このまま君を連れて行くよ

野村絽麻子

揺れたり震えたりしたって

 歩道いっぱいに鳥の羽が散らばっていた。たぶん鳩あたりがイタチにでも食われたんだろう。いや、テン? ハクビシン? だったか。数日前の先輩の言葉を思い出そうとするけれど上手く記憶を辿れない。きっとまだ興奮が冷めてないから。被っていたニット帽を毟り取ると勢い良くゴミ箱に投げ捨てた。でもその後の台詞は覚えてる。

「この世は弱肉強食なんやなぁ」

 そう言って笑った先輩の笑い皺も。背中で跳ねた艶のある黒髪の、弾いた光も。


 駅前商店街の振興組合ビルはひび割れたタイルがおでんの卵の色をしている。割り箸を刺したみたいに口を開けているエントランスから階段を降りて、地下一階に位置するスタジオのドアを開けると受付に入ってた後輩の一人が「はよっす」と言う。

「おそよう」

 そのまま通り過ぎて控え室に進む。中には既に先輩が来てて、やっぱり周りに人の輪が出来ていて、だから当たり前のようにそれに加わった。

「はよっす北村先輩!」

「うお、今の似てたな! 受付の田中やろ?」

「そっす!」

 気を良くした俺はそのまま手当たり次第に後輩達の口真似を披露して、最寄駅の電車の発車ベルとコンビニの入店音、最後に北村先輩の出囃子を真似してみせる。

「あ、出番や」

 立ち上がる先輩を引き留めるまでがワンセット。いわゆる「事務所ライブ」の控え室は笑い声ではち切れそうになる。

 北村先輩はここKHBお笑い養成所の中じゃ一二を争う古株で、群を抜いたお笑いセンスは言うまでも無く。洗練された芸風と、繰り出される無限にも感じる笑いの渦に、俺はもうほとんど心酔していると言っても過言ではない。正直、次に売れるのは北村先輩だと言っても過言ではない。世界を掴むのは北村先輩だと言っても過言では……いや、さすがに過言かも知れない。うん、過言です。

「お客さん入ります〜」

 出入り口の暖簾から顔を出した田中が告げて室内のボリュームがワントーン下がる。スタジオと言っても名ばかりの地下室は、安っぽいパーテーションで区切られただけの質素な作りをしている。だからお客さんが入るとこちらの声は筒抜けに近いし、逆にお客さんの声は丸聞こえになる。

「今日『ヘブンズ』お休みなんだって」

「えー、観たかった!」

「忙しくなったのかもね」

「この前アイスのCM出てた」

「バス旅に出てるの見たわ」

 只今KHBから絶賛売り出し中のヘブンズに関して俺に言わせれば、あれは周到な猿真似に過ぎない。センスもない。持ちネタも古臭い。だが顔がいい。

「おい、誰かお嬢さんたちに教えたってや。ヘブンズなら今日はホールでお笑いバトルに出てはりますよって」

 あはは。さっきまでとは質の違う乾いた笑いが空間を満たす。三段跳びに階級を駆け抜けて今や飛ぶ鳥を落とす勢いの後輩達よりも、目の前で碇ゲンドウのポーズ取ってる北村先輩の方が、何千倍も何億倍も秀逸なのに。

「……そろそろ俺も潮時かもなぁ」

「嫌ですよそんなんっ! 冗談でも言わんといて下さいっ!」

 反射的に声に力が入ってしまった。すぐに寸劇と受け取った先輩が芝居がかった仕草で目元を押さえる。

「……そんなに俺を慕ってくれるんかぁ。でもなぁ、実家の造り酒屋がなぁ……」

「だって……だって先輩っ……下戸じゃないすか。酒が不味くなる」

「ぅおい!」

 ぎゃは、と笑いかけて引っ込める。しぃ、お客さん入っとる。客席に聞こえるか聞こえないかギリギリの突っ込み。こんなの幾らでも出来る。いつまでだって。


 それから事務所ライブが始まって、俺たちは順繰りに舞台に立つ。それぞれが持ちネタを披露する中でやっぱり先輩は頭一つ抜けて輝いて見えた。俺は心底感動しながら、先輩の一挙手一投足を噛みしめる。こんなの絶対終わらせちゃいけない。奇跡だ。天啓だ。モーセだ。いや、モーセではない。だって笑いが押し寄せるから。

 一段落ついて、次回のネタ合わせなんかしてると暖簾が跳ねあがる勢いで捲られた。その向こうから血相を変えた田中の顔が表れる。

「大変です! 事務所から連絡あって、誰かひとり寄越して欲しいって」

 続いてお笑いライブの会場として有名なホールの名前を告げる。時計を確認する。スケジュール通りの進行なら、もう開場まで時間がない。

「なんや急やなお前。なにが起きてん」

「あっ、そうでした。あの、ヘブンズが出られなくなったらしくて」

「は? なんで?」

「えぇと、なんでも、駅の階段から落ちたとか」

 うわぁ、あいつら何やってん。皆が口々に言う中、俺は当然のように先輩の背中に上着を押し付けた。連絡が来るのがこの時間になったという事は、あいつらはあいつらなりにギリギリまで舞台に立とうとしたんだろう。もう少し高い位置でぶつかっといたら良かったか。

「行ってきて下さい、先輩」

「は? 俺か?」

「当たり前です。あの舞台に立てるのなんて、こん中じゃ先輩しかいません」

「うぅ……そんなに俺を慕ってくれるんかぁ……」

 またしても寸劇と受け取った先輩が芝居がかった仕草で目元を押さえる。

「店、予約してもうたんで後から来てください。もう飲兵衛しかおらんので」

「はいはい、どうせ下戸ですー!」

「先輩のご実家って何て名前でしたっけ」

「雪乃森酒造。たいして旨くもあらへんよ」

 琵琶湖疏水が仕込み水やな、あ~そうそう琵琶湖と言えばな、と尚も小ボケを繰り出そうとする先輩に、上着と、小道具の入ったカバンと、薄っぺらい財布と、スマホを持たせて送り出す。観念して下さいあんたはこんな場所で終わる男と違うんですから。

「骨は拾いますよ~」

「うっさいわ!」

 地上へと続く階段は光に溢れている。ちらとも振り返らずに逆光の中を登って行く先輩の背中がとんでもなく美しく見えた。車道を抜けていく車の走行音がまるで万来の拍手のように思えて、俺の口からは堪えきれずにため息が漏れ出した。


 雪乃森酒造が全焼したのはそれから三日後の事だった。

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