極夜
目を開けると真っ白な世界だった。
何も無い。
ただただ白い空間が広がっていた。
もうお腹は空いていなかった。
寒くもない。
体も軽かった。
何も無いので自分のしっぽを追いかけてみた。
くるくる、くるくる、くるくる。
疲れはしないが飽きた。
何も無いので歩いてみることにしよう。
ほんとうに、ただ、ただ、真っ白だった。
上も下もない。自分がどこをどんなふうに歩いているのかもわからない。
そういえば何かを探していた気がする。なんだっけ。
思い出せないけどまあ、いいか。
歩いて、歩いて、歩いて、
どれくらい歩いたのだろう。
もう歩くのにも飽きてきた。
もうそろそろ歩くのをやめて寝ちゃおうかな、と思った頃に突然何かにぶつかった。
確かにぶつかった感覚はあるのに目の前は白いままだった。
変なの。なんでここだけ通れないんだろう。
もう一度同じ場所を歩いてみた。
やはり見えない何かに弾き飛ばされた。
今度は助走をつけて体当たりしてみよう。
お尻をフリフリして…アタック!!!
「うふふふふ!!!やめてよ、くすぐったい!」
頭のずっと上から突然声が聞こえた。
「さっきから私のおしりをくすぐるのはだあれ?」
壁だと思っていたものが突然動きはじめた。
どうやら壁ではなく生き物だったようだ。
それも、とてつもなく大きい。
見たこともない生き物だ。
全身が真っ白の、分厚いごわごわの毛皮で覆われている。
真っ黒い大きな鼻、まんまるの耳。小さな真っ黒の瞳でこちらを見ている。
全身の毛を逆立てて唸った。
「あら、これはなあに?ウサギかしら?それにしては耳が短いわね。」
「わ、わ、来るなっ!!!!僕を食べても美味しくないぞ!!!!」
シャアッ!!!と威嚇したが、相手はくすくす笑うだけだった。
「食べないわよぉ。だってここへ来てから全然お腹が空いていないんだもの。でも、さっきまですごくお腹が空いてた気がするわねぇ。」
そう言えば僕もすごくお腹が減って悲しくて苦しくて辛かったのに、今はなんともない。
「ほんとに食べない?」
「大丈夫よぉ。よく見るとあなたとっても可愛いのね。耳がとんがっててキツネにも似てるような気がするけど、違うわね。」
キツネってなんだろう?
よくわからないけど悪いやつではないらしい。
「ふわふわで真っ白くてまるで…、まるで…、あら、なんだったかしら?」
白い山のようなそいつは、うーん、と考え込んだ。
「なんだか大事だったものに似ている気がするんだけど、それが何か忘れちゃったわねぇ。」
ま、いいか、と言って、つぶらな黒い瞳がまたこちらを向いた。
「あなた本当に可愛いわぁ。お鼻はピンク色で、お目目も晴れた日の空みたいに青くって、赤ちゃんペンギンよりもずっと可愛い!」
アカチャンペンギン?また訳のわからない事を言っているが、褒められてちょっと照れくさくなった。
「ね、ねぇ、おばさんはいったい何者?ここはいったいどこなの?」
白い大きなおばさんは、ふうむ、と少し考えてから答えた。
「おばさんは見ての通りクマなわけだけど、ここがどこかっていうのは私にもよく分からないのよねぇ。」
クマ、また知らない言葉だ。
「お腹が空いて寒くてひもじくてもうだめだぁ、と思って気がついたら、ここにいたのよね。変なところねぇ、と思ってぼーっとしてたら、あなたにお尻をツンツンされたって訳。あなたこそ何者なのかしらね、かわいこちゃん。」
かわいこちゃん、はなんだかムズムズした。
でも、嫌ではない。
「ぼくも、ぼくもおなじだった。お腹空いて寒くて苦しくて気がついたらもうお腹減ってなくて…。」
「あら、そうなの?ひょっとして私たち同じ夢を見ているのかしら?」
「ユメ???」
「きっとそうよ。あなた、夢みたいに可愛いんだもの。私の夢に出てきてくれてありがとう!」
そう言って僕の頭をぽふぽふ、と真っ黒い大きな肉球が付いた手で優しく撫でた。
暖かかった。
「ねぇ、夢ならきっと何でもできるわよ。どうせなら素敵なものを見ましょうよ。」
クマのおばさんは、うーん、うーん、と唸って、それから何か思いついた顔をした。
「そうだ!オーロラを見ましょう!!!オーロラが見たいわ!!!」
でてこい、おーろら、でてこい、おーろら、とおばさんは目を閉じて唱え始めた。
すると、突然真っ白だった世界が闇に包まれた。
いやだ、夜は嫌いだ。
思わず目をギュッと閉じた。
「嫌だ、夜は怖いよ。」
「あら、そうなの?やっぱりおチビちゃんはおばさんとは遠く離れたところに住んでいるのね。おばさんが住んでいるところはね、ずっと夜が続くのよ。」
「朝が来ないの?」
「そうよ。毎日ずっと夜なのよ」
「そんなの嫌だあ。僕、夜は嫌いだ。」
おばさんは、ふふ、と笑って言った。
「ずっとずっと夜なんだけどね、そんな日が続いて何日も何日も夜なんだけどね、今度はずっと昼になるのよ。」
「何それ、変なの。でも僕ずっと昼の方がいいや。昼の方が明るくてあったかいんだもの。」
「そうね。でも、夜にしか見えないものもあるのよ。上を見てごらんなさい。」
恐る恐る、おばさんの見上げる先を一緒に見た。
暗闇をキラキラしたものが埋め尽くしていた。
「うわぁ…すごく綺麗。おばさん、あれなあに?」
「あれは星よ。夜でないと見えないの。ずっと昼だったらこんなに綺麗なものも見られないのよ。」
「夜がこんなに綺麗だなんて知らなかった。ぼく、こんなの初めて見たよ。」
無数に輝く点と、点、ずっと眺めていたら吸い込まれそうだった。
「あっ、ほら、あっちを見てごらん。あれがオーロラよ。」
そう言っておばさんが指差した方を見ると、光と光が重なって複雑な色を生み出していた。緑色に光ったり、青になったり、紫になったり、瞳の中にシャボン玉が入って動いているようだった。
「すごい、すごいね!あんなに綺麗なもの、見た事ない!!」
「うふふ、喜んでもらえてうれしい。ねぇ、今度はおチビちゃんもやってみせて!あなたが知ってる綺麗なものも見たいわ。」
「どうしたらいいの?」
「私はオーロラが見たいよ〜!って念じたら出てきたから、きっとおチビちゃんにもできるわよ。ほら、何か思い出してみて。」
僕の知ってる綺麗なもの…、なんだろう、うーん、あっ、そうだ!あれだ!あれをおばさんに見せてあげよう。
出てこい、出てこい!
コトン、と小さな音がしてピカピカのドングリが現れた。
「まぁ、これがおチビちゃんの綺麗なものなのね。すごく綺麗だわ!」
「ね!すごくピカピカでしょ!見つけた時嬉しくて、ぼくお母さんに見せたくって大事に隠しておいたんだ!」
あれ、オカアサンってなんだっけ。
「あらそうなのね。それはとても大切なものを見せてくれてありがとう。」
それから僕らは、この不思議な強く念じたものが現れる力を使って色んなものを出す遊びを続けた。
おばさんが見せてくれるものは、どれも僕が初めて見るものばかりですごくワクワクした。
「ねぇねぇ、おばさん次はなぁに?」
僕は目をきらきらさせながら言った。
「そうねえ、おばさんもうそろそろ思いつかなくなってきちゃったわねぇ。」
僕たちの周りは夜空と、白い氷と、黒い海で埋め尽くされていた。
おばさんが住んでいるところはこんな所なのだと教えてくれた。
「そうだ」
おばさんは黒い瞳をキラキラさせながらこっちを見た。
「おチビちゃんが抱っこさせてくれたらもう一つくらい思いつくかもねぇ。」
ニヤニヤしながらおばさんはそう言った。
「ええっ、ちょっと恥ずかしいよ…。」
「いいじゃない、ちょっとだけ、ね!」
そう言って僕の体をひょいっと抱き上げてギュッとした。
ふわふわの柔らかい毛皮に包まれて、思わず前足をグーパーしたい衝動に駆られた。
懐かしい匂いがした。
「おかあさん…」
思い出した。
お母さんだ。
僕はお母さんを探していたんだ。
「おばさんがお母さんなの?」
おばさんは困った顔をした。
「わからない…。」
おばさんも何かを思い出したようだ。
そっと、僕を下ろして、後ろを向いて考え込んでしまった。
すると、おばさんの目の前に、白いものが現れた。
僕よりはずっと大きいけれど、おばさんよりはずっと小さかった。
その姿はおばさんによく似ていた。
「お母さん?」
なぜかはわからないが、おばさんにそう、声をかけていた。
おばさんの前にいた小さなおばさんに似た生き物が突然消えた。
周りに見えていたオーロラや、夜空や、ペンギンや大きな氷の塊も消えて元の真っ白な世界に戻った。
おばさんは黙って歩き出した。
ぼくもついて歩いた。
白い、白い、白い。
上も下もない真っ白な世界。
「ね、ねえ!お母さん、待って!!!」
本当にお母さんなのかわからないその白い生物に、僕は呼びかけた。
「違う!!!!!」
白い生物は背を向けたまま叫んだ。
「あんたはこっちに来ちゃいけないよ。引き返すんだ。」
そう言ってずんずん進んでいった。僕は追いかけた。
「嫌だよ!僕もお母さんとそっちへ行く!!!」
にゃあ、にゃあ、と叫びながら追いかけた。だんだん声が掠れてびゃあ、びゃあ、と白い空間に響いた。
「違うったら!!!!」
びく、と体が硬直した。
「私の子はそんな可愛い声で鳴いたりしないよ。」
少しだけまたさっきの優しい声に戻った。だが、くるりと振り返った白い生物は牙を剥き出しこう言った。
「絶対についてくるんじゃない!!!!今すぐ引き返せ!じゃないと食っちまうよ!!!」
牙から糸を引いてグルル、と凄んだ。
少し後ずさりしてから踵を返し、白い生物の向かう方向とは逆に走り出した。
必死で走った。
振り返らずに、白い世界をひたすら走った。走って走って、そのうちお腹が空いてきた。白かった世界もだんだん薄暗くなり、やがて完全な闇になった。寒い、怖い、さみしい。それでも足を止めず走った。暗闇は怖かったが、さっきの夜空を思い出していた。星が落ちてきそうなほど無数に輝き、辺りを照らし出す。もう、夜は怖くなかった。
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