第11話
保健室から出ると、廊下の蛍光灯の光が廊下の窓に棒状に映っていた。窓の奥にもうひとつの廊下があり、わたしと先輩によく似た人間が歩いている。職員室から電話の呼び出し音が聞こえている。こんな景色が、あしたもあさっても、わたしが卒業しても続いていくような気がする。
ぱた、ぱたっ、ぱたたっ。ふたりのぞうりの音がときどき重なり合いながら、冷たく、かたい廊下を下駄箱まで一緒に歩いた。その静かでうるさい音が、あまりにもあたたかかったから、うっかり三年生の下駄箱までついていっていた。
「ふふっ、ザッキーはこっちじゃないでしょ。間違えません、完璧です、みたいな顔してるのに、たまに抜けてるよね。ザッキーってさ」
「あ、もちろんいい意味だぞ」
「そんなことないです。今日は、調子が悪いせいです」
「はいはい、そういうことにしといてあげるよ。今日のところは」と三年生の下駄箱のほうから声が聞こえてくる。
「それにしても、暗くなりましたね。星が見えるじゃないですか」
「おお。ほんとだ」と先輩も空を見上げる。
「え? あの赤い星動いてません? 」
「あれは人工衛星か、飛行機の光でしょ」
なんだ、ユーフォ―じゃないのか、と先輩に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。
「じゃあ、気をつけてね。ふらついて車にひかれたとか、シャレにならんからさ」
「さすがに大丈夫ですよ、家も近いし。お疲れさまでした。」
わたしは笑ってみせる。
その夜、久しぶりに九年前の記憶からくる夢を見た。それが九年前だと分かったのは、一三〇センチぐらいの身長になっていたからだ。
小さくなったわたしは、田んぼの近くにしゃがみ、白いシロツメクサで花かんむりを編んでいる。それを頭にのせると、母に「天使みたいだね」といわれた。のどかな昼どきだった。どこかで草刈り機が動く音や、牛の聲。ガソリンの匂い。軽トラックの後ろに乗せてもらって、流れる風で髪がひゅるるる、となびく。
「帰ろう」
聲が聞こえて、ぱっと顔を上げる。後ろに何かが見える。ああ、あれはわたしたちが探している電話だ。あそこへ行かなきゃ、いけないのに。風邪をひいたときに見る、走る夢みたいに、走っても走っても前に進まない。大きく見えていた景色がどんどん小さく、小さく縮小されていく。
はっ、と目を覚ますとそこは祖父母の家だった。立ち上がると、軽くめまいを起こす。まとまらない思考の中で、よろよろと母の後ろをついて行った。布団の上に寝ている祖父は白い着物をまとっていた。その服の紐をよく分からないまま母と結んだ。いつも「したら駄目だよ」と言われる縦結びも、ごはんに箸を突き立てるのも、ここでは当然のようにあって、それがすごく変な感じだった。ゆうれいが付けている頭の三角形の布を祖父が付けているのが、ふざけているみたいにしか見えなかった。ずっと眠ったままのその人は、うっすらと化粧をしていた。
仏壇には長い線香、長いろうそく。ずっと白い煙がひゅるる、と線香から伸びて、空間に広がっている。長いろうそくがずっと蝋を溶かしてどろりと受け皿に落ちる。
玄関近くの部屋に親戚も、近所の人も。祖父の仲が良かった人も、いろんな人が集まっている。横たわった人間にさよならを告げる。木でできた棺桶に、寝かせられている人は、たしかにそれは祖父だったが、どこか別人に思えた。ただの抜け殻だった。親しみが全然わかなくて、「ああ、横たわっているひとがいる」としか思えなかった。悲しみとか、「どうして」という気持ちとかは全部どこかに置いてきてしまったみたいだった。
昔の記憶が源流となった夢の世界は、時間の流れの秩序が乱れているのか、早くなったり遅くなったり、進むスピードが一定ではないようである。わたしは夢だと分かってしまってもなお、夢を見続けることにした。
ずっとお経が聞こえる。数珠を握っている。そのひとつぶひとつぶが、昼の強い光を受けて透き通っている。何を言っているのかわからない言葉をずっと唱え続けるその部屋の隣で、祖母も母も、忙しなく動き続けていた。祖父に近いはずの、近くで過ごしてきた人間が、大事だと思われる儀式の外側で動き回っている。ああ、わたしがもっと物知りで、気が利く人間なら、ちゃんと参加できていたかもしれないのにな。わたしは何もできなくて足手まといで。何も知らない最年少で。ずっと正座をしていることだけがわたしのできることだったのに、足がしびれてそれさえもできなかった。
不出来なわたしを、九年たってもずっと許せない。
翌日、夕方に車に乗りこみ、到着した場所は知らない場所だった。白い壁の建物があり、駐車場には黒く長い車が駐車場に置いてある。中に入ると花輪が置かれていて、そこが葬儀場だと分かった。ふと、手元を見ると、大事に花かんむりを持っていたはずだったのに、薄地のハンカチをしわになるほど強く握っていた。
よく分からないまま、自分の右腕を見る。どうやらわたしは制服を着ているらしい。みんなは真っ黒い喪服を着ていた。わたしだけ、紺色のイートンで、その下には白いブラウスを着ていた。浮いている。まるでこの場所の異物みたいだ。
せめて、態度だけでもちゃんとしよう、と思うのに、ちゃんとしないといけない、そう思うほど何かがずれていって、ひっかかってしまう気がした。ボタンのある服を焦って着ると、ボタンホールがずれて、掛け違えていくみたいな、そういう感じだ。
葬儀場は薄暗くて、話し聲がうっすらと聞こえていた。わたしには居場所がない。親戚に溶け込めない。話しかけられてもちゃんと答えられる自信がない。どこかで、ひっそりと居たいと思った。
知らない人ばかりやってきて挨拶をした。革靴、パンプスのヒールの音がカッカッと響いた。その音が余計にわたしを不安にさせた。その中の一人が葬儀場に入ってきたときに、
ぱんっ
小さな音を立て数珠が切れた。ぱらぱらと木目調の数珠玉が小さくバウンドして、かたい、白い床に転がる。急いで、その玉を拾い集めていた。
葬儀が始まると、緊張感がそこかしこにめぐらされた。
時折、誰かが一緒にお経を唱えていた。木魚の音。おりんの音。そんな音が響く場内でぼんやりと棺桶を見ていた。前に出て焼香する。金や黒をした小さな焼香の粒が手の汗で指先にくっついてとれなかった。香炉にぱらぱらとのせると甘やかで、香ばしい香りがした。いい匂いだ。
お葬式が終わると、火葬場に車で移動した。ゆっくりゆっくり、真っ黒い霊柩車に続いて車は走った。走っている、というよりは、のろのろ動いている感じ。病気の時に走っても、走っても前に進まないのに似ている。火葬場でもお経は唱えられた。数珠をはめた手首をじっと見つめた。薄く目を閉じて。
焼かれる前になってやっとわたしは泣いた。ハンカチを目に押し当てて。ああ、もう会えないんだなと思った、というよりは「もう会えないのよ」とわたしの中にいる母親的な何か(母ではないのだが)がわたしに言い聞かせているような感じであった。今泣かないと、タイミングを失ってしまいそうだった。
焼かれている。人間が。焼かれている間、近くの部屋でお菓子とコーヒーやお茶を飲んだり食べたりした。笑うこともできず、悲しみ続けることもできない、微妙な湿った空気が漂っていた。
終わりました、と火葬場の職員が呼びに来て皆が立ち上がる。
薄暗い照明の下で、鈍く光る銀色の台。銀色の台には置かれた白いカルシウムのかけらがごろごろとのっかっていた。
これが、わたしのおじいちゃん、なの?
あんなに話しかけてくれた人間が、今は白い骨になっているというのが、意味が分からなかった。もうしゃべらない、音を発さないというのがへんな感じだった。
寝て、起きたら、また生きていて、心臓が動いている、そんな気がした。一生の別れと言うのがまだ飲みこめなかった。釈然としなかった。壺の中に足の骨が最初に入れられた。そこから大きな骨を、母と一緒に箸でつまんだ。緊張して、落っことしてしまいそうだった。身長が高かった祖父の骨は、どのパーツも太く、長く、わたしのそれとはまったく違うものだと感じた。
けれど唯一、最後のほうに入れた歯だけはそう思わなかった。生前からむき出しになって見えていて、わたし自身も乳歯が抜けた頃だったからかもしれない。
骨拾いをした後、骨壺のなかで崩されていく骨の音を聞いた。焼かれてもろくなってしまった骨を長い、箸でごっ、ごっ、と白くつるりとした壺の中へ詰め込まれていく。小さな空間に閉じ込められる。喉仏を最後にのせた。
この前の化学基礎のテストのある問題を思い出した。不謹慎だ、本当に。それは炎色反応の問題だった。
問.ある物質を炎の中に入れると、橙色の炎が現れた。この物質に含まれている元素を答えなさい。
――答えはカルシウムだ。
祖父のカルシウムは燃えている時、橙色をしたのだろうか。静かに燃えたのだろうか。はげしく燃えたのだろうか。すべてが大きなオーヴンの中で起きていて、今となっては何もわからない。
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