第13話

 学校にいる間は家に帰りたいのに、いざ帰ってみたら気が重い。一つは父母と何でも話せるような仲じゃないから。もう一つは、深夜になるまで何かしらの音が家中に響き、一人になれないことから来ている。他にもあるかもしれないけど。

「ただいま」

 玄関でスニーカーを脱ぎ、さらに廊下を歩きながら紺色の靴下を脱ぐ。茶色い、つやのあるフローリングが素足と触れ合い、ぺたぺた音をたてる。薄暗い洗面所にある洗濯かごに電気もつけないまま雑に投げ込み、居間の畳に鞄をドサッと預ける。

「おかえり。今日はどうだった? 」

キッチンに入ると、母はいつもこう言う。

「うん」

 ――うん、ってなんだ? 自分でもよく分からない。いいも悪いもないから、いつもこれだ。なんなら悪いことの方が多い。下がりそうな口角を無理やり上げて笑顔を作る。

 良いことなんて全然ない。それがいつもどおり。いつもどおり教室に入ったら、机に座る。色とりどりの駄菓子のチョコレートを錠剤みたいにひとつぶ、ひとつぶ押し出しているように、時間をつぶす。道端に転がる石みたいな生活。心を、息を殺して生きる毎日。、他の人からすれば異常だと分かってる。

 わたしの返事に母は何も返さない。無関心からなのか、わたしがうまくいってないことをなんとなく分かっているのか、反抗期だからだと思っているのか。

 「どうだった」って言葉は、わたしにとっての恐怖。自分がうまくいっていないことを打ち明けられないけど、これ以上、キラキラした高校生キャラを演じ続けるのもしんどい。話そうとしたら涙がこぼれそうになる。もし、「うん」の先を聞き出そうとしてきたら。そう思うと、ロシアンルーレットをしているような気持ちになる。

 キッチンの大きなテーブルで、しゃべらないまま、夕食を食べる。今日は、ほうれん草のおひたしや、トビウオのお刺身が並べられていた。わたしは、トビウオの刺身が好きだ。そういえば、祖父はトビウオの刺身を嫌がっていた。病人が食べるもんだ、って。わたしは病人だから、おいしく感じるのかもしれないな。

 ――わたしはオカ研に入っているということをひた隠しにした。「なんでそんな変な部活してるの。今すぐやめなさい。なんで私に相談しなかったの」と怒られかねない、いや絶対怒るから。友達と話して帰った、勉強して帰ったということにしている。友達なんて、いないのに。

 嘘を作りすぎて、わたし自身が嘘になっていきそう。嘘、うそ、ウソ。ウソ、という鳥がいることを思いだす。わたしの苗字にある「羽」とぴったりじゃないか。

 嘘をついても許される、嘘が評価される場は、人権作文や読書感想文の中に。偽善的な噓まみれの言葉で綴る文字の隊列を組んで行進させる。それを眺める。審査員は隊列の中でもきれいなものを見つけ出し、飽きるほど眺めて、新鮮な嘘を評価する。嘘も鮮度なのだ。手垢にまみれた嘘は評価されない。

 あるいは、会話の中にある配慮。嘘を吐くのは自分をよくするためのメイク、アクセサリー。自分に似合った嘘の飾りつけであればあるほど魅力的で、人を惹きつける。きらきらと光る。それはよく見るとグロテスクで、気持ち悪くて、生臭い。欲望のかたまりで、誘蛾灯のようで、夏場の夜の学校に入ってくる虫みたいだ。遠くに見えるイカ釣り漁船みたいなきれいな光じゃない。

 夕食を食べた後、スマホをチェック。

「おつかれ~。今日は付き合ってくれてありがとう」

「状況を整理したいから、月曜日部室集合で。話せそうだったらでいいから、訊いてみて~。あっでも無理しちゃだめだよ! 」

 メッセージにはそう書かれていた。白いウサギが土下座のような恰好をしているスタンプつき。

 わたしはどう返そうか、と少し考える。「了解です! 」と書かれた、しろくまのスタンプを送る。びっくりマークがテンションと違うなあ。

 先輩のメッセージを三回くらい見返して、寝転んでいる母に電話のことをもう一度聞いた。

「お母さん、こどもの時、どっかの山の中に入ったよね、あれどこだっけ」

 母は、はあ、とため息をつく。「そんなこと言われても、どこの話をしてるか分からんわ」

 いつもならここで訊くのをやめていた。でも今日は。きっと、どこかに行った記録が残っているはずだ。二階の寝室に行き、どさどさアルバムを引っ張り出す。そしてアルバムをくまなく見る。わたしが、わたしの通り過ぎていった時間が紙になっている。確かにわたし。なのに同じ種の違う生き物を見ているみたい。図鑑に載っている写真と、見つけた生き物が微妙に違っているみたいな。早く、はやく見つけなくちゃ。母の気持ちが良からぬ――例えば口を閉ざすような、そんなことが起きる前に。

 焦ってうまくページを繰ることができなくなる。ひどい手汗。写真を覆う、薄いフィルムに水滴がつく。ちょうどわたしの瞳に付着して、泣いているように見えた。

 二〇一〇年、八歳と書かれたアルバムには複数の山の写真があった。これだ。ここだ。すぐさまアルバムを持って階段を下りる。

「この写真なんだけど。この場所、どこ? 」

「はやく宿だい……」

「もう宿題は終わらせてる。わたし、大事な話してるの。どこなの? 」

 半ば母の言葉を遮るように無理やり質問しなおす。

「そんな事、今更知って何になるのよ。この前も電話がどうのって……」

「いいから」

 わたしにひとつのけじめをつけなくちゃいけないから。

「これは、××にある…………。この場所は信頼できる者にしか教えては駄目だからね」

「分かった。ありがとう」

 アルバムを二階の部屋に戻すために、階段を上る時、まさか、そこに行こうなんて思ってないよね、と母の声がうっすらと聞こえた。わたしは聞こえていたけど、聞こえていなかったふりをして、二十数段ある階段を駆け足で上った。


※ここまでとここからの文章は、わたしの趣味で書いた誰にも見せないつもりの事の話だ。でも万が一、他人が読んでしまった時のことを考えて、場所は伏せておくことにする。きっと、これを読む人がいたならば、それはわたしが死んだときか、わたしたちの世界を空から覗く人が現れたときだろう。


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