パラレルワールド・ランデブー

池田春哉

第1話

「『もしもタイムマシンがあったら』なんて不毛な妄想は、これからただの世間話になるだろうね」

 キーボードを叩く音を響かせながら、幾多千世いくたちせはそんな風に言った。

 対する僕の返事は「あぁ、うん」という言葉ですらないただの音だった。それどころじゃなかった。

 つい先程「新発明だぞ、助手!」という嬉しそうな声に顔を上げた僕は、部室の窓の横に設置されたドアに釘付けだった。

 片開きの木製の扉は手のひら大の菱形が敷き詰められたデザインで洒落ている。つるりと丸い金色のドアノブはこのごく一般的な公立高校にはあまりに似つかわしくないが、その意匠を除けば何の変哲もない扉だ。

 しかし、その扉の向こう側はベランダではない。

「これが本当に時空間に繋がってるのか、千世」

「そうだよ、助手」

「いつも言ってるが僕は助手じゃない」

 助手じゃないし「そうだよ」でもない。何をさも当たり前のように答えているのか。

 ――タイムマシンなんて、人類の夢そのものだというのに。

「やけに最近何か後悔したことはないか訊いてくると思ったら、こんなの作ってるとは」

「ああ。これで君の『この間スーパーのレシートに付いてたクーポン券うっかり捨てちゃってさ』という後悔も取り戻せるわけだ」

「人類最高峰の発明品をそんな庶民的な悩みに使えるかよ」

 そう突っ込むと、千世はキーボードを叩く手を止めて、ふ、と微笑む。

「いいんだよ、使っても」

 くるりと椅子を回転させて、白衣を羽織った彼女は眼鏡の奥の瞳を僕に向ける。

「歩いて行くには少し遠いところへ自転車を使って行くように、手では掴みにくいスープはスプーンを使って食べるように、日々の小さな不便を解消するためにタイムマシンを使えばいい。――これからは、そういう時代になる」

 発明家は時代を作る。彼女は昔からそう言っていた。

 確かにこの発明は、時代を大きく作り変えるものになるだろう。

「さあ助手。いつまでも突っ立ってないで、早くクーポン券を取り戻しにいくぞ」

「ちょっと待ってくれ。人類初のタイムトラベルと冷凍食品80円引きクーポンがまだ僕の中で結びついてない」

「もたもたするな」

 千世は再びキーボードを打ち始めた。

 彼女の前にある大きなディスプレイには複数のウィンドウが開かれており、そのほとんどが僕には理解できない。かろうじてわかるのはカレンダーと今彼女が打ち込んだのが『●●●●●●●●●』であることくらいだ。

「人はいつか死ぬ。タイムトラベルができても若返ることはできない。時間は有限だ」

 千世がエンターキーを叩くと、かちり、と音がした。鍵が開いたような音だ。

 直後、扉の輪郭がぼんやりと光を帯びる。

「だから、今を生きるんだ」

「……わかったよ」

 僕は椅子から立ち上がって千世の隣に立つ。満足げに微笑む彼女は金色のドアノブを掴んだ。そして、捻る。

 背後から強風が吹いた。

「――え」

 消えた、と思った。幾多千世が消えた。

「っ……!」

 咄嗟に手を伸ばす。

 扉の向こう側に広がる暗闇に落ちていく彼女の手首をすんでのところで掴んだ。

「くっ!」

「大丈夫か、千世!」

 千世の手首をしっかりと掴んだまま床に這いつくばって耐える。

 しかし周りの空気ごと僕らを飲み込もうとする闇に、僕の身体は少しずつ引き摺られていく。すでに胸の辺りまで扉の先に突き出ていた。

「すまない助手。失敗したようだ」

「だから僕は助手じゃ……いや、今はいい。上がれるか?」

「いや、無理そうだ」

 彼女はその瞳を輝かせながら、きょろきょろと辺りを見回している。こんなときに何を、と思うと同時、僕も気が付いた。

 その暗闇は完全な闇ではなく、星空のように瞬く長方形の光が無数に散らばっている。

「……そうか、ここは」

 千世の呟きが聞こえたところで、どん、と身体に衝撃が走った。

 吸い込む力で閉じてきた扉に僕の身体が押されたのだ。ふわりとした浮遊感。僕たちはまとめて暗闇に放り出された。

 二人の手が離れる。

「うわ!」

 ぐん、と身体が真横に引っ張られた。なんだこの引力は。

 逆方向の力が千世にも働いているようで、僕たちの距離はどんどん開いていく。

「助手!」

 四角い星々の下で、彼女の声が響いた。

「――366番目の世界線で君を待つ!」


***


 気が付くと、僕は椅子に座っていた。

 見慣れた部室。そこで聞き慣れた音を聞いていた。キーボードを叩く音だ。

 白衣姿で眼鏡をかけた彼女がそこにいた。

「――千世!」

「お、どうした」

 キーボードが鳴り止む。

 くるりと椅子を回転させて、彼女がこちらを向いた。

「え、大丈夫なのか?」

「それはこちらの台詞なんだが」

 彼女は訝しげに僕を見る。その表情は心配というより、戸惑っているような。

 まるで急に頭がおかしくなった人を見るような。

「君はいつから自分の姉を名前で呼ぶようになったんだ、博孝ひろたか

「……はい?」

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