177 禍を福と成す
天照side
「真幸が意識を戻したぞ。颯人も無事だ」
「わかってます、感じていますから。あっちに行ってください」
「つれないな、そのようにされるのは久しぶりのことだ」
「…………」
富士の麓、富士山本宮浅間大社……ここは、集まった神々に守られて何も壊されてはいない。
木偶の発した呪いの一撃は文字通り行方をくらませるためのものだったが、真幸の声を奪った故に力が暴発したのだろう。結界の展開が間に合わず唯一の呪いを受けた、颯人の傷は酷いものだった。
真幸達は先んじて棲家に帰ったが、伏見が無事を知らせてくれた。
颯人を一度失った過去があり、自分の心の行く末を自覚したばかりの雛はさぞ心を痛めたことだろう。
我も眷属の一柱だ。その心の揺らぎは絶えず伝わってくる。
治癒の全ては杉風事務所の仲間達が施し、魚彦もいた故大事には至らなかった。
だが……真幸の声は失われてしまった。あれの力の本体は命であり、それを術と成すのは声だ。それが失われた今、真幸は神としての存在意義を満たしていない。
祝詞も、陰陽術も、何もかもを失くしてしまったのだ。
高天原に帰ってもヒトガミの神たる資格に意義を唱えるものなどおらぬが、イワナガヒメが大勢集めてしまったからな……。事態を目撃した八百万の神々は、散々問い詰めてくるだろう。
我々は完全に後手に回っている。木偶を作り出した一味は魂の完全補完時に生まれる結界の解除を目的として、真幸の母は分霊していたのやも知れぬ。
本人の意思があったとして、真幸が思うようにただの素人が分霊などできるはずもないのだ。
だとしたら……しばらく前からこの計画があった事になる。
あれが起こらなければ颯人の結界が壊れることなどなかっただろう。
そして、木偶が残したもう一つの禍が陽向の身に降りかかっている。本神以外は星野の事件によって周知となっていた事だが。
真幸の母が陽向の前世であること。
それを、知ってしまった。
泣くに泣けず、怒ることもできず、陽向は自身に絶望を抱いている。
真幸や颯人に再び会えばこんな蟠りは消えて無くなるだろう。
なればこそ、陽向は実家に帰れぬ。赦されたくないのだ。
夜風に吹かれ、陽向の短い髪がそよぐ。もうこのように髪を短くする必要はない、魂が補完された今からは何も制限を必要としなくなる。
自身のうちに巣食う膨大な量の神力は暴走する事はないだろう。
陽向自身の魂は解放されたに等しいが、残酷な事実は心の扉を閉じさせた。
さて……どうしたものか。
砂利を踏む音が聞こえ、伏見が姿を現した。我らの姿を認めた後、静かに近寄ってくる。
「伏見……来ないでください!」
「あなたは実家に帰るべきですよ。芦屋さんが待っています。ご心配なさっておいでです」
伏見の声に顔を上げ、眉を吊り上げた陽向は憎しみを瞳に宿していた。それは黒炎となり、陽向の体を包み込んでいく。
「落ち着きなさい。自分の身を焼いても過去は覆りませんよ」
「ぼくは、僕はっ!!自分で自分の前世を知ることもできたのに、それをしなかった。……本当は知っていたのかもしれません。
母を痛めつけ、呪いを植えつけた張本人だからだと!僕は大罪人です。処してください」
「芦屋さんがそれをお望みだと思いますか?」
「お願いですから……ふ、伏見ならできますよね。母上の一番の腹心ですから。
彼の方のためになる事を、言葉にせずともして来たでしょう?」
「えぇ、芦屋さんが知らない仕事も沢山しましたよ。ご本神が望まぬことだとしても、ヒトガミである彼女をお守りするのに必要な事はして来ました」
「じゃあ、」
伏見は目を開き、榛の片目で陽向を見据える。厳しく、あたたかく、正しい父親としての眼差しだ。
「致しません。あなたが背負っているのは魂の業です。それは誰しもが背負い、生きていくものです。途中退場など、今までの月日を見て来た僕が許さない」
「…………どう、して?僕は、僕は……どうしたらいいんですか。母上が大好きなのに、母上を傷つけていただなんて……うっ、う……」
ついに泣き崩れた陽向を抱き抱え、きつく抱きしめる。黒炎は僅かに燻っていたが、それに触れるとあっという間に治った。
吾を傷つけまいとして、憎しみを納めたのだ。陽向の健気な想いが伝わり、胸が苦しくなる。
「ここは僕が陽向を抱きしめるシーンだと思うのですが」
「すまぬ、伏見。吾は其方に抱かれる様を見たくない」
伏見はチラリと目線を遣し、ふっと微笑む。……伏見は恐らく吾の心持ちをわかっているのだろう。自分でもわかりやすいとは思うが、皆知らぬふりをしてくれている。
「陽向は何も気負うことはありません。あるがまま、芦屋さんに甘えればいい。
母君の記憶を宿した魂を、今を生きる本体に戻した。アリスのように暴走する事を懸念して、ずっと魂のかけらを探されていたんです」
「は……はうえは、知っていたのですか?ずっと、前から?」
「えぇ。生まれた時に過去が視えず、すぐに探って知ったとおっしゃいました。
そして、今現在も自分の息子を愛しています。迷いなど微塵もありません」
陽向のこぼす涙を拭い、真っ赤になってしまった顔を覗き込む。
このように泣き喚くのは初めてのことだ。どうしたら良いか、わからぬ。
いつも冷静沈着で、伏見のように小さな憎まれ口を叩くのが愛らしいのに……今はただ、傷ついた小鳥のようになっている。
「天照殿、あとはお願いします。明日には水源を復活させるので……結局ここに来ますけど」
「真幸は大丈夫なのか?やや落ち着いたようだが」
「可愛らしい声が聞けなくなってしまったので、僕も胸が痛いですよ。でも、颯人様は喜んでますし、本神が休まないと仰せです」
「……な、何故だ?いや、真幸が休まぬと言うのは分かるが、颯人が喜ぶ??」
はぁ、と深いため息を落とし、伏見は眉間を揉んでいる。
だいたい想像はつくが。
「1秒たりとも颯人様から離れようとせず、芦屋さんの声は颯人様だけに正しく聞こえています。
自分だけが特別なのだと分かって、ものすごいハイテンションで酔っ払いかと思うほどに浮かれていますから」
「…………そうか」
「陽向が生まれて、過保護になっていたあの悪夢のような様です。まぁ……芦屋さんが守られるのならば是非もなしですけど。
彼の方が今心配されているのは、陽向のことだけですから」
「わかった、後は吾に任せてくれ」
「……弱ってるからと言って手出ししないでくださいね。僕だって陽向の父なんですから。あまりひどいと手を出します」
「………………応」
旋風と共に姿を消した伏見。盛大に釘を刺されてしまった。
仕方ない、正攻法で行くしかあるまいな。
「天照が僕を懲らしめてくださるんです?」
「何を聞いてそう思ったのだ。懲らしめるわけがあるまい」
「そうですよね、あなたは優しい神だ。僕の憎まれ口を聞いても怒りさえしなかった」
「真に憎らしく思っていたわけではないと知っているからだ。其方は素直ではない」
「はい。……でも、母上だけには、何も隠さず全てを見せてきましたよ。僕は母上の愛を一心に受け止め、幸せでした。それをもらう資格なんか、なかったのに」
「……陽向」
思考が散じてしまったのか、陽向は名を呼ばれてぼうっと目線を上げる。吾の目を見て、ほろりと涙を溢した。
吾が愛おしい神の心にできた、大きな傷は吾に治せるだろうか。颯人のように優しい方法で、時をかけてやりたいがそうもいかぬ。
時間をかけて仕舞えば陽向は頑なになる。誰の話も聞けず、独りでどこかへ行ってしまう。荒療治をするしかあるまい。
自身の左胸に手を当て、現世で伝わる天照大神の姿に変える。元は男神だとしても、後世に伝わる吾の姿は女神だった。
元々神には雌雄など些細な区分だが、神でありながら人として育てられた陽向にはこの方がよかろう。
「綺麗ですね、天照は……。あなたの色は女神の方が似合います」
「そうか?ならば今後はこのままでいよう」
「何、言ってるんですか。変化の術は疲れるでしょう。母上だって目眩しの術を使うのに疲労して……最近はかんざしのもたらすわずかな力で女神姿を誤魔化していたんですよ」
「そうだな。自身を偽るのは難しい事だ。だが、誰かのためにならば……それはほんの小さな苦難になる」
「誰かの、ために?」
「吾は其方のために女神になる。この先ずうっとだ。その方がわかりやすい」
「何故?僕のためって、どうして……」
男にしては細い顎だ。颯人と違うのはこのくらいで、見た目はほとんど同じ作り。やや抵抗感があるのは否めないが……中にいるのは愛おしい陽向なのだ。
顎を摘み、そっと持ち上げて唇を重ねる。
びくりと律動した陽向は目を見開き、中にたたえた星影を煌めかせた。
「たか……あき?」
「久方ぶりにした故うまくできたか分からぬ。もう一度」
「んむ……っ、ん」
啄むだけの触れ合いを繰り返し、胸が高鳴る。
柔らかな感触に心が打ち震え、拒絶されぬことに疑問を持ちながら口づけを深くしていく。
息継ぎをするたびに肩を震わせ、瞳を閉じて応えてくれる事が……こんなにも幸せな心持ちにしてくれるとは知らなかった。
そうっと体を離し、瞳を交わす。愛おしい人に想いを伝える前に触れてしまった。これは、真幸に怒られるだろうな。
「…………」
「我と
「僕は母上ではありませんよ」
「そんなことはわかりきっている。吾は陽向を好いている」
「母上が好きだと言ってましたよね」
「そうだ。今でも愛している。だが……最初は最愛の代わりだった其方は、真幸に似て居るが全くの別神だ。あれは憎まれ口叩かぬだろう?」
「……じゃあ、どうして……」
女神の姿でも吾の上背は陽向よりも高いようだ。しかし、頬を赤らめた姿で日向の瞳に映る自分は間違いなく女神だった。
真幸とは違う方法だが、吾もこれを貫こう。陽向は気に入ったようだしな。
「吾に憎まれ口を言うのは其方だけだ。嗜めるものは他に沢山いるが」
「曲がりなりにも最高神でしょう。みんなは思っていても言えないだけです」
「ふ、それが良いのだ。其方だけの特権だ。……返事をくれぬか、吾は其方の心が欲しい」
「…………」
陽向はわずかに逡巡した後、口を尖らせる。……思っていた反応と違うな。
「僕は腹が立っています」
「なっ、何故だ???」
「こんな……子供騙しみたいな告白で、キス一つで立ち直った自分が憎らしい。しかも……僕だって男です、女性にそんな事をさせて腹立たしい事この上ありません」
「子供騙しではない。吾は心から其方を愛しく想っている」
「僕だってそうですよ!!人間の奥様とした恋愛だって本物だったのに、子供だって居ましたし、あの世に行ったとしてもこんな事は良くないと思って抑えてきたのに。なんでキスなんかするんですか!」
「ずっとそうしたかった。其方の傷を癒したかったのだ。他の方法が思いつかなかった」
「相変わらず頭の中がお花畑ですね。
ポヤポヤしてるくせにお仕事はしっかりしてるし、誰に何を言われてもされても全く揺るがないんですから。僕は男性が恋愛対象ではなかったのに」
「……男でも良いのか」
「いやです。認めたくありません。しばらくは女神で居てください」
「わかった、そうしよう。……はて、吾は両思いだったと言う事なのか?片恋だとばかり思っていたが」
陽向は腕の中に吾を収めて、何度もため息を繰り返す。……幸せが逃げてしまうぞ?ようやく掴んだのに。
「僕も片恋だと思ってました。月読に散々相談してたのに。失恋を受け止めるのはどうしたらいいかって。
彼はずっと母上を想って、それでも父上のことも認めています。母上の幸せだけを祈り続けて、寂しくとも片恋を続けている。そうなりたいと思っていました」
「……吾も月の弟に話していた。同じ理由でだ」
「は?お互いが片恋だと相談してたんですか?月読に?」
「……そう、なる」
どちらからともなく乾いた笑いが生まれて、しっかりと抱きしめあった。
吾は愛おしい人を救えたのだろうか?呆気なさすぎてどうしたら良いのか分からぬ。
「天照が僕を好きだと言ってくれるなら、逃げられなくなってしまいますね。どこかに隠居しようと思ってましたが」
「隠居は難しいだろう、其方は力を失った真幸から離れることはできない」
「そうですね、そうします。責任をとって一緒にいてください。母上をお
「……そう言ってくれると嬉しい。真幸の運命を変えられるだろうか。それだけが心配だ」
「天照はもう随分前に、母上の運命を変えてます。あなたが降臨した事もそうですが、伏見の大社で母上に課した制約は母上自身のために決めたものだと」
「……むぅ。まさか其方に言われるとは」
「皆さんも薄々気づいてます。女神としての姿に慣れさせて、悪くないと思わせ用途しただけではない。父上を取り戻させるためにやったんでしょう?
降臨させた時の姿でいなければ神がうつろうなんてあり得ません。特にあなたと月読ならば」
「そうだな。月読は真幸の女神姿を見ていたかったから吾の案に乗じたのだ」
「ふふ……母上もまんまとその策にかかり、女神としての姿になられた。父上を取り戻し、お二人は勾玉を交わして命を共にして……あとは結ばれるしかないじゃないですか。策士ですね」
「そう思うか?吾はあの時颯人に嫉妬していた。間違いなく真幸に恋をしていたのだぞ」
「だから、そうしたんですよ。父上を取り戻すために、母上が立ち上がれなくなる前に決まりを定めた。
そうしなければ頑固な母は『自分が取り戻してもいいのだろうか』と悩むはずですし、男として生きていたでしょう。
母を導いたのは間違いなくあなたです」
「……そうやもしれぬ」
「僕が生まれたのはあなたのお陰でもあるんですよ。
母上があげられなかった分も、僕がたくさん愛をあげます……あなただけに。寂しい思いはもう、させません」
「…………そうか」
眦から雫が勝手に溢れ、胸の中が満たされていく。涙の滴は熱を纏い、陽向の頬に落ちた。
禍を福とするは、この国の民が成してきた事。吾もそれに倣うことができたのだろうか。
伏見に叱られても構わぬ、このように得難いものを得られたのなら……何が起きても構わない。
できることなら陽向と真幸には何も起こらずであって欲しいが。
「泣き虫ですね、あなたは。僕が女神になってもいいですが……天照の方が似合ってしまっているから、仕方ありませんね」
「どちらでも良い。互いの心が得られたならどうでもいい事だ」
「はい……でも……」
吾の雫を掬い、瞼に触れた唇が小さな声で囁く。
「もう少し小さくなれませんか。僕は変化が下手なんです。父上のように愛する人を包み込んで差し上げたいのですが」
「…………努力しよう」
いつもの憎まれ口は甘く、優しく耳に溶けていった。
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