赤い蜘蛛
古池ねじ
第1話
回顧展は空いていた。休日はともかく、平日はこんなものらしい。一枚一枚の絵をじっくり見て周る。
画家の息子だというのに絵には詳しくない。絵の才能もない。俺が特別というより、父が特殊だったのかもしれない。医者の一家に生まれたのに、父は何故だか一人だけ絵を選んだ。そして、その息子である俺は医学部に進学した。
でも、父の絵は好きだった。穏やかでいつも言葉少なに微笑んでいた父と、描く絵の印象はまるで違い、それが面白かった。父の絵は植物や風景、建物が多い。生き物はほとんど登場しない。どの絵もどこか暗く、端正で写実的に描かれた花や草や建物が、不意に動き出しそうに見える。見入ってしまう。好き、というより、心惹かれる、というほうが近いかもしれない。
足を止める。この絵が一番好きだ。
『赤い蜘蛛』
遺作になる油絵だ。小さい。柔らかなクリーム色の背景に、ぽつん、と、赤い蜘蛛が描かれている。珍しい、生き物の絵だ。輪郭がはっきりとした蜘蛛はどこか奇妙だ。影がないせいかもしれない。生き物を描くと、植物や風景よりも静かな印象になるのが不思議だ。けれどじっと見ていると、動いているように感じる。蜘蛛ではなく、その絵自体が波打って、こちらを誘ってくる。いつまでも見ていたいけれど、見ていると、まずい、とも感じる。この絵が専門家にどう評価されているのかはわからない。さほど重要な作品とされていないのは確かだ。でも、心惹かれる。とても。
近くで見た後、引いた姿も見たくて、後ろに下がった。
誰かにぶつかった。
慌てて振り返ると、相手は転んでしまっていた。
「すみません」
助け起こす。意外なことに、相手は少年だった。高校生ぐらいの、とても細い男の子だ。色が白く、分厚い眼鏡をかけている。髪は長めで、前髪で顔の半分が隠れてしまっている。黒いタートルネックに黒いパンツ。お母さんからサイズの合っていない服を買い与えられたという感じだ。素朴で地味な男の子。
「すみません。僕もぼうっとしていて」
ぼそぼそ、と、低い、聞き取りにくい声で話す。
「この絵が好き?」
聞くと、曖昧に笑って首を傾げた。
「ごめん。この絵が好きな人にあんまり会ったことがなくて。つい」
男の子は笑った。とても静かな笑い方をする子だ。すぐに笑いは引っ込んだ。もっと、笑った顔を見たかった。心惹かれた。とても。
「もしよかったら、」
そこで、部屋の隅に腰かけている学芸員の目が気になった。これだけ人がいなくても、私語には口うるさい。距離をつめて、声を潜める。
「そこの喫茶室で珈琲でも飲まない?」
彼は頷いてくれた。
喫茶室には大きな窓がある。外は雨が降っている。雨の音はしないが、雨の気配がする。静かな、暗い気配。二人ともブレンドを頼んだ。
「ひどい味だな」
つい口に出してしまう。彼もほんの一口飲んで、
「本当だ」
と笑った。同年代で珈琲の味の良し悪しがわかる相手が珍しくて、嬉しくなった。
「珈琲は好き?」
「そんなに飲まないけど」
いつの間にか彼の口調から敬語が消えていた。それもなんだか嬉しかった。
「美味しいやつばっかり飲んでたから、たまにまずいの飲むとびっくりする」
「俺も」
嬉しくなって、前のめりになった。そんな自分に戸惑う。身体を引く。
「絵が好きなの?」
「そういうわけじゃないけど、なんだか……気になって」
「そうなんだ。ありがとう」
首を傾げた彼に、自分が息子であると告げた。彼は眼鏡越しに俺の顔をじっと見た。
「そう言えば、似てるかも」
「そうかな」
俺の顔はどちらかと言うと線が細くて母親似だ。父は眉も目も鼻も口も大ぶりでぐっと迫力があり、あまり似ていない。背が高く肩幅の広い体格は似ているけれど。
「お父さん、亡くなって、悲しい?」
ちいさな子供が尋ねるような、邪気のない聞き方だった。父が死んで、もうすぐ一年になる。深夜に車で事故を起こした。誰も巻き込まなかったのが幸いだった。
「うん。悲しいよ」
「優しいお父さんだったの?」
「うん。好きだった」
誰かにそれを聞いてほしかったのだと、答えてから思った。父が好きだった。自身も医者で忙しい母と、ふとしたときに海外に行ってしまったり、何日もアトリエから帰ってこない父は、不仲というわけではないが、夫婦と言うにはあまりに疎遠だった。それでも、会えば優しく笑ってくれる父が好きだった。ごつごつとした大きな手で撫でられるのも。父という存在に持つ一般的な親しみとは違うものかもしれないけれど。
「珈琲もね、父がよく淹れてくれたんだ」
「そうなんだ」
小学生のときは、父のアトリエによく押し掛けていた。父は絵を描いているときもあったが、本を読んだり、音楽を聴いているだけのこともあった。また来たのかと少し呆れながらも歓迎してくれ、優しく笑って珈琲を淹れてくれた。アトリエにミルクはなかった。最初は苦かったけれど、父と同じものを飲めるのが嬉しかった。珈琲を飲むとそのままそこで勉強をした。真面目だなあと父は笑っていた。たくさん勉強して、母さんみたいな人間になりなさい、と。普通の夫婦ではなかったが、父は母をいつも尊重していた。そんな話を、彼にしていた。
「素敵な家族だね」
「ありがとう」
「悲しいね」
彼は眼鏡を外した。眼鏡を外すと、ますます幼く見えた。白いつるんとした、地味な顔立ち。小さな目が、涙で濡れていた。
「これ」
ハンカチを渡すと、ごめんね、と涙を拭った。下瞼に透明に光っていた涙がハンカチにしみ込んでいく。
「僕が泣いたりするの、変だね」
「そんなことないよ。ありがとう」
「綺麗なハンカチ」
小さな鳥が飛んでいる意匠のハンカチはもらいものだ。誰にもらったのかは忘れた。
「気に入ったならあげるよ」
彼は面白そうに笑って、首を振った。
「いらないよ。うち、アイロンないもん」
クリーニングに出せばいいのに、と思ったけれど、口には出さなかった。自分の家の金の使い方がいくらか浮世離れしていることは知っていた。
「本当はね、洗ってまた会ったときに返すって言えたらいいんだけどね、アイロン、ないから。ごめんね」
「いいよ。気にしなくて」
ハンカチを受け取った。彼の涙が沁みついている。そっとポケットにしまった。
「今日は学校休みなの?」
「休みっていうか、講義はないよ。今日は夕方から」
彼はいたずらが成功したように笑った。
「大学生だよ。よく高校生に間違えられるけど」
「ごめん」
彼は大学の二年だった。同い年だ。国立大学の法学部。俺の大学からもそう遠くない。聞くと、期待が生まれた。
「また会えるかな」
喫茶室から出るときに、ようやくそう聞いた。彼は俺を見上げて、ぱちぱちと瞬きをした。
「美味しい珈琲の店があるんだ。今度一緒に行こう。奢るから」
必死な俺の言葉に、彼は笑った。
「あのね、僕も、また会えるかなって訊こうと思ってた」
こう付け加えた。
「珈琲は、まずくてもいいよ」
その言い方が面白くて、二人で笑った。別れたあと、言葉の意味を考えて、じわじわと嬉しかった。
彼とはまたすぐに会った。珈琲のうまい店の隅のテーブルで二人で話し込んだり、映画を観に行ったり、美術館に行ったりした。最初の珈琲と同じで、彼にお金は出させなかった。大した金額でもないし、映画も美術館も、チケットをもらっていた。
「お金持ちって、もらえるものもたくさんあるんだね」
とは彼の言葉だった。そうかもしれない。何を見ても彼はあまり話さず、俺の話をよく聞いてくれた。話す相手がいると、感じていたことが明確になる。
「お父さんの話をして」
と、彼はよく言った。嬉しかった。母にも、周囲にも、あまり話す機会がなかった。避けているわけではないが、自分から話すようなことじゃない。でも、話したかった。俺が、あの人を好きだったこと。
「うらやましいな」
と、あるとき彼が呟いた。
「お父さんのこと、僕、好きじゃなかったから」
「そうなんだ」
彼の家族の話は、そのときに初めて聞いた。身体の弱い母親と二人暮らしをしているらしい。あまり裕福ではない、はっきり言えば、貧しいほうだと言うことは、聞かなくてもわかっていた。いつも同じような黒い、サイズの合わない服を着ている。清潔にしているけれど、持ち物には傷みが目立った。
「お金はくれたけど……すごく、嫌なこと、するから、好きじゃなかった」
「そうか」
「痛いこととか……」
テーブルの上に投げ出された彼の手の甲が震えていた。俺はそれを、そっと包んだ。つめたい、滑らかな肌。
「だから……死んだとき、悲しくなかったの」
「うん」
「呆れる?」
「ううん」
よかった、と、彼は笑った。俺は手を伸ばして、彼の眼鏡を外し、滲んでいた涙を今度は指で拭った。透明な雫はぬるく俺の指を濡らした。
「怒るかもしれないけど」
俺は不思議そうにこちらを見る彼に言った。
「うん」
「そんな人は、死んでよかったよ」
彼は真っ直ぐな睫毛を伏せて、俺の手をつかんだ。小さな唇が開いて、小さな舌が、俺の指先を、涙とは違う温度で濡らした。
その瞬間、これまでずっと二人の間に漂っていた何かが、はっきりとした形を持った。ずっとそこにあって、その名前を呼ぶことなく、ただ気配を愉しんでいた。今はもう、それでは足りない。
この子がほしい。
予感や気配ではもう追いつかない。もっと確かなものが必要だった。初めて感じる情動の強さに、自分で怯えた。俺の手は震えて、彼の手も震えていた。
「行こう」
手を繋いだままそう言った。彼は何も言わずについてきた。
外は雨が降っていた。タクシーを拾い、行き先を告げると、手を繋いだまま黙っていた。運転手も何も言わなかった。たどり着いたアトリエは暗かった。油絵具と埃と雨の匂いがした。灯りはつけないで、と彼は言った。交わした言葉はそれだけだった。
アトリエの奥の部屋にはベッドがあった。暗い中で彼の肌を探った。柔らかい肌に触れると、それだけで嬉しくて堪らなかった。誰かと肌を合わせるのは初めてで、男同士で。それなのに、奇妙なほどうまくいった。彼は俺の欲望の何もかもを小さな体で受け入れてくれた。とても痩せているのに、どこもかしこも柔らかくて滑らかで心地よくて、こうするのが一番自然だとさえ感じた。今まで引き離されていただけ。やっと巡り合って、重なり合った。これが正しい。
「お祈りをしてたんだ」
暗い部屋で、疲れた身体をくっつけあって、彼が言った。息継ぎのようにキスを交わした。暗闇の中でも、どこに唇があるのかわかる。俺の体に彼の体はぴったりと馴染む。
「お祈り?」
「うん」
誰もいないのに、耳に唇を寄せて囁いた。
「君が僕を好きになってくれますように、って」
祈る前に叶っていたよ、と、俺は思った。あの絵の前で出会ったとき、彼が頼りなく尻もちをついたときには、もう好きだった。
「好きだよ」
「本当?」
「大好きだよ」
「嬉しい」
今まで聞いたことがないほど弾んだ声だった。抱きしめ合うと、胸元で彼は言った。
「僕のお祈りはね、叶うんだよ」
「そうなの?」
「お父さんが、死にますようにって、祈ってた」
無邪気な声だった。それが、余計に悲しかった。それでも彼の祈りが叶って、ここに二人でいられることが、幸せだった。
「許してくれる?」
「許すよ」
「嬉しい」
彼の手のひらが俺の顔を包んだ。
「約束して。僕から離れないって」
「約束するよ」
しなくても、もう離れられないと思った。
「絶対に離れない」
誓いを呑みこむように彼がキスをした。そのまま、もう一度身体を重ねた。欲望というより、そのものが約束のような、必死なセックスだった。
息が落ち着くと、彼が俺の腕からするりと抜け出した。
「どうしたの」
暗い部屋に、裸足の足音が響いた。迷いなく進んで、ぱちん、と、音がする。電気がつく。白い光の眩しさに、目をつぶった。
「僕ね、自分の父親の顔、知らないんだ」
「え?」
「生きてるのかも死んでるのかもわからない。そのせいで貧乏だったんだろうけど、でも、恨んでるわけじゃない。何もしてくれなかっただけだから」
「嘘だったの?」
彼は応えなかった。目を開けると、白い光のなかで、クリーム色の身体が見えた。美しい色。美しい気配。心惹かれる。見覚えがある、と思った。無関係のはずのものが、記憶の中で結びつこうとしている。
「見て」
彼が背を向けた。そのクリーム色の尻には、あの絵の赤い蜘蛛が刻まれていた。
赤い蜘蛛 古池ねじ @satouneji
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