マタネサン

石田徹弥

マタネサン

「ねぇ、こんな話聞いたことある?」


 同じバイト先の佐藤さんは僕の一つ歳上の二十三歳で、ウェーブのかかった栗色に染めた髪と、笑うと糸のようになる細目が可愛らしい女性だ。

 僕は普段は「佐藤さん」と呼び、彼女も「内村くん」と僕のことを呼ぶ。バイト中は雑談はすることはあっても深い話なんて当然することはない。その程度の関係だった。


 僕はその先に一歩でもいいので踏み込みたくて覚悟を決め、今日のデートの誘いをバイト後に佐藤さんに伝えると、佐藤さんはあっさりとオーケーしてくれた。

 もしや僕に気がある?とか、実は遊び慣れてるのか、などと考えていたが、

「今度はみんなとも遊びたいね」

 と言われたので、そもそもデートだと認識されていなかった可能性が高かった。

 それでも憧れの佐藤さんと二人で映画を見て昼食でイタリアンを食べて喫茶店に入った。

それは僕からすれば十分と言えるほどの、至高の時だった。

こんな時が永遠に続けばいいのに……。


 などと半分上の空になっていたところに、佐藤さんが真剣な顔で話しかけてきていたことに気付き、慌てて聞き返した。

「えっと、どんな話?」

「マタネサンって怪談」

 怪談。そんなもの学校の七不思議くらいしか知らない僕だったが、ちょうど会話のレパートリーが尽きていたので、さも興味があるような振りをした。

「知らないけど、面白そうだね」

 僕の答えに佐藤さんの表情は柔んだ。

「なんかね、○○駅から少し歩いたところに誰も住んでない団地があって。そこの505号室で出るんだって」

「……出るって、何が? マタネサンってのが?」

「それはね……」

 机の向かいに座る佐藤さんが、ぐいっと顔を僕に近づけた。彼女の洋菓子のように甘い香りが僕の理性をくすぐった。

「わからないの」

 ふふふ、と佐藤さんは小さく笑い、元の位置に戻ってしまった。

「それって怪談ですら無くない?」

「まぁそうなんだけどね。私もネットで見ただけだし、その投稿もどっかいっちゃったみたいで見つからないんだよね。けど、やけに詳細に場所が書かれてて、後から調べると実際にそこには廃団地もあってさ」

「ネットで検索してその場所を使っただけとか」

「私もそう思う。けど、それとは別に気にならない?」

「気になるって、何が?」

「廃団地」

 どうやら彼女はこの手の話が好きらしく、その後も似通った怪談や最近見たホラー映画、小説の話を次々に繋げていった。

「あっ、ごめん。私ばっかり喋って」

「楽しいよ」

「ほんと?」

 また佐藤さんは顔をぐいっと近づけてきた。やめてくれ、免疫の無いウブな男にそれは簡単に効いてしまう。

「それでね、ちょっとお願いがあるんだけど……」

 壺かな?なんて一瞬僕は疑ってしまった。それぐらい、佐藤さんのお願いは僕には信じられない話だった。

「来週、一緒にその廃団地に行かない?」



 当然僕は二つ返事で了解し、日取りと待ち合わせ場所を決めて、残された数日の間に筋トレと肌の美容と食生活改善、モテるための指南書、落とすための指南書、ゴムを入れても気にならない財布の購入と、できる限りの「準備」をした。

 二十三時半。僕らは○○駅で待ち合わせし、佐藤さんのナビゲートで廃団地に到着した。

 都心から離れているからか夏の星がよく見える。

しかし廃団地には当然電灯は付いておらず、その巨大な黒いかたまりの輪郭が、星で明るくなった空にクッキリと浮かんでいた。

 僕はその圧迫感に小さく息を呑んだ。

 佐藤さんが僕の顔を覗き込む。前回会った時とはまた違う、甘い香りが僕を揺さぶった。

「全然」

 僕は強がりがバレないように限りなくニヒルをイメージしてそう返したが、内心では結構逃げ帰りたかった。なんならここで終わりにして駅前の居酒屋で酒を入れて、終電が無くなったねなんて言って、そのまま星空を駆けるような楽しい夜を過ごしたかった。

 なんて考えている僕を無視して佐藤さんはすでに立ち入りを禁止するフェンスを登っていた。

「ま、待って」

 僕は急いで彼女の後を追い、無様にフェンスから落ちたりしながらも二人で目的の505号室の前に辿り着いた。


懐中電灯に照らされた玄関扉はペンキが所々剥げ落ち、蝶番はサビで茶色く変色している。廊下に明かりを向ける。不良たちによる落書きや、浮浪者が置いていったであろうゴミが散乱し、中にはマットレスなんて大きなものも廊下に捨てられていた。

「よし、じゃあ帰ろうか」

 少し震える声で僕がそう言うと、佐藤さんは返事をせずにノブに手をかけて回した。

「空いてる」

 ゆっくりと扉を開ける。錆びた蝶番のギギギギという嫌な音が響くと、扉の向こう側が見えていく。

 闇だけがそこにあった。

「明かりちょうだい」

 佐藤さんが僕の持つ懐中電灯を受け取ると、怖じけることなく中へ入った。僕は一人になりたくない一心で、佐藤さんの後ろにピッタリと付いて後を追った。


 中には玄関と一体になった狭い台所があった。埃と錆びで汚れてはいるが、不思議なことにゴミは一つも落ちていない。廃団地になった時には誰も住んでいなかったのだろうか。

「な、なにもないよ」

「玄関だもん」

 佐藤さんは僕に振り返って、懐中電灯で自分の顔を照らした。

「やっぱり怖い?」

下から光をあてた顔はどこか滑稽だが、それでも可愛いことに間違いはなかった。その可愛さが僕を安心させる。

「全然。ほら、貸してよ」

 僕は佐藤さんから懐中電灯を受け取ると、先陣を切って部屋へと向かった。格子ガラスの引き戸が閉まっていた。

 服が引っ張られた気がしたので後ろを見ると、佐藤さんが僕の服をちょっとだけ掴んでいた。

 僕は笑顔を向けて、戸を開いた。

 中は六畳の畳の部屋で、左手側には襖の物置があった。天井から吊り下げられた電灯が古めかしく、時代を感じさせた。

ベランダに通じるガラス窓は新聞紙で塞がれていた。これだけ見ると怖わさを感じるかもしれないが、居住不可となった団地の窓はこのように潰してしまうことが多いらしい。

 それ以外、特に怪しいことはない。僕は思い切って物置の襖を開いてみたが、中は特に変哲が無かった。

「やっぱりガセだったんだよ」

「なーんだ残念」

 佐藤さんはつまらなそうに頬を膨らませる。

 その時、僕は足元の違和感に気づいてしまった。


「どうしたの?」

「いや、ここ……なんだろ」

 僕が立つ、部屋の真ん中の一畳だけが妙に柔らかい。

 佐藤さんもそれに気がついたようで、僕たちは無言で視線を合わせると、しゃがみ込んで畳の端に手をかけた。

「死体とか出ないよね」

「匂いとかする?」

「もう白骨になってるかも」

「そしたらちゃんと警察に通報してあげなくちゃ」

「そうだね……」

 我ながら大胆だとは思ったが、怖さに慣れてきたのか好奇心の方が勝ってしまっていた。

 二人で力を合わせてゆっくりと畳を持ち上げると、その下は木製の枠組みが現れた。

 埃の匂いが吹き出したように僕らを包んだ。

 僕は意を決してそこに明かりを当てた。

 すると枠組みの向こう側、コンクリートの床面に何か四角いものが置かれている。

「これ、なんだろ」

「貸して」

 佐藤さんがまた僕から懐中電灯を受け取ると、明かりを向けてしゃがみ込んだ。

 するとその四角いものが光を反射させた。

「なんだ、鏡だ」

 その鏡に、下を向いた佐藤さんの笑顔が反射して見えるのがわかった。

「でも、どうしてこんなところに?」

「おまじないとかじゃ無いかな。オカルトというよりかは、建物に対しての祈祷というか」

「そっかぁ」

 佐藤さんは満足と残念感が混ざったような顔をすると立ち上がった。

 僕らは畳を元通りにすると、部屋を後にして団地を降りていき、フェンスの前に戻ってきた。無事というか、結局というか。何も起こることは無かった。


「あー楽しかった。内村くんは大丈夫だった?」

「僕も刺激的だったよ」

 時計を見ると深夜二時だった。恐怖感のせいか、時間感覚が無くなっていたようだ。

「もう終電ないね」

すると佐藤さんが一歩僕に近づく。

「どうする?」

「えっ? えっと」

もう一歩、近づく。彼女の香りが蘇った。

「あ、朝まで飲みますかー」

 僕はわざとらしく手を上げる。

 佐藤さんは少しだけ僕を睨むと、笑顔になって「じゃ、行きますか」と言って先を歩いた。

 廃団地を探検する勇気はあったのに、僕の馬鹿野郎。

 結局僕らは朝まで駅前の安い居酒屋で酒を飲んだ。望んでいた一歩は進まなかったが、これはこれでまた違う一歩になったように思える。

 結局、「マタネサン」とはなんだったのだろうかという疑問を僕は一度も持たなかった。

 始発が始まり、僕らは会計を済ませて駅へ向かった。泥酔とまではいかないが、ほどほどに酔っている。その酒による目もあって、佐藤さんの可愛さは三倍増しに見えた。

 そうやって僕が彼女を見つめていると、何の前触れもなく佐藤さんは僕にキスをした。


「え?」

 ふふふ、と佐藤さんは笑う。

 口元から彼女が好んで飲んでいた泡盛の匂いがした。

「次のシフトいつだっけ?」

「えっと、えーっと、明後日」

「じゃあ一緒だ」

 佐藤さんは笑うと目が糸のようになる。それがとっても可愛いのだ。

 佐藤さんが手を振った。

 僕も手を振りかえす。

きっと顔はだらしない笑顔に違いない。

「マタネ」

 佐藤さんの目は大きく開かれ、まるで真っ黒な穴が開いているようだった。目だけじゃない、口も顎なんて無くなったように広がり、その中は何もない闇だった。



「マタネ」

 佐藤さんの目はとっても大きい。真っ黒のビー玉のようだ。口はまるで大きな黒い風船が詰まってるようだな。



「マタネ」

 佐藤さんの目はとっても大きい。真っ黒のビー玉のようだ。口はまるで大きな黒い風船が詰まってるようだな。



「マタネ」

 佐藤さんの目はとっても大きい。真っ黒のビー玉のようだ。口はまるで大きな黒い風船が詰まってるようだな。



「マタネ」

 二つの黒い点が僕を見る。その下にはさらに大きな黒い点。




「マタネ」

 二つの黒い点が僕を見る。その下にはさらに大きな黒い点。




「マタネ」

 二つの黒い点が僕を見る。その下にはさらに大きな黒い点。




「マタネ」

 二つの黒い点が僕を見る。その下にはさらに大きな黒い点。




「マタネ」

 その瞬間が繰り返されていることに僕はようやく気がついた。思い返すと数万回は繰り返されているんじゃないだろうか。




「マタネ」

 繰り返されているこの光景はいつまでも変わらない。穴を三つ開けた佐藤さんだったものが、同じことを、同じようにするだけだ。




「マタネ」

 数億回が繰り返されたころ、僕はようやく今の状態を客観的に見ることができるようになった。マタネサンとは実際にあの部屋に存在していた。間違いなく、あの鏡が原因だ。

あの鏡をのぞいてしまった佐藤さんは、マタネサンに取り憑かれた。厄介なのは、取り憑かれた佐藤さん自身ではなく、彼女が恐らく無意識に対象とした僕に影響が与えられたことだった。




「マタネ」

 だが、それがわかったところでどうすることもできない。




「マタネ」

 僕も、目の前の佐藤さんだったものも同じことを繰り返すだけ。




「マタネ」

 何もすることはできない。




「マタネ」

 死ぬことだって。




「マタネ」

 数億回を数億回繰り返した頃、僕はまた気がついた。どうやら、魂に限界が来ているようだ。まるでハードディスクの回転数のように、繰り返すことで擦り切れ、そして最後はデータが消える。

 あと何億、何兆、どれだけの先になるかはわからないが、僕はその日を心待ちにするしかないようだった。








「マタネ」














 バイト仲間の内村くんが私の目の前で倒れて、そのまま亡くなってしまってから一ヶ月が経った。私は学校もバイトも休んでいた。ただのバイト仲間とは言え、やはり目の前で人が死ぬとショックは大きい。

 なにより怪談が囁かれる廃団地に行った後ならその影響は嫌でも考えてしまう。

 やっぱり、あそこには何かがあったのだろうか?


「おう、もう体調はいいのか?」

 長めの休みを取っていた私は久しぶりにバイト先に顔を出すと、店長が笑顔で迎えてくれた。

「長い間、すみません。もう大丈夫なので」

「そりゃよかった。けど無理すんなよ。キツくなったらすぐ言いな」

「ありがとうございます」

 私が笑顔を向けると、店長もニカっと笑った。店長は私のことをまだ諦めていないらしい。

 なら、ちょっと手伝ってもらおう。

 一人だと、怖いもの。


「店長、こんな話聞いたことありますか?」

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マタネサン 石田徹弥 @tetsuyaishida

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