第17話

 むかし、むかしのおはなし。

 ある一人の若い男が海の近くに住んでいました。その男の家は代々、毎日船にのって、魚を捕り、それを売ることで生計をたてていました。けれども、その男はぴちぴちと泳ぐ、生きた魚がとても好きだったので、魚を捕ることはできても、死ぬところを見ていられませんでした。

 ある日を境に、男は船に乗ると魚が死んでしまうことばかり考えるようになって、すぐに気持ち悪くなるようになりました。魚が陸にあげられた生臭いにおいや、透き通るような赤い血液を見るたびに、「自分が生きているから、自分のせいでこの魚は死んでしまうんだ」と思うようになりました。

 奇妙な男の変化を見て、家族は、最初は「調子が悪いだけだ」と思っていましたが、それが何週間も、何か月も続くので、町で一番、だと思っている医者に息子をみせることにしました。男は医者が大嫌いでしたから、最初は、「絶対に医者になど行かない。これは病気ではない」と、意地を張っていましたが、近所の者たちが、

「あいつ、気を変にしたそうだぞ」「いやいや、昔からおかしな奴だったじゃあないか」と、噂するようになると、

「こうなったら、気はのらないが、医者に診てもらって俺が変ではないことを証明してやろう」と次の日、早速まちはずれにある病院へ歩いて行きました。白くて、冷たい感じの建物。扉を開けると、気持ちを暗くさせるような、嗅いでいるだけで神経衰弱しそうな、エタノールの香りが男を包みました。

 男は、これでは匂いのせいで頭がおかしくなってしまいそうだな、と考えました。

そうはいうものの、「病院へ行っておいて何もせずに帰るなんて、そんなことをしたらいよいよ変人扱いされる」と、考えなおし、診察の番をおとなしく待つことにしました。

 待ちながら、男は本棚に置いてある絵本を何気なく手に取りました。その絵本には、猫が気球に乗っている不思議な絵が描かれています。しばらくしてから、その気球は魚を模したものだと気づきました。ああ、魚のことがこの猫は好きなのだな、そうでなくてはこんな気球に乗るまい、と男は思いました。残念なことに中身を見る前に、看護婦に名前を呼ばれ、診察室へと向かはなくてはなりませんでした。

 暗い廊下の先にある診察室には、無表情の医者と看護師が待っておりました。

「きょうはどうされましたか? 」と医者に訊かれます。この医者は「きょうは」なんて言うが、この病院には来たことないぞ、事務的に診察をしているのだな、と男は思いました。だから病院というものは気に入らないのだ、あてになどならないのです。

「どうされましたか」

 男があんまりにもなかなか症状を言わないものですから、医者はもういちどそう言いました。

「いや、わたしは病気とかそういう物のたぐいじゃあないと思うんですがね、魚が死ぬのを見ると、調子が悪くなってしまうんですよ」

「ほう。聞いたことのない症状ですな。……、魚の生臭いにおいがお嫌いなだけではないのですかな? 」

「生臭いにおいをかぐ前から、船に乗っていると気持ち悪くなるのでございます」

「では、船酔いではないですかな? わたしも船に乗ると酔ってしまうので、できるだけ乗りたくないのですよ」

「船にのって潮風に当たるのは好きなのでございます。魚が死ぬことを考えたり、魚が死ぬのを見たりすると気分が悪くなるのでございます」

 全然議論が進んでいないことに男は気づきました。堂々巡りです。

「ウウム……。精神的なものかもしれませんな。紹介状を書きますから、そちらへ行ってみてください。わたしは内科ですから、どうもそちらのこと……、精神的なことにはあまり詳しくないのですよ」と、医者は診察を終える、というよりは匙を投げました。

 その時に白衣の袖からのぞく、銀色の腕時計をちら、と見たのを、男は見逃しませんでした。

 病院の会計を待っている間、先程の会話を頭の中で再現しました。前に進んでいるようで全然進まない会話。聞いているようで実は自分の話をする医者。終始にこりとも微笑まない看護師。無理やり診察を終わらせ、たらい回しにされる自分。こんなにも払いたくないお金はないな、と思いました。

 会計を済ませて、外に出るとすっかり昼になっていました。無機質な空間にいて麻痺していた食欲も湧いてきています。

「そうだ、この近くにはそば屋があったな、そばだ、そばを食べに行こう」

 誰かがいるわけでもないのに、そう話しかけるように言い、男はずんずん歩き出しました。春といえど、夏が近づき始めていましたから、歩くたびに、暑くなって汗がじわり、と額からにじみました。

 汗をぬぐいぬぐい、そば屋につくと、そば茶を出されるのとほぼ同時に、好物の月見そばを男は注文しました。月見そばは五分ほどで、えんじ色の服を着たかわいらしい給仕によって運ばれてきました。

 お椀まで熱い湯気の立ったそばをずるずると啜りながら、病院にあった絵本のことを思い出しました。男は不思議なことに、絵本のことを忘れていたのです。

 「中身はどうなっていたのだろうか」と思ってもみましたが、わざわざ探してまで読もうとも思いませんでした。ただただ、自分と同じように魚が好きなものがいる、それだけで、男の気持ちは満たされていました。

 そばを平らげ、家に帰ると不審そうな顔つきをして父も、母もこちらをじっと見てきました。その表情に困惑した男は、

「ただいま」

 とりあえず、そう言ってみました。しかし、

「ただいま、じゃないわよ。今日、ちゃんと病院行ってきたんでしょうね」と、母が堰を切ったように勢いよく話しだしました。しくじりました。しかし、男は会話をする第一歩というのは挨拶である、という自論めいたことを十数年思って暮らしておりましたので、それを愛する母親に否定されたということが、ショックでした。

「行ってきたよ。そしたらお医者さんはうちでは見られないから、ここに行ってください、って」と言って、ポケットの中を手で探りました。しかし、ポケットの中でいくら指先を曲げたり、伸ばしたりしてみても爪にぶつかるのは、ぐちゃぐちゃに丸めた飴玉の包み紙だけでした。

 男はそのときになって、病院で紹介状をもらいそびれたということに気づきました。

「紹介状、病院でもらい忘れた」

「ほら、病院なんて行ってこなかったんでしょ? 嘘つかなくても素直に言えばいいじゃないの。遊んできた、って」母は、呆れた顔で、しかし諦めた顔でそう言いました。

「本当に行ったんだ。紹介状も書いてもらったんだ。嘘なんて吐いていない。一緒に病院に行って今日来たことを訊いてみたっていいんだよ」

 男は必死に、本当に必死に、訴えました。けれど、父と母の表情は変わることはありませんでした。冷たい、怒っている目でした。男は、目の前で素直が嘘に、嘘が素直に変身していくのを見ました。悔しく、許せませんでした。自分自身のことも、こんな世の中にも。

 男の父は、その時になってはじめて、

「これでは、いつまで経ってもお嫁をもらえないだけでなく、私たちが死んでしまえば、ここでは生きていけないだろう。結婚しても余所さまの家に迷惑かけかねないからな。おまえをこの家には置いておけない。ここにいてはいけないんだ。二度と家の敷居をまたぐな」と言い放ち、目隠しをしました。目を開けても閉じても、眼前はまっくら闇で、終いには自分が目を閉じているのかどうかさえ、よく分からなくなってしまいました。

 町で一番ひっそりしている山に連れていかれている間、男はあったかもしれない未来のことを考えていました。白無垢を着た、花嫁の姿。綿帽子をかぶったその花嫁姿は、ただでさえ顔をよく見ることが難しく、やっと顔が見えても伏し目がちな顔がのぞくばかり。ただ、ひとつだけ違うものがありました。紅を差した脣の艶めきです。紅い脣にはひどく目を引きつけられたのです。

 山の奥まで入ると、目隠しを取り、「もう戻ってきてはだめだ」と怒鳴るように言い放ちました。どことなく、父親は優しい目を残していました。

 男は、父親を追いかけ、許しを請おうなどとは思いませんでした。それどころか、投げやりに、自分なんてどうなったっていい、と思っていました。

 そんなわけで、こうして男はひとり、森なのか、山なのかよく分からないまま、置いてけぼりになってしまったのです。

 不思議と、男は悲しくありませんでした。というよりも、感情が起きる器官が麻痺しているような、誤作動を起こしているような、「無」の感情でした。

 さて、男は生まれたときから海の近くでずっと住んできましたから、これから、どうしたものか、と木々に囲まれて悩みました。悩んでも、何もわからなくて、それでも、少しの間悩んでいるふりをしてみました。悩んでいる様子を見せておきたかったのです。誰に?助けを神様が、男の祖先が、何らかの慈悲によって与えてくれるような気がしたのです。 

 しかし、木はうっそうと茂り、日当たりは悪く、上に神様が見ていたとしても、気づいてくれないような気がしてきました。風は植物を揺らすばかりです。

 男は弱々しく笑いました。焦りというよりはむしろ、余裕というものが心に生まれてきたからかもしれません。海の荒れ方や、魚がどこにいるか、どの季節に何がとれるか、船の扱い方についてはよく知っていました。が、先ほど言いましたように、山のことは何も分かりませんでした。

 どの草が食べられるのか、足元に生えている気持ちの悪い色をしたきのこは食べられるのか。夜はどうやって過ごすのか、火の起こし方は?

 男はとりあえず、人を探すことにしました。山賊でも、何でもいいから誰かに会いたい。そうでなければ一人でいるということの心細さにおかしくなってしまいそうだったのです。

 しかし、山には人の気配はどこまでも、どこまでもありませんでした。鳥の聲が聞こえ、蛾も、小さな羽虫も、土の中から出てきたみみずも、男のほうを見ているような気がしました。ここでも、「お前はここにいてはいけない、いるべきではない」と拒絶されているように思えました。耳の奥で父の聲がずっとこだましているようでした。

 鳥も、虫も、木も、きのこもすべて、同じ種が集まって共同体を作っていました。男だけ、ひとりでした。それが、一番、男の強さと忍耐を蝕んでいきました。気持ちの弱さに巣食っていきました。みんな、余所者の自分を見て、排除しようとしているように感じられました。

 足元に生えているきのこのしわは、病院の待合室にいた年老いたおばあさんの手を思い出させました。その手は、温かくもあるけれど、どこか危険な香りもする、逃げ出したい、逃げなくちゃいけない手でありました。気を抜いたら、絡めとられて、死者の世界へと引き込まれてしまいそうな、不安になる手でした。

 昔、眠る前に母から聞いた「うばすてやま」のお話に出てきたおばあさんみたいに、知恵を教えてくれるたぐいの、「良い」老人ではないことは確かでした。

 ――「ここにいてはいけないんだ」

また、聞こえたような気がしました。今度は母の聲でした。あきらめてしまったような、涙がのどに潜んでいるような聲でした。幻だと分かっているのに、はっきりと聞き取れました。いよいよ、頭がおかしくなったらしい。そんなふうに男は思いました。

 だんだんと、男まで悲しくなってきました。自分が今までしてきたすべてのことを恥ずかしく思うようになりました。いっそ、死のうか、と思いました。これだけ人に「困った人扱い」されて、居場所もなくて、幸せな未来など訪れない、と思うようになりました。山を出られたって、これからは、自分の奇妙な病について知っている人に後ろ指されるのに怯えて生きていかなければいけない気がしました。

 未来の不安や悪いことばかりが頭の中に氾濫している時は、何を考えたって良い方向のことは思いつかないものです。さらに男は考えます。

 この出口のない山に人がいたとして、なんと説明しようか。仕事ができないから勘当された、とでも言えばいいのだろうか。それは、恥ずかしくて言えない。

 死のう。そうするしか、ない。

 そう思った男は死ぬ方法をぼんやりと、消しを眺めて考え始めました。どこかにあるであろう、崖から飛び降りて死ぬこと、息を止めて窒息死、どこかの木で首を吊る、川に飛び込んで入水自殺、きのこを食べて中毒死。色んなことを考えてみましたが、男はよくイメージできませんでした。死にたい気持ちが心を侵食していくのに、それを浄化するほどの恐怖が男に濁流のように流れていたからです。

 それは、死ぬことへの恐怖ではありませんでした。自殺して、そのみすぼらしい、気持ちの悪い死体になった自分が誰かに見つかるということへの恐怖でした。また、悲しみはせずとも、近所の人間に「あの家の息子さん、自殺したんですって」とか、「あそこの人、息子さんを自殺に追いやったんですって」と裏でうわさし、自分の家族が責められることが想像されて、耐えられなかったからです。 

 それは自殺することよりも、リアルに、容易く想像することができました。いくら、親に捨てられたって、男にとって親は、二人きりの愛すべき親でした。

 ここにいてはいけないんだ、ここにいてはいけないんだ、と、父母の聲が記憶の箱の中から溢れてきます。ああ、最後家を出る時、母に「ごめんなさい」と「育ててくれてありがとうございました」と言って置けばよかった。父が山から出ていく前に「家を継げなくてごめんなさい」「生意気ですみません」と言って置けばよかった、と男は自分の言葉足らずと、言えなかった謝罪と感謝を悔やみました。父母のことを考えると、居心地の良かったあの家のことを思うと、目に涙が、心にはこれまでの生活の思い出が浮かびました。いてもいられなくなって、めちゃくちゃに歩き始めました。そうしていると、「オ・・・イ・・・。お、い。おい」という聲が聞こえるではないですか。

 その低い聲は、「お」と「い」の間の伸ばし棒が極端に短かったために、「おーい」というのが「おい」と言っているように聞こえました。それは、変に緊張をさせるような聲でした。――別に悪いことをしていなくても、警察に話しかけられると緊張するのに似ていました。

 聲の聞こえるほうに行ってみると、そこには切り株に腰かけている人がいました。はねた泥がそのまま乾いて所々薄い茶色になってしまった、長靴をはいていました。

その老人は「よっこらせ」といって、立ち上がりました。思ったよりも背が高かったから、驚きました。切られた木の延長がそこにあるような、一八五センチはあるであろう身長でした。

「はいさっはぁ? 」老人は開口一番、そんなことを言いました。かすれた、聞き取りにくい聲でした。どうやら「挨拶は? 」と言っているようです。男は少しの沈黙の後、「こんにちは」と言いました。その様子が気に入らなそうに、「言われなければ挨拶もできんのか」と呆れていました。

 ――どうやら、挨拶の大切さにこの老人は気づいているようでした。

「すみません。あの、この山の近くには、家はないのですか」

「ある。だが、その前にお前がその場所にいられる人間であるか見定める必要がある」

「何をすればよろしいんですか」

「まあ、こっちにこい」と言われて案内された先には、お墓に似た石がありました。

 そこだけ、円形に光が入るようになっています。光の差し加減で、緑にも、青にも、白にも、橙にも見える場所でありました。そこは、神聖な場所に見え、自分のようなものが何も考えずに踏みいれて良いような場所ではありませんでした。入るのが憚られるような、迂闊に入れば身の危険がありそうな、ぞわりとする場所でした。

 男は訳の分からないまま、石でできた電話を、少し離れた場所からゆっくり眺めまわしました。記念の石碑のようでもある、今まで見たことのない電話でした。

「ここで、電話をかけるんだ」

「だれに、ですか? 」

「お前さんが、ここに来て言わなかったことに後悔している、その相手だ」

「それは、例えば亡くなった人とでも、よろしいんですか? 」

「ああ。それもできる。というのも、この電話は念じた相手と話せるからだ」

 男は、意味が分からな過ぎて、疑いの気持ちが大きくなっていましたが、ここで反発してしまえばほぼ確実に、野垂れ死にすると分かっていましたから、黙って従うことにしました。

 男が最も心残りにしている相手は、父母でしたから、父母の顔を念じてみようと考えました。念じるには、まず顔を思い出すことだ、そう考えました。しかし、顔をしっかり思い出そうとすればするほど曖昧になってぼやけていきます。焦りと哀しみが募りました。

 それでも、電話は繋がり、受話器から「はい、もしもし」と聞こえました。男はとても現実に起こっていることとは信じられませんでした。電話番号を入れたわけでも、誰かに教えたわけでもない―何もしていないのに、懐かしい聲が電話越しに聞こえてきたのですから。

 なかなか男が話しはじめないので、電話の向こうから、

「どちら様でしょう」と不審げな聲が聞こえてきます。

 ――母の聲だ。確かに母と同じ話し方だ。

でも、男は「息子だ」と言ったら電話を切られてしまいそうな気がしたので、

「私は息子さんの伝言を預かってきたものです」と名乗りました。

「あの、息子さんは、父母にありがとうと、ごめんなさいを伝えたいと」

「いいえ、いいえ。こちらこそ謝りたいの。こうするしかなかったわたしを許してほしい。いえ、やっぱり許さなくていい。ただ、生きていてほしい」

「うん……、母さん、あのさ……」

 だんだんと、「息子さん」という設定を忘れて、男は息子として話をしていました。男も話しながらなんとなく気づいていました。でも、今更修正する必要なんてないと思いました。

「ごめんなさい。ほんとうに。家業を継げなかったことも、親孝行できなかったことも。結婚できなくて、孫の顔を見せてあげられなかったことも。駄目駄目でごめんなさ……」

 男は嗚咽が漏れ、最後まで言えません。待って、待ってくれ。まだ終わってないんだ。男は、涙で目の前の視界がぼやけ、解像度の悪い木々がみえました。それはただの緑色の絵の具を見ているのと、ほとんど大差ありませんでした。男の母は話し続けていました。

「私たちのこと許せないと思う。私たちも自分のこと許せないもの。でも、きっとこの町にいたら、ずっと苦しまなければならない。狭い共同体の中だから、悪いうわさがどんどん流れて、生き辛い。それなら、新しい、知らない、広い場所にいてほしい。呼吸が心地よくできる場所で。あ……ⅰ…………t……u……」

 ああ、もう聲が遠くなって聞こえにくい。何を言っているかよく聞き取れない。待って、待って。もっと言わないといけないことがある気がする。何も言えない。なんで。もっと言いたいことはあるはずなのに言葉が出てこない。男は焦りとともに、あきらめを感じました。

 ピーーーー。高い音が聞こえました。時間切れのようでした。病床で聞こえるような音でした。静かで、悲しくて、何もできなかったと思えるような音。

 隣で見ていた老人は電話が切れたことが分かったようで、ぽつり、と呟くように、

「いつか仲良くなろうと思っている間に、あっけなく時間は過ぎていくのさ。いつかなんて来ないし、仲良くする気なんてない、ってのとそんなに変わらないし。話そうと思っていたってタイミングを逃して、次は来ないままおわりなのさ。あっけないねぇ。魂は分かっているなんて、私たちに都合のいいように考えているとしか思えないよ」と言いました。さらに、老人は続けます。

「ほれ、意識して呼吸してみろ。胸に、腹に空気が入る。そして空気を今度は鼻から出す」

 男は言われた通りにやってみます。すぅ、はぁ。空気をすって、はいて。はいている時に、嫌な空気を生産しているように思えました。

「今の呼吸で八秒はかけているわけだ。そう考えると実はすごく時間は長いようだが、思っているよりも長くない、短いものだと思えるだろう? わたしたちは膨らみ、しぼむのを繰り返す。人生や気持ちと同じさ」

「そんなことを言ったって、やっぱり時間はどこまでも続いていて、わたしたちはその時間に必死にしがみついて生きていかなきゃならないじゃないですか」男は口答えをしました。

「じゃあ、その中でお前にほんとうに大事に使えている、お前さんに必要な時間はどれくらいある?たとえば今、こうやってこんな話をしているのも、無駄ではないのかね」

「自分が、自分だけが、間違えているというわけではない、それを知るために大事なんです」

「ほう」と老人はため息を吐くような感じで言いました。

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