第9話
チャイムの音がゆっくり時間を使って鳴っている。四回、キーンコーンカーンコーンと音程を変えながら。何度も繰り返されるうちに、わたしたちの身体は次第に疲弊する。眠気と勝負を挑んでいたら、いつの間にか放課後になる。朝の鶏の鳴き声のように休むことなく、毎日繰り返す。
放課後、日直だったわたしは、黒板を消していた。所々、先生の筆圧が強いせいでうまく消せない。擦れば擦るほど、黒板消しの青い布についていたピンク、白、黄色の粉が舞う。舞った細かな粒子が制服の袖の先に降って白くなる。それを取ろうとすると、指についていた粉でさらに広がっていく。汚くなっていく。
なんとか、きれいに授業の跡を消した黒板から目を離し、後ろを振り向く。みんな、部活か、帰宅してしまって誰も教室に残っていなかった。一番後ろの、一番暗い席の机の上に置きっぱなしの教科書があるのを見つける。
持ち主に置き去りにされた教科書は落ち着かなそうにしている。それは、ショッピングモールで迷子になってしまった子供。隣の商品は売り切れているのにずっと売れ残っている商品。図書館で分類番号を無視して違うところに置かれた本。彼ら、彼女らと似た空気を持っていた。なんというか、こう、たたずまいがいかにもきまり悪い、といった感じであった。
その教科書に近づくと、視線を浴びたその教科書は少しおびえているようだった。心なしか小刻みに震えている気がする。
わたしは、一旦教科書から目を離した。警戒心が強いみたいだから、まずは穏やかなにんげん、ということを見せようと思ったのだ。
手始めに、カーテンをシャーっといわせてまとめる。
そういえば小学校時代、カーテンで遊んだことがあったな、なんて思いだした。大きな布にぐるぐる巻きにされていく、それだけの遊び。よく分からないけど、面白くて、楽しい気がした。でも、途中で思ってしまったのだ。このまま、わたしは取り残されたらどうしよう、と。わたしが楽しんでいたら、いつの間にかみんなどっかに行ってしまうんじゃないか。不安が増殖しだす。はやく。はやく、はやく。はやくはやくはやくはやく。
カーテンから抜け出すのは意外と時間がかかって、焦りは増していく。呼吸さえうまくできなくなり、死に触れているようだった。
今のわたしまで、息が苦しくなってきて、そばの窓の鍵を閉めた。これ以上、思い出しては駄目だ。なだれ込む記憶を無理やり封鎖する。
窓は西日を受けてぬくもっていて、手のひらと触れ合った部分に暖かさが伝わってくる。体温みたいだ。寄り添っていたい温度だった。少し名残惜しくなりながら手を放し、ふいと振り返ると、教科書はすこし安心しているようだった。わたしはゆっくり、教科書の側面に手を近づけ、両手でもち上げ、引き出しの中へ入れてやった。
日直の仕事をすべて終え、荷物をまとめながら、学校で遊んだことを思い出していた。カーテンで遊んでいたのと同じように、ほとんどが心から楽しめなかった。こんな単純なゲームのどこが面白いのか、分からないということもあったが、空間の中で浮いていることを実感させる時間でもあったからだ。チーム戦のときは、ちょっとでも足を引っ張ったら、睨まれて、陰で悪口を言われてしまうのが怖かった。
中でもフルーツバスケットが嫌いだった。お楽しみ会や年度初めのロングホームルームで必ずと言っていいほど行われたそれは、苦痛の時間でしかなかった。
わたしが席に座れなくて、中央で何か言った時に、誰も立ってくれないんじゃないか。はじめからわたしには椅子は用意されていないんじゃないか。そんなふうに思うから。
みんながこっちを見ている。視線が三六〇度すべてにあって、逃げたしたくて。一緒に遊ぶよりも、遠くで見ていた方が楽しい。人の笑い声を聞いていたほうが、気が楽。なんでこんな地獄みたいなゲームが楽しいのか、わたしにはちっとも分からなかった。
わたしとみんなには、共通点がないんじゃないか。他の人は仕方なく立ってくれているような気がして、全部が嫌になる。わたしのバスケットの中のフルーツは腐っていて、食べられない。
変なにおいをした、バスケット。虫がたかるバスケットを、それでももったいない、可哀想と言っていつまでも捨てられないままのわたし。
気づいた時には、誰もいない。
荷物がまとまって、机の上には黒い表紙のついた学級日誌が残った。一階の職員室に行って、その足で部室に行こうと、荷物を背負う。
学級日誌を職員室に出しに行って、二階に上がると、その渡り廊下でちょうど先輩に会った。いつも部室に来るのが早い先輩が、ぐだぐだと黒板を消していたわたしと同じタイミングで歩いているということが変な感じだった。
わたしは窓の方を見る。先輩はわたしの視線の先を追うように、中庭のソテツをみて、
「あれ、なんだっけ? 椰子の木? いや椰子がこんなとこにあるわけないか」とひとりごちる。その言葉を拾うように、ソテツの木ですね、と言う。
「ああ、そてつ。うん、それ聞いたことあるわ、どっかで」
ソテツの生えているエリアには大きめの白い石がゴロゴロとおいてあり、丁寧に手入れされていた。ところどころにリュウノヒゲがしゅるしゅると生えている。
わたしはよく、中庭を見ることで廊下の歩みの嫌な気持ちを紛らわしていた。中庭はブラックコーヒーの苦みを紛らわすために入れた角砂糖とミルクのようだ。あるいは甘いお菓子。
それくらいコーヒーみたく苦く、黒い液体が学校中を満たしているように感じる。ちょっとでも暗い場所、暗い心があると、まとまって傷ついた人間に襲い掛かってくる。ああ、わたしはまた黒い液体にのみこまれていく。息ができなくなっていく。
「おれさぁ、中庭見るの、なんかすきなんだよね」
黒い液体がわたしからぱっと引いていく。わたしは一人じゃなかったんだ、と思えてうれしくなる。わたしと同じように思っている人がいるだけで、それだけで十分だった。
「そういえばさあ、中間テストどうだった? 」
「んー、まあまあですかね。そんなこときくってことは、先輩、点数よかったんですか? 」
点数的には別に恥ずかしくないが、なんとなく言わずにぼかす。
「ぜーんぜん。世界史の点数、みて、四十九点」
世界史のA4サイズの解答用紙をさっと開いて見せた。解答用紙は所々白い空欄がある。
「それはさすがに低い……。赤点じゃないだけましですけどね」
「いや、ほんとほんと。赤点回避できてよかったわ。世界史覚えること多いから大変だよ。ザッキーは、日本史だったっけ?何点だったの~。まあまあとか言いながら高いんでしょ、きっと」
「八十五点、ですよ……」
「は!? たっか!!! 天才じゃん。うわっ、きくんじゃなかったわ~、あーあー、やだやだ」
先輩は半ば投げやりに、最後の方は棒読みでそう言った。
「いや、学年の最高点は九二点なんですよ……」
――思い出すとまた悔しくなってきた。だから言いたくなかったのに。
「いや、悔しがりすぎでしょ。怖いわ~。こっちが教えてほしいくらい」
「世界史って地図覚えないと何もわからなそうだから多分無理です」
「いや、それもあるんだけどさあ、まず、先生の話を聞いてると眠気がすごいんだよね。クラスで一番真面目な人でさえ、うとうとしてるもん。それなのに、テストは普通に難しいんよな」
「先輩も寝てるんですか? いや爆睡ですかね」
「うん、って爆睡ってその決めつけ、なに?キズつくわぁ」と言って、しくしく……と口で泣き真似をする。その顔は、言葉に反して穏やかな顔だ。
「泣いてないじゃないですか」
「はい。ぼくは涙を流すことだけが、泣いてるっていう状態じゃないと思います」
小学生の学級会みたいな言い方だ。よく分からないので、どういうことですか?と詳しい説明を求める。
「例えば、その人がドライアイだったとしよう」
――まず、前提が突然すぎる。
「その場合、涙を流せない彼らは泣けないのでしょうか」
まるで哲学の問題みたいだ。
「涙を流すことが「泣く」の定義のようなところがあるから、やっぱり泣けないんじゃないですかね」
「涙がみえなかったら、泣いてないことになるってこと?液体状じゃないと、泣く、には入らないってこと? 」
「なんか難しいです、それ、答えあるんですか? 」
そう、匙を投げたのとほぼ同時に、部室についた。
けれど部室にいても、ネットに転がる「電話」に関する情報は、ほとんど見つくしており(先輩が部活以外の時間にもいろいろ調べているのだ)、やることもなく、手持ち無沙汰になった。
だから、その日は、部室の掃除と片付けをしようということになった。
ほうきで教室を掃いていると、黒板の前に来た時、先輩はほうきを教室の隅に立てかけ、黒板に「玄鳥」と書いた。そして、わたしに何と読むか訊いてくる。
「せっかく掃除してるのに、なんで黒板に書くんですか」
「まあ、いいから。普通に掃除するだけとかつまらんじゃんか」
「うーん。げんちょう、ですかね。いや、でも幻聴しか言葉として聞いたことないからちがうか。なにか、違う特別な読み方する?……」
今までの知識をひっくり返すようにして、読み方を探しても見つからなくて、諦めて、分からないです、と言った。
「これ、げんちょう、でも読み方としてあってるんだけど、実は……」
変にもったいぶる。実は、なんですか?
「つばめ、なんだよ」
「へえ、そうだったんですか」
つばめは燕としか記憶していなかった。
「俺の異名っぽくて、良くない? 」
誇らしげにふんぞり返る男が目の前に立っているのだった。
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