり歩道が低くなり段差がなくなっている箇所に彼女の身体が入り、その上に鉄骨が覆い被さっているのだ。


 ただ、鉄骨は一本ではない。

 数えてみると、五本もの鉄骨が複雑に重なり合い、それらと歩道の隙間にできたわずかな空間に、真優が入り込んでいるに過ぎなかった。

 なんとか脱出しようとするが、彼女の身体は鉄骨につっかえて、思うように身動きすることもできなかった。


「……無理しなくても、これなら、一番手前の鉄骨さえどかせば助けられそうだ。今、クレーン車を呼ぶから、ちょっと我慢してくれ」

 そう声をかけて来たのは、自らも額からわずかに血を流している、作業着姿の男だった。

 横転したトラックの運転手のようだった。

 彼は青ざめていたが、彼女が生きていたことに安堵、そして責任を感じているのか、急いでどこかに電話をかけていた。


「真優、真優……」

 亮太は、道路側に出ている彼女の右手をずっと握っていた。

 暖かいし、握り返してくる力強さも、彼を少し安心させた。


「もう……私、大丈夫だから……男の子なんだから、泣かないで」

 安心させるように笑顔を見せる真優。だが、その彼女も涙を流していた。

 そして、真優が少し顔を持ち上げた、そのときだった。

 彼女の額に、何か赤いものが見えた。

 最初、亮太は、彼女が血を流しているのかと、ぎくりとした。

 しかし、それが先ほど見た、レーザーによる赤い点だと気付いて、一瞬安堵し、その直後、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「うっ……あっ……」

「……どうしたの、亮太……」

 顔色が明らかに変わった彼を、真優は不審に思ってそう言った。

 それに対し、彼は思考が停止したように、何も応える事ができない。


「……ルシファーが……来る……」

 側にいたテレビ局の男性スタッフがそう呟き、青ざめた。

 ルシファーは、レーザーの点の直下、地面ぎりぎりを通る。

 つまり、彼女が嵌まっているその空間を、ルシファーが通過するのだ。

「今、この地点は、既にルシファーから半径一キロの避難指示区域に入っています……」


 一人の若い警察官が、恐ろしい言葉を発した。

 トレーラーの運転手は、もうすぐルシファーの警戒区域に入り、通行できなくなることを恐れ、スピードを上げていた。

 現場は緩やかながらカーブとなっている。

 テレビカメラとアナウンサーに注目し、その直後に、歩道の端ぎりぎりでしゃがんでいる真優に気づき、はっとして急ハンドルを切ってしまったことが横転の原因だった。

 五トンの鉄骨は、人間の手でどうにかなる重さではない。


「クレーン車が来るまでには、最低でも一時間はかかる……」

「遅すぎる!」


 初めて声を荒げる亮太を見て、真優は我が身の危機を悟った。


「ワイヤーでつないで、車で引っ張ればいいんじゃないですか? この一番手前、彼女の上に覆い被さっている鉄骨をずらせばいいんだ!」


 若い警察官が皆に声をかける。

 亮太は我に返り、周囲を見渡して一番馬力のありそうな車を指さした。


「あれで引っ張ってください!」


 それは、テレビの中継車だった。

 今、真優の体は歩道と車道のちょうど中間に位置し、その境目のわずかな「へこみ」に体が埋まっている状態だ。

 このままゆっくり「歩道と平行に」一番上の鉄骨をずらせば、彼女の体は脱出できそうだ。


 ただ、「道路側に」ずれてしまった場合、その鉄骨が落ちてきて、真優の上半身は押しつぶされてしまう。

 反対側にずらせれば安全だが、そちらは川であり、引っ張る術がなかった。


 トレーラー運転手の合図と共に、鉄骨をワイヤで繋いだ中継車がゆっくりと歩道と平行に、東方向に移動し始める。

 しかし、ワイヤがぴん、と張った次の瞬間、がくんとその動きがとまり、エンストした。

 何度か試したが、結果は同じ。

 五トンの鉄骨を動かすには、中継車では馬力不足だった。


 亮太の体からは、この暑さにもかかわらず、冷たい汗が流れていた。


「亮太……私、助からないの?」


 真優のか細いその声は、彼をぞっとさせた。


「ばかな……絶対助かるって! もうちょっとだから、がんばれ!」

「怖い……亮太、私まだ……死にたくないよ……」

「大丈夫だ。俺が助けるから!」

「本当? 約束だよ……」


 己を犠牲にしてでも、絶対に彼女を助ける……そう覚悟を決めた亮太だったが、その手段が見つからない。


「ルシファーが見えた!」


 誰かが叫んだ。

 それはほぼ目線と同じ高さで、水田の上に浮いていた。

 黒く、丸く、そして小さい。

 距離にして、約三百メートル。ルシファーはこの距離を、五分ほどで進んでくる。

 その飛行は正確だ。そして正確であるからこそ、彼女の体にもまた、確実に迫っている。


 目の前には、御神木が立っている。


(まさか……これは俺に対する呪いなのか……俺から、真優をむごたらしい方法で永遠に奪い、そして一生俺を苦しめるのか……そんな……絶対に嫌だ、それなら俺を殺せ!)


 そして少年は叫んだ。どうして真優なんだ、と。地面に両手、両膝をついて、大粒の涙をこぼした。


 あたりは、しん、と静まりかえった。

 打つ手がない。

 絶望的な空気があたりを包む。

 山をも貫くほど強大な力を持ったルシファー。ここにいる人間だけで止められるはずがない。

 だが、何とかしないと真優は死ぬ。どうあっても、何とかしなければならないのだ。


(理不尽だ……あんな小さな玉がすべてを貫くとんでもないパワーを持っているというのに、俺達にはこの鉄骨をどけるだけの力すら……)


 そのとき、亮太の中で、電撃のような閃きが走った。そして海岸での実験が思い出される。

 彼女は、ルシファーにレジ袋をかぶせ、引っ張ろうとして逆に引きずられていた。

 ルシファーは止めることはできないが、袋状の物をかぶせることにより、逆にルシファー自身に何かを引っ張らせることはできるのだ。

 彼は立ち上がると、すぐにトレーラーの運転手の元へ駆け寄った。


「もっと長いワイヤー、ありますか!」

「あ、ああ……そこに……」


 指さされたその箇所には、先ほどよりも太く長いワイヤーが無造作に置かれていた。


「これ、借ります!」


 亮太は言うが早いか、ワイヤーの一方の端を鉄骨側フックに通し、そのまま伸ばしていき、まず真優から歩道沿いに十メートルほど離れた電柱に掛けた。

 そこで九十度以上向きを変え、もう一方の端を持ったまま道路を横断し、そして御神木をぐるりと百八十度巻き込むように引っかけたところで、ほぼワイヤーの長さが尽きて、ピンと張った状態になった。


 上から見たならば、ワイヤーは鉄骨、電柱、御神木を結んだ三角形を形作る事になる。


 ルシファーは南からやってきて、正確に、ご神木の脇を通り抜けることが分かっている。


「ルシファーに鉄骨を引っ張らせるんだ!」


 亮太の叫ぶようなその言葉に、そこにいる警察官やテレビ局のスタッフ、そしてトレーラー運転手も、彼が何を考えているかを理解し、そしてその発想に唖然とした。


「ワイヤーの先端は輪っかだ……いや、あれを使えば!」

 運転手は、横転したトレーラーからある荷物を取ってきた。

「大きな岩石や土砂をクレーンでつり上げるためのワイヤーモッコだ!」

 そう解説しながら、手際よくワイヤの先端に、バネ付きフックを介して取り付けた。


 ルシファーはもう、ほんの三十メートルほどにまで迫っている。

 亮太は、ワイヤを掛けている御神木を見て、祈った。

(御神木様、どうか真優を助けてください!)


 ついさっき、「ルシファーと御神木の対決が見たい」などと考えた自分にとって、それが勝手な祈りだとは自覚していた。しかし今祈るべき対象は御神木しかなく、また、実際に真優の命を支えてくれる存在なのだ。


 人が歩くよりもやや遅い速度で、それは迫ってくる。

 そしてルシファーはあの赤いレーザー光が指し示したルートを、正確にトレースするかのように、待ち構えているワイヤーモッコに向かって浮遊してきた。

 ほとんど位置の調整も必要なく、袋状にしたワイヤーモッコに入った。


 一瞬置いてワイヤが張り詰め、電柱とご神木が揺れ、そしてガガガッという音と共に真優の上の鉄骨が、歩道と平行に、つまり電柱の方向に動き始めた。

 亮太は全力で真優の元に駆け寄る。

 そこにはすでに、体格のいい警察官二人が、彼女を救うべく待機していた。

 亮太は真優に


「鉄骨が動き出した。もうすぐ助かる!」

 と声をかけることしかできないが、それでも彼女にとっては、大きな安心となった。

 しかし次の瞬間。

 ガコン、と大きな音、一瞬遅れて、「うわあっ」と声を揃え、警官二人が飛び退いた。

 ワイヤーを掛けていた電柱がその加重に耐え切れず、真優の方に倒れかかってきたのだ。


 彼らの頭上に落ちてくるような勢いだったが、上部が電線に支えられ、一瞬動きが止まった。

 ワイヤーも少し上方にずれたが、金属製の足場に引っかかり、なんとかそこで止まっていた。

 しかし、今すぐにも彼等の方に倒れてきそうだ。

 その時点で真優のすぐ側に留まっていたのは、亮太ただ一人だった。

 真優を押しつぶそうと迫り来るルシファー。しかしそれは同時に、真優を鉄骨から解放する牽引者でもある。


 再びガコン、と電柱が傾く。

 他の救出者が尻込みする状況の中、亮太だけは彼女の手首を握り、離さない。


「真優、大丈夫だ! 絶対に俺が助ける!」

「亮太……亮太ぁ……」


 真優は自分の危機的状況と、そして絶対に逃げようとしない亮太の姿に、ただ涙を流し、彼の名前を言い続けることしかできない。

 この間、わずか数秒――。

 そして、その時は訪れた。

 ルシファーを包んだワイヤーモッコが、彼女の鼻先、数十センチまで迫った瞬間、


「うおおぉーっ!」


 亮太は真優の腹部と地面の間に手を差し入れ、一気に持ち上げた。

 その上に覆い被さっていた鉄骨は、もう完全に抜けていた。

 跳ねるように彼女の体は持ち上がり、そして車道側へと仰向けに倒れ込んだ亮太の上にのしかかった。


 彼女は、解放された。だが、危機はまだ去っていなかった。


「亮太、危ない!」


 ついに荷重に耐えきれなくなった電柱が、ものすごい勢いで彼等の上方に倒れ込んできたのだ。


 真優は、亮太の手を握り、そしてうずくまった。そして彼も一瞬、自分が押しつぶされることを覚悟した。

 激しい衝撃と振動、破裂音、そして土埃。


 ……さらに数秒後、ゆっくりと目を開けると、そこには電柱はなかった。

 間一髪、倒れ込んできた電柱はルシファーに当たり、そして歩道側へとずれ込み、そのままルシファーに押されて大きく折れ曲がっていたのだ。

 そこにようやく、警官や作業員が救助に来た。


「真優、大丈夫か?」

 繋いだままの手の先を見る。

「うん、生きてる……うん……」


 相変わらず泣いているが、とりあえず大丈夫そうな様子に安心した。

 そして真優は、待機していた救急車へと運ばれる。亮太も同乗した。


「亮太……手、つないで……」


 ストレッチャーに寝かされた真優の言葉を聞き、彼は素直に彼女の手を握った。

 暖かかった。

 そして真優が生きていた事を、あの御神木に感謝した。

 彼の心は、安堵と、そして幸福感に満ちていた。

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