第2話 美術室の痕跡
幸い、今の時間美術室は授業に使われておらず、すんなり中に入ることができた。室内には備品である石膏像と、その他のデッサン用に椅子が中央に積み上げられていた。その傍らにキャンバスが一つイーゼルに残されていて、描きかけのその絵は望月のものであると思われた。
「翌日の授業のことを考えて、絵や道具は片づけて行くのがセオリーです。望月くんも日頃はそうしていた筈……こんな風に出しっぱなしだなんて、何か不測の事態でもあったのでしょうか」
「不測の事態?」
「例えば、彼の変身はこの場で起こったとか。このお手てに後片づけを求めるのは酷でしょう」
にこりともせず腕の中のカピバラの前足をにぎにぎしている有藤がどこまで本気なのか分からず、正木は疲れたように肩を落とした。
「有藤……」
「失礼、先生は私の仮説には反対でしたね。でしたら、それ以外のアクシデントが彼の身に起こったとか。そしてそのせいで、彼は帰宅できない状況に陥った」
「考えすぎじゃないのか? そもそも、事件に巻き込まれるとしたら、通学路の方が――」
「案外、そうでもないかもしれません」
絵を良く確認していた角田が声を上げ、手招きして絵を指し示す。皆で反対側に回って絵を見ると、油絵なので起伏が多く分かりにくかったが、左端に手を突いた跡のようなものが残っていた。
「これが望月の手形だとすれば、自分の絵にこんな風に無造作に触るなんて通常では考えられません。やはり、ここで何かあったのではないでしょうか?」
「ううん……」
正木が逡巡している目の前で、有藤が足元にカピバラを下ろした。そうしてハムハムと動かしている鼻の前に、望月の油絵を突きつけた。
「何をしてるんだ?」
「匂いを覚えさせているんです」
「匂い?」
「油絵を触ったのが望月くん本人なら、彼の手には今も絵具が残っていると考えられます。油絵具の匂いは強力です。仮に拭いたところで簡単に取れるものではないし、本当にここから行方不明になったのなら、手を洗うような暇さえなかったでしょう」
「まさか、そいつに探させる……とでも? 犬じゃないんだから……」
「ご存じないんですか? カピバラは本来夜行性で、目が良く見えない代わりに嗅覚は優れているんです……動きましたよ」
今までぬぼーっとしていたのが嘘のように、結局望月なのかカピバラなのかよく分からない生き物は廊下に向かって駆け出した。そして、すぐ隣の美術準備室の前で立ち止まると、扉をカリカリとひっかいた。
「この中ですかね?」
「いや、まさか……」
「鍵が掛かっていますね。先生、職員室から鍵を」
「わ、分かった」
勢いに気おされるまま、正木は慌てて職員室に向かった――ふりをした。相応の時間を置いてからとんぼ返りして美術準備室に戻ると、既に扉が開いていることに驚いて中に駆け込んだ。
「ど、どういうことだ……鍵は?」
息を切らしながら問いかけると、有藤は男子のものと思われる鞄とスニーカーを床に置きながら冷ややかにこちらを見た。
「勿論、掛かっていましたよ。当然ですね。あなたが先程、職員室に電話をかけに行くと言いながら、ここに立ち寄って望月くんを運び出した後にご自分で施錠したんですから。自分の行動くらい、もっと自信を持ってくださいよ先生」
「な……何を言って……」
引きつった笑いを浮かべて声を上ずらせる正木に、有藤は他の生徒に鞄とスニーカーを託しながら、静かな怒りを湛えつつ冷静に言葉を投げた。
「靴は必ず見つかると思っていた。上履きを脱がせることは容易でも、こういった紐靴は、意識を失った人間に履かせるにはとても手間だし骨が折れます。だから、学校を出ているように偽装した後でも、靴だけ別に隠していると予測していました。おかげで、匂いを頼りにこの子が迅速に見つけてくれた」
カピバラを愛し気に撫でる有藤を、まるで初めて見る生き物のように気味が悪そうに正木は見返した。
「おまえ、一体……」
「さて、質問するのは今度はこちらの番です。どちらにしても警察には通報しましたが、できれば早く見つけてあげたいので正直に答えてください。望月くんは、今どこにいますか? 先生は――望月くんをどうしましたか。もし殺したのであれば、私はあなたを一生許しません」
全てを見透かすような言葉と断罪する声に、正木はがくりとその場に膝を突いた。
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