第16話
雨が上がり晴れ間がのぞく。
七時、起床。
とうとう、と言うべきか、それともあっけなく、と言うべきか。場所が分かった電話を見に行く。
現在、ふたりでバスの到着を待っている。足下には、一本のたばこの吸い殻。さっきまで、誰かのくちびるに支えられていたのだろうか。それから、白い鳥のフン。絵の具でドリッピングをしたようだった。
大抵、道端に落ちているものは誰かが生きていることの証で、足跡で、生き物の歴史なのだ。道ができたのだって、生き物が何度も歩いたからできてて。それは繋がり、と表現してもいいかもしれない。ゆっくりと、誰かが紡いで、拓いてきたもの。
バス停の斜め向かいには二軒の住宅。一軒は羽毛布団の干されたバルコニーや、手入れされた庭がある。生活感の宝庫。反対側のほうにあるもう一軒の家の窓には、フィギュアが飾られている。なんのキャラクターかはよく分からないが、緑色がよく見えた。
昨日「電話のありか」を地図で確認すると、バスで数十分、降りてから徒歩十五分というなんとも長い、退屈な、けれど眠るには短すぎる場所にあると分かった。
乗り込んだバスには誰も乗っておらず、バスの一番後ろの席に先輩と座る。途中でしゃっくりをしてしゃべりにくそうな女の子が母親と乗って、図書館前の停留所で降りた。誰かが降りたと思うと、また違う停留所で誰かが乗る。杖を突いたおばあさん、車いすのおじさん。双子だろうか、よく似た顔の小学生の男の子。車内は縦や横に揺れる。ときどき「完全に停車してから動いて下さい」というアナウンス。咳払い。本をめくるかすかな音。車内にあるもの全てが、バス特有の不思議なにおいと交わりあって非現実的なものに見えた。
急に、一人になった気がして先輩の方を確認した。窓の外を見ているふりをして。右側にいる先輩は窓の外の風景を眺めていて、わたしの眼前には先輩の左耳の様子が大きく広がった。血液がよくまわって耳の縁にいくほど赤くなっている。耳のしわがぐるぐると耳の穴、鼓膜へと誘っている。きれいな耳だ。この耳にぴったり合う、鍵がどこにあるんじゃないか、と思ったくらいだ。
バスは体を揺らしながら走り続けている。標高が高くなったポイントで耳が詰まる。ぎゅっと外側からやわらかいものを押し付けられている。
ありがとうございました、バスを降りる時、そう伝えると背後からお気をつけて、と聞こえた。
バスを降りた後、歩き慣れていない先輩は少し歩いただけで「つかれた」と言いだす。
歩いている道の傍には青々とした水田がどこまでも広がり、朝の光を反射する。蜻蛉がシャボン玉みたいに透明な、うすい羽を動かしている。パジジ、みたいな音。
高校よりも標高が高いせいか、青々としげる木陰が陽を遮っているおかげなのか、夏なのに涼しい。
「この辺、だ、と思う、んですけど」
目的地周辺まで歩き続けて先輩は脛と膝をさする。ちょっと気を抜いたらつまずいて転びそうなその男を見て、「帰り、ころばないでくださいよ」とちょっと呆れながらつぶやく。
見回せど、見回せど、電話らしきものは見つからない。地図を見るためにスマホの画面を覗く。検索をかけると、通信環境が悪いのか穴の開いた丸がぐるぐると回っている。その色は黒だと思ったら、すぐに白になって、また黒になって、目まぐるしい。
「だめですね。電波悪いみたいです」
わたしは、答えてくれないスマホを睨む。
「いいじゃん。せっかくここまで来たんだし、ちょっと探検してみようよ」
「足痛いんじゃなかったですっけ? 」
「ん。だから休憩もかねて、座れるとこ探そうよ」
「そうですね。まあ、わたしもちょっと座りたいかも」
ちょっと歩くと、真っ赤な実をならせた
「これ、食べたことあります? 」
「ぐみでしょ? 一回たベてみたときに、渋くて口の中変になったから、それから食べてない。ちょっとしたトラウマになってるのかも」
わたしはなんだか、よく分からないけど、食べておいた方がいい気がした。変な言い方をするなら、克服の実かもしれない。そんな気がしたのだ。
「ちょっと食べてみませんか? 」
「まあ、いいけど」
「じゃあ、せーので口に入れましょう? 」
オッケー、と言い、目配せをして、ふたりで、「「せーーーのっ! 」」と口の中に放り込む。舌の上で飴玉のように転がすと、小さな凹凸がある薄い皮なのが感じられた。前歯で破くと中はやわらかい、ぐにゃりとした独特の食感が果汁とともに口の中に広がる。先輩は、甘い……けどすっぱい、と驚きながら小さく悲鳴をあげた。すごい顔。顔のパーツ中心に寄ったみたいに歪んでいる。
「でも、おいしかった? かも」
先輩は、自分に起きた出来事を受け取れきれていない。
――結局、一つずつ、解決していくしかないのだ。多分。なんとなく、そんなふうに思う。一つ一つ解決していけば、視界は広がる。
わたしはもう一人じゃない。そう思えるから足元だけじゃなく、前を、上を、ほんの少し左右も見ることができるようになった。
歩きながら先輩が、鼻歌を歌っている。
「それ何の歌ですか? 」
「え、逃避行、だけど、知ってる? 」
さよなら 逃避行
昨日の酔いも 覚めない君と
抜け出す街を 行こう
さよなら 逃避行
「夢を見たいの」
泣き出す君と 抜け出す街を
行こう 行こう 行こう
初めて聞いた曲だった。なのに鳥肌が立つ感じがした。
「スマホでよく聴くんだよね、この曲。……そういえば、携帯電話って言葉、使わなくなってきたよね」
「スマホって、本来は電話なんですよね。なのにメイン機能のはずの電話って意外と使わなくって。実は本来の役割が薄れてきちゃってるんじゃないかって時々思うんです」
「役割を決めつけられることほど、生きにくいことはないよ。物は、人は、別の役割をだれかに見つけてもらうために存在しているのかもしれない」
「じゃあ、あの電話にも別の役割があるんですかね。見つけてあげたいですね」
「そうだね」
先輩は伏し目がちにそう言った。
――じゃあ、わたしの価値は何なんだろう。役割って何だろう。わたしは人に何をしてあげられるだろう。誰が、見つけてくれるんだろう。
……それにしても、さびれた町である。歩けど歩けど人に全然会わない。
もう一度、スマホで調べてみようか、そう思っていると、お寺が目の前に見えた。早速、ふたりで入ってみる。
お寺の建っている横や後ろには、青々とした竹林が広がっている。見上げても、見上げても竹のてっぺんはよく見えなくて、空は隠されている。もし、天国が空の上にあったら、お天道様がわたしたちのことを見ているなら、隠れ家になるだろう。よく見えなくて困惑している空の上の人々を想像してみたら、なんだか愉快だ。
だれか、人はいないのだろうか。お寺の中を進むと、卵塔場と呼ばれる墓地があった。普通のお墓の石と違って、角ばっていないお墓が並んでいた。スーパーに並ぶ透明なパックにきっちりと入った、たまごが思い浮かんだ。一パック十個入り。
石の表面には、苔が生えて、薄緑色のシミができている。随分と古いお墓のようだ。石が欠けていたり、ひびが入っていたりしている。黄色や紫や白の菊の花が供えられている。誰か、管理している人がいるらしい。
あまりの墓石の数に気を取られていると、足に、ぴとっと何か湿った冷たいものがふれた。ぎょっとして足元を見ると、ねこがこちらを見上げている。一呼吸おいて、先輩もねこの存在に気づき、「ねこだ」と言った。
ねこは、変な柄をしていた。赤っぽい茶色と、黒と、琥珀みたいな黄色を絵の具で混ぜかけのまま放置したみたいな柄だった。瞳が澄んだ黄緑色をしていた。しゃがんで、ねこと視線を合わせると、陽だまりのにおいがする。にゃあ、と鳴かない、静かな、おしゃまなねこ。
「かわった柄のねこ」
初対面で「変わっている」と言うのだから、わたしも大概、失礼な人間である。
「サビねこというらしいよ。そういう柄のねこ」
さび、か。たしかに鉄の匂いがしそうな、何とも言えない色と、むらのある染まり具合だ。知っているわけでもないのに、警戒心がない。恐れというものを少しも持っていないようだった。わたしはゆっくりとしゃがみこむ。撫でてみたいと思ったのだ。
いざ、長い毛の彼女を撫でてみると、思った以上に細い毛がふぅんわり、としていた。撫でれば撫でるほど、自分の中にある出所不明な不安が消されていく。長い毛が指の間に入り込む。生ぬるいあたたかさが伝わる。撫でられてうれしいのか、ねこがわたしの指や手の甲をしゃりしゃりと、透明な突起のあるざらざらした舌でなめまわした。ときどき、歯をたててもぎもぎ噛まれる。三角形の耳の中には、うす茶色の長い毛が花束みたいに生えている。耳に触れると、震えるように動いた。小さなあしには、短い毛がみっしりと生えていた。指先が魅力的だったから触ると、ちょっと嫌がって、体の中に隠すように座った。
夢中でねこをかまっていると、お寺の住職の人がやってきた。六十歳くらいだろうか。
「見ない顔だね。きっとこの辺の人じゃないでしょう?きっと、これもなにかの縁なんだろうか……」
意味深である。電話を探しているのだということを話すと、お寺の住職の人は、一瞬驚いた顔をして、
「その電話についての昔話があるんだが、聴いてくれないかい? その存在を知らない人ばかりで、誰にでも話せないからねぇ……」
「ぜひ、聴かせてください」と返す先輩の顔がいきいきとしている。若干、住職の人はその反応にひいている。
「じゃあ、話させてもらうよ」
そうして、昔話の幕が上がった。
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