きみとぼくと課長の危機一髪

崇期

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 お酒の席で意気投合して以来ずっと交際している恋人がいた。交際して以来最大のピンチを今、迎えている。

 これを読んでいる誰かに向けて説明すると、弊社の同部署内にぼくもいれば彼女もいる、ということが入社以来の事実であった。

 だから、ほっとけるわけはなかった──。


 彼女は、監査室長がどこかの機関から送り込まれて以来、月曜と木曜だけ待機しているという噂の二階の部屋の扉の前で書類を握りしめ、小刻みに両肩を震わせながら、ノックしようかするまいかと逡巡していた。

 どう考えても、トイレは二回でそれ以外は三回ノックだっけ? などとビジネスマナーについて思考しているわけではなかっただろう。


「やめとけ」ぼくは彼女の肩にそっと手を伸ばし、言った。「今はそうは思えないかもしれないけれど、やがて、何年後かに振り返ったときに、『あのとき止めてもらえてよかった』って思う日が来る」


日向ひゅうが君……」千来流ちくるはすでに両の目に涙をためていた。「そっちがやめといてよ!」


 ぼくの腕を振りほどき、千来流は唇を噛みしめた。「身内となって以来かわいがってもらっているおばあちゃんがわたしにはいて、教えてくれたことをずっと守ってる──交際関係にある人との間にも〝取り決め〟があった方がいいって」



 1.お金の貸し借りはしない

 2.浮気がダメなのではなく裏切りがダメなのである

 3.ギャンブルがダメなのではなく収入と支出のバランス

 4.暴力は言語道断

 5.相手の仕事には口出しするな



「その五番目に該当するってこと?」

「そうよ」

「でもぼくときみは同じ組織の人間じゃないか。仲間だろ? ほら、同じプリンターの用紙を分け合っている──」

「有史以来、人には役割というものがあって」


「それに、」とぼくは彼女の詭弁を遮った。「その書類はきみの手によって改ざんされてるだろ。ぼくがそれに気づかないとでも思ったのか?」

「…………!」


 千来流はわかりやすい表情を浮かべたのち、突然駆けだすと、廊下の突き当たりまで行って、そこにあったポストに書類を押し込むようにして投函した。


「おい、待て!」


 タイミングよくエレベーターがやってきて、千来流はそのまま人体移動装置に我が身の運命を託した。そんなことでなかったことにできるとでも? 

 そこは厚生課の窓口であった。ぼくはガラスを覗き込み、誰もいないことを確認すると、ポストの投稿口に手を忍ばせ、今なら「なんとかなるかも……」と証拠の品を回収しようとした。


「あなた、なにをやってるんですか!」

 間が悪かった。厚生課の主任・三好みよしさんが背後からやってきた。

「業務課の日向さんですね? ポストを漁ってどうするつもり? それは、日々の重圧や各種ハラスメントに悩み苦しむ社員たちが匿名で相談できるように設置したもので、厚生課の人間でなければ開けることは許されていません」


「あ、ちょっと、間違えて別の書類を提出してしまいまして」


「なあんだ、そうなの」三好さんはそう言うと、手持ちの鍵であっさり開けてくれた。「この書類ね? はい、どうぞ」



 ぼくは恋人を救った気でいた。これが正しい行為だったのかどうかは、まだ誰にも判断できないだろう。ビジネスという世界は……。


「日向君」ぼくを呼び止めたのは、直属の上司・外野そとの課長だった。「悪いこたぁ言わないよ。その書類、コッチもらおうか」


 次から次へとじゃまが入る。まったく、会社には会社の人間しかいないのかよ!

 返事をする間もなく、外野課長はさっと書類を掠め取った。「今はなんとも言えないが、いつかこのコトに感謝する日が来るかもしれないぜ?」

「あの……」

「この書類を作った人間の名前も伏せといてやる。その代わり──」外野課長はニヤリと微笑んだ。「今夜、おれに付き合ってもらおうか」




 危ない橋を渡ったら、ぼくはその橋を破壊する。その橋を渡った最後の人間と認識する者が、ぼく一人でありますように──。

 ぼくは「お悩み相談ポスト」に匿名の手紙を投函した。

 

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きみとぼくと課長の危機一髪 崇期 @suuki-shu

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