第10話

 今日は、全学年クラス対抗の球技大会だった。わたしは、そこまで体育が得意じゃないグループに入り、バレーをする。一回戦負け。下手に勝ち上がらなくてよかったと思ってしまったわたしは、なんと嫌な人間なんだろう。

 大会が終わり、階段を上がっていると、二階の三年教室の前の廊下には先輩がいた。ちょっと声をかけようか、迷ってやめる。先輩に話しかけている人がいたから。

「おっ、つばめじゃん~。数学の教科書もってない?今日わすれちゃってさ」

「あっ、ロッカーに教科書おいてるからあるよ~」

「は?お前数学の教科書置き勉してんの?宿題どうしてんの、超人じゃん。こわっ」

「ないしょ~。はい、教科書」

「サンキュー。助かったわ」

 その時に、恥ずかしくなった。

 先輩には先輩の生きる世界がある。数学の集合でよく見るベン図みたいに、わたしと先輩のまるい世界が少しだけ、かさなり合っただけだったのだ。そのかさなりは、ふくらます前の紙風船のかたちをしている。ふくらませ、遊んでいるうちにあっけなく破けて元に戻らない。いまはふくらませていないから、まだ壊れていないし、壊れることはない。

 一度ふくらませてしまえば壊れるのが怖くて、関係が、距離感が変わっていく。今までみたいにはいられなくなってしまう。正直に何でも言うことができなくなって、楽しくない関係性。

 付き合うまでが楽しい、という恋愛のよくある文句に共感した。恋愛感情はないが。

 先輩は、教科書を渡し終わると、ロッカーの前で腰をこぶしで軽くたたいた。そのしぐさを見て、わたしは、なぜか祖父のことを思い出した。全然似ていないけど、記憶の引き出しが振動によってちょっとずつ開いてしまったのだ。ちょっとした事故。 

 引き出しの隙間が心のバランスを取れなくしていく。

 祖父に対しての後悔。それが胸に、瞳に、背中に、傷のある場所を洗うみたいにしみて、痛みが走る。痛みは徐々に鋭く、はっきりしてくる。

 誰にも話せない後悔。人に話せずにいると、自ら拷問にかけているように苦しくなる。

 先輩に話そう。先輩になら、話しても大丈夫かもしれない。ときに他人である方が、気楽に話せる、そんな話を聞いたことがあったから。

 そう決めて、放課後をじっと待つ。別に放課後に集まると決めているわけではなかったが、先輩は部室に来る気がした。

 そう思ったのは最近、なんとなく部室に集まっていたからだ。昼休みに、今日集まるか確認するわけでも、それまでに集まろうと言っているわけでもない。ただ、放課後になると部室になっている旧校舎の教室に足が向く、それだけだった。

 午後四時。部室にはやっぱり先輩がいた。

「あの、先輩、」

「ん、なに? 」

 先輩はスマホで新しい「電話」の情報がないか探している手を止め、ぱっ、と顔を上げた。とはいえ、まったく情報が集まらず、電話探しは行き詰まっていた。

「いや、やっぱり、なんでもないです」

「ふーん、そうか」

「……先輩って、家族とか、親戚とかと仲いい方ですか? 」

「なに、突然。まあ、そんなに仲悪いって感じではないかな」

「いいですね……」

「ザッキー、甘えるの得意じゃなさそうだもんなぁ~。年上の人には甘えた方がかわいがってもらえるんだから」

「たしかに、親以外の人にほとんど甘えたことがないというか、自分から話しかけられなくて」

「うーん。まあ、俺んちの親戚がフレンドリーな感じってのもあるし、それぞれカタチがあっていいんじゃない? ザッキーの家族見たわけじゃないから、表面的なことしか言えないけどさ」

「話しかけられずに、うまく接することができないままに、そのチャンスを失うと、悔しいとか、悲しいとかそんなことより、よく分からない掴めなさが残るんですよね。わたしが電話を掛けたい相手はその人、というか祖父なんですけど」

「そういうことね」

「祖父は、ストイックだったんだと思うんです。何事にも妥協しない。それが幼少期のわたしには、厳しくて怖く見えてしまっただけで。しかも身長が高いせいで、違う生き物のように見えてしまってビビってしまったんです。もう一回、今会えたなら、もっとうまくやれたんじゃないかってずっと、ずっと思ってて。でもわたしに話す資格なんてない気がするし、繋がったら話してくれるとは限らなくて……」

「なんだ、それなら俺が一緒に話すよ」

 わたしはぽかんとする。

「別に一人で話す必要なんて、ないじゃんか」

「いや、ま、そうかもしれないですけど……あ」

 その時に昔、変な電話を見たことがあった、ということを思い出した。その時は、帰るよ、と母に手を引かれ、何もできなかった。わたしの身長よりも高いところにあって、一部しか見えず、近づいてはいけない気がした。

 ――もしかしてそれが、その電話なのか?

「……なんか険しい顔してるけど大丈夫? なんかあった? 」 

 先輩が訝しげにこちらをのぞき込んでくる。

「いや、何でもないです。ちょっと昔の嫌な記憶を話して、頭痛くなっただけですから」

「頭痛いの? 保健室行く? 」と大げさな感じで心配されて、「いいです。よくあることですから」と、思わず語気の強い返事をしてしまう。

「調子悪いなら、もう今日は帰ろうか。無理して明日学校休んだりしたら、俺、気にしちゃうから」

「………」

「帰るよ。ほら、リュック背負って」

 その「帰るよ。」という言葉が昔の記憶と絡まりあっていく。本当に頭が痛くなってきた。前頭葉側がもやもやして、糸がいっぱい生まれているみたいな感じ。その糸がもつれて頭の中まで、ぐじゃぐじゃになっていく。「帰るよ」「かえるよ」「カエルヨ」「蛙よ」「孵るヨ? 」誰かの声が頭の中で反響してだんだん何と言っているかよく分からなくなる。

 孵る、という漢字変換が頭をよぎったとき、鶏の卵がぱしゃ、と音をたて、どろりと透明な白身が床に広がる。なまなましい、動物的なにおいがしてきそうだった。気持ち悪い。

「……かえりたく、ない」

「え? わわっ、ちょっと。大丈夫? 」

 ふらっとして、心配そうな先輩の声が頭の中でぐわんぐわん響いている。肩を借りて階段を下りる。わたし、かえりたくないんだって……。

 羽崎さん、と呼ぶ女性の声がかすかに聞こえる。わたし……怒られるのかな……。わたしは親にすら、名前をほぼ呼ばれていない。家族というのは、すごく近いはずなのに、他人のように遠く感じる時がある。

 親も、同級生も、わたしを責める時ばかり名前を呼んだ。だから、名前を呼ばれるのが、得意じゃなかった。

 消毒液の匂いがする。もう、何でもいい。ああ、もう終わりにしたい。すべて。赤ペンで書かれた100点の0が、テストの答案の丸や二重丸が、ぐるぐると頭を回る。目がまわっていく。ひんやりとした床が、気持ち良い。

 調子の悪い時は、変な夢ばかり見るものだ。妙な夢を見た。たしか、こんな夢だった、と思う。というのも、ちゃんと思い出せないのだ。霧がかったような記憶で、細かく思い出そうとすればするほど、ぼやけて、曖昧になって、全体が見えなくなる。

 夢の中では、先輩のおへその穴をわたしは見ていた。じっと見ていると、その穴はクローズアップされていく。だんだんわたしは小さくなっていき、最終的にその穴の中にすっぽりと入ってしまう。そこは、あったかく、やわらかかった。穴から上を見上げると、先輩の顔がわずかに見える。でも、その先輩の顔はいつもみたいに癒される笑顔じゃなく、深刻そうな暗い顔をしている。わたしには気づいていないようだった。先輩がそんな顔を見せたのが、衝撃だった。

 大丈夫ですか、とわたしは声をかけるのだが、身体が小さくなったせいか、声も蚊の羽音ほどしか出ない。自分が無力だと感じた。ちっぽけで何もできない。わたしにできることは、おへその中に、もぐることだけだった。仕方ないので、その穴の中で、「先輩は一人じゃないです」と言いながら、身体をくっつけた。

 そうすると、先輩が急に動き出したから、顔を見てみようと、穴からもう一度はい出てみた。

 ――そのとき、どんな顔してたんだっけ。最後どうなったんだっけ?よく、思い出せない。

 そういえば、電話が見つかったらオカ研は、先輩はどうするんだろうか? もう他の部の引退の時期は近づいている。夏が近づいている。見つからなかったら、先輩をオカ研にとどめていられるかもしれない。また一人になってしまうのが怖い。

 わたしはずっと、閉じ込められていたと思っていたのに、人を閉じ込めている側にいつの間にか変わってしまっていた。

 目を開けると、保健室のベッドに横になっていた。窓は開いていて、風を纏ったカーテンがぶわっと音を立てる。野球部の重たい、土を蹴る音が聞こえる。サッカー部の「パス! パス! 」という声。夕日が薄いカーテンに透ける。しばらくの間、ぼうっと眺めていた。ただ、何も考えないまま、眺めていた。

 帰らなきゃなあ、そろそろ。あんまり遅いと親に何言われるかわからないし。というか、今何時だ? 白いシーツのしわを撫でて、直す。弾力のあるマットレスに手をついて、ゆっくりと起き上がり、サンダルみたいな学校指定のぞうりを履いた。入口の方には誰かが座っている。

 あっ、おきた?聞きなれているその声は少々こわばっていた身体を緩める。先輩はベンチに座って、宿題をしていたのだった。

「わっ、先輩帰ってなかったんですか。迷惑かけましたよね。すいません」

「いやいや~、迷惑かけられたわ。っていうのは冗談だけど、もう大丈夫? 親に迎えに来てもらったら? 」

「いや、大丈夫です。そんなことより、保健室まで連れてきてもらって、しかも待っててもらって……」

 どんな顔をすればどころか、どうお礼すればいいか分からない。

「そういうと思ってちょっと考えてたんだけど、あのさ、ザッキー、一緒にさかな、見に行ってくれない? 」

 さかな?

「わたしでいいなら行きますよ」

 よく分からないまま二つ返事で承諾する。そんなことでお礼になるのだろうか。

「よしっ、きまりな」

 今週の土曜日、学校の前に集合で。

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