171 心の奥にあったもの
「ほほー、なるほど。悪気が吸い取られる仕様の結界ですか」
「そうだな、悪性の気配が出たら吸い取って、循環して綺麗にしてから荼枳尼天に戻してる感じ」
「ほぉ……あぁ、今は獣の姿なのですね」
「そうそう、ジャッカルだっけ?元々のもふもふ然だけど、これも可愛いよな。時々狐姿と混じるのは、まだ安定してない感じなんだ」
ほー、と感心したように頷いた少昊の横で、ふくよかな女性が眉を顰める。
「……ヒトガミよ、近衛は如何した。なぜ鬼一だけなのだ?颯人までおらぬではないか」
「……うん……」
現時刻……昼の13:00 俺は高天原から散り散りに飛び出した仲間達を呆然と見送って、残った姫たちと昼食を共にした後、荼枳尼天のお見舞いに来ている。
みんな『ちょっと待ってろ』って自分の心当たりに調べ物をしに行ってしまったんだ。
お供に来てくれたのは少昊と、鬼一さん、それからさっき合流した大日如来だ。
少昊はお喋りしてくれるけど、鬼一さんは押し黙ったまま。俺も……さっきの話題にはまだ触れたくない。やる事やって、お家に帰ってからだな。
「何かあったのだな。そして、其方はそれに触れたくないのか」
「うん、ごめん……」
「よい。私と共に少し時を過ごそう。少昊も付き合ってくれるのだろう?」
「はい!!……人神様、わたしがお共でもよろしいですか?」
「いいに決まってるでしょ。大陸内で捉えてくれた術者たちにも、これから試してくれるんだろ?俺がやってるようなことを」
「はい、今までこのような経験がありませんので。饕餮が言うように罪人は即処刑でしたから」
「そっか……じゃあ、何かの参考になるといいな。よっし!荼枳尼天、お邪魔するよ」
座敷牢のドアの鍵を開けて、部屋の隅っこに縮こまった荼枳尼天に声をかける。カタカタと体を震わせた彼女はチラリと目線をよこした後、丸まってしまった。
少し距離を置いたまま、俺はその姿を眺める。牢獄の格子の外から大日如来と少昊が心配そうに眺めていた。
「お腹すいただろ?ご飯を食べよう」
「……い、いやや!なんか知らん人おる!」
「大丈夫、中には入らないから。お腹すいてないのか?」
「……空いた。でも、あかん。あんたの血ぃが減る」
「いいんだよ。いつもちゃんと我慢してくれてるだろ。俺と大日如来の言うことを聞いて、大人しくしてくれてる」
「うー……怖い、怖いよぉ……アタイは神さんになったはずやのに、どうして人を食べたん?もう、あんなことしぃひんって日如様と約束したのに。う、うっ……うぅ……」
耳を平らにしたまま泣き出した彼女は、ここに来てからずうっとこんな感じだ。正気に戻ってくれたのは良かったけれど、自分がしてしまったことを悔いて……人を食べてしまったことに怯えている。
自分自身が許せなくて、怖いんだ。
ゆっくり、ゆっくり……少しずつ距離を縮めて、もう一度畳に座り直す。
ここは多くの結界が貼られているけど、毎日きちんと掃除がされて、ふかふかのお布団に温かいご飯、そして俺の血液を与えられる環境がある。
犯した罪を償うため、百年って期間をここで過ごさなきゃならないけど……その大半はおそらく心の浄化をしなければならない。
曲がりなりにも仏閣に祀られ、人々に幸を与えてきた彼女には辛い現実だ。
「荼枳尼天」
「ひっく……ひっく、お腹、空いた」
「うん。ご飯もあるし、今日はちゃんと睡眠も食事もしてきたから、多めに飲んでも大丈夫だよ。抱っこしよっか?」
「…………ほんま?」
三角の大きな耳をピコっと立てて、灰色の毛が茶色く染まっていく。
日本での神様としての姿は、茶色い狐さんだ。尻尾は大きな一本で、鼻と爪先が白い毛に覆われたふわふわモコモコ姿なんだ。
「抱っこ、してくれるん?」
「うん、おいで」
胡座をかいて、膝をポンポン叩くと荼枳尼天が様子を伺いながらやってくる。初日は腕を思いっきり齧られたからな……そこから見ればだいぶ進歩してる。
「じゃあ、交換条件を満たしてもらおうか!」
「は、はい」
膝の上に乗った荼枳尼天がブワッと毛を逆立てて、尻尾を差し出してくる。そう、俺は自分の血を与える代わりにもふもふさせてくれと頼んだ。
大きく膨らんだ尻尾を撫でると、小さく『きゅう』と鳴き声が聞こえる。
「あーもふもふ……もふもふたまらん。最高。毛の密集度がすごい、根っこの細かい毛が柔らかいのに毛先はツンツンしてる……はーたまらん。アーーーー」
「そぉんなにアタイの尻尾が好きなんか」
「大好き。かわいい。最高」
「うふ……うふふ、うふふん。もそっともふもふしてええよ」
「うん、ありがとう。はー気持ちいいなぁ……」
俺が尻尾にすりすりしていると、ハッとした荼枳尼天が顔に抱きついてくる。
あれ……どした?
「なんか、あったん?心が震えとるやんか」
「そう、かな。よくわかんないんだ。自分でもまだ受け止め切れてなくて、なんだか胸の中が空っぽになったみたい」
「ほーなん?アタイと一緒やな。ぎゅうってしよ、あったかいやろ?アタイも寂しくないし、アンタも寂しくないな」
「うん……」
「今日はもふもふ時間延長したる。いつもの恩返しや。アタイのしっぽで癒してあげよな」
「ありがとう。嬉しいな……いい子だな」
「んふふ……アタイも嬉しい。真幸が好きやで」
「うん……」
薄暗い部屋の中、天窓から照らされる陽の光に包み込まれて、俺は荼枳尼天とぎゅうぎゅう抱きしめあった。
━━━━━━
「少昊、たくさんお土産くれてありがとな。結局……真犯人はどこの国の人とも違うみたいだ。調査も大変だっただろうし、俺は、八つ当たりして怒って嫌な思いをさせた。本当にごめん」
「謝る必要はありません。常世の国については、まだ推測の域を出ていないのですよ?
実行犯も真犯人と同じです。お力になれればいいと思って動いた事は後悔してませんし、ヒトガミ様に理不尽に怒られたつもりもありません。これから先も、協力しますからね」
「……うん、お願いします」
荼枳尼天にご飯をあげて、もふもふに癒されて……俺たちは、神楽の舞台に戻って来た。
誰もいないだだっ広いそこには、みんなが居た名残がある。
お茶もろくに飲めず、みんな飛び出していってしまった。常世の国の情報なんて存在するのだろうか……ううん、あってもなくても、皆んな俺のために必死になってくれてるんだ。
それを思うと、ホワホワと胸が暖かくなるけど……何もかもがこぼれ落ちてあっという間に空っぽになる。
何だろな、これ。俺はどうしちゃったのかな。
「皆さん遅いですねぇ……」
「うん」
少昊とひとしきり話して沈黙が落ちると、大日如来がソワソワし始めた。
「ヒトガミ、その……私は仏だ。仏教では最果て、最上が無となる。私自身はこうして姿を現していても、意識をとけばいつでも無に帰するのだよ」
「無が全で、みんな一つになるんだっけ?」
「あぁ。それは痛くも苦しくもなく、慶と幸せに満ち溢れている。
常世の国はおそらくそれとは別のものだ。仏門と少し解釈が変わるから、別次元の軸に存在するのだろう」
大日如来は気まずそうな顔をしてる。そう、仏教では修行の末に行き着くのは無の境地。輪廻転生から外れた生命は無になると言われている。それがどんなものかはわからないけど、輪廻転生の考えがあるのは元々仏教だったな。
神道の場合は、死んだ後家を守る神になるって言うけど。神道は生まれ変わりの概念はない。黄泉の国で祖先と会える、って考え方だ。
「日本はいろんなものが混じっていますからね、華胥の夢の国は常世の国と同じような解釈ではないでしょうか。平和的な理想郷、人の思いつく最上の幸せな国……と言うものです。
死後の話ですと、我が国の儒教では『自分の魂が子孫の中に生き続ける』といったものが代表的ですね」
「難しいよな、そういう死生観みたいなものってさ。でも、現実として生まれ変わった人を俺は多数見て来た。身近にもいるしね。
だから日本で死んだ場合のルールとしては輪廻転生があると思って間違い無い。……でも……」
「そうだな、常世の国については誰も知らない。戻った者がいないからだとは思うが。すまない、私は役立たずだ」
「私もです……申し訳ありません」
「いや、そんな事ないよ。俺と話してくれるだけでありがたい。……俺も考えがまとまんないんだ」
みんなで押しだまり、ただ散る桜を眺めている。
俺は、少し前まで沖縄の神官である綾子さんがいうように『死』に憧れていた。
苦しいことがあっても、それをどうにかこうにか乗り越えれば幸せな時間はやってくる。颯人と出会う前の苦しみはもう、別次元のものとして捉えられるようになった。
でも、大切な人はみんな寿命を迎えて、死んでしまう。……だからただ単純に追いかけたかったんだ。
しかし、いざ目の前に得体の知れない『死』に似たモノが差し出されてしまうと……常世の国に行くのが死なのかどうかはわからんけどさ。現世にも高天原にも戻れないなら同じようなモノだとは思うんだ。
それが突きつけられて……俺は、怯えている。
ぼうっとしたまま考えがまとまらない。ただ漠然とした恐怖に何も考えが浮かばず、受け止めきれず、堂々巡りで思考停止してしまう。
悲しい気もするし、苦しい気もするし……よく、わかんないんだ。
心配そうにしてくれる少昊と大日如来にはごめんだけど……何ていっていいか、わかんない。
「……戻ったぞ」
「あれ、颯人だ。おかえり」
「すまぬ、そなたを独りにした」
颯人が一陣の風と共に顕われる。おかしいな、匂いも気配も感じなかった。
「……少昊、大日如来、面倒を見てくれて感謝しよう。少し、二人の時間が欲しい」
「えぇ、あとは颯人様にお任せします。また、ご連絡しますね」
「颯人、そなたの大切なものを履き違えるな。ヒトガミと離れてはならぬぞ」
「あぁ……すまぬ。心配をかけた」
桜の花びらに紛れて、二柱が手を振って姿を消した。ぼんやりとした気分のまま、颯人が俺を膝の上に乗せる。
向かい合わせで座って、お互いの顔をじっと眺めた。
「なんか見つかった?」
「いや、調べ物が手につかずに戻ったのだ」
「そっか。颯人はどう思う?」
「わからぬ。何も、思いつかぬ」
「颯人にもわかんないことがあるんだな」
「たくさんある。……体が冷たい。我の中へ来てくれるか」
「うん……」
颯人がぎゅうっと俺の体を抱きしめて、桜の風から隠してくれる。何もかもが見えなくなる一瞬前に、鬼一さんが泣いているのが見えた。
「鬼一さんを泣かせちゃったみたいだ」
「そうだな。其方を失うのではないかと、皆が悲しみを覚えている」
「颯人は?」
「我は……様々が入り混じり複雑な心持ちだ。其方と同じく、空っぽになってしまった気がする」
「そっか、そうなんだ。何か……ほっとした。おかしいわけじゃないんだな、これ」
「あぁ」
颯人の心音を聞いて、あったかい腕の中にいると……さっきまで空っぽだったものが満たされて、入れ物の淵から溢れそうになる。一緒にいると、何もなくならない。
なんだろう、これ。すごくあったかいんだ。今までにも同じようなことはたくさんあったけれど、突然解像度が上がったみたいにその感覚が鮮烈なものになった。
鼻が颯人の匂いを感じて、颯人が動くと衣擦れの音がして、さっきまで全然聞こえなかった音がぜんぶ聞こえる。
風にたわむ木々の囁き、風に吹かれて桜の花びらがガクから外れる時の音、風に踊った水盤の水が再び落ちる音が耳に届く。
感覚が戻って来たにしては、ちょっと鋭い気がする。
でも、この感じは経験したことがある。目を開くと全てのものの色彩が鮮やかになって、綺麗なものばかりが目に映る。
……あ、これ。颯人が俺を依代にした時と同じじゃないか?
あの時も、俺は公務員をクビになって空っぽになっていた。
そこに颯人が来て、何かが満たされて、その瞬間から世界の色が変わり始めたんだ。
颯人と目を合わせて、何も言葉にせず見つめ合う。顔が勝手に動いて……お互いの目に映る自分の顔が、笑顔になった。
「――其方に触れたら、心に温かいものが溢れる。何物にも変え難いぬくもりだ。……愛を感じる」
「愛……?」
「我はそう思う。其方が傍にいれば、何もかもが美しく鮮やかに見える。
耳に聞こえる音の全てが奥底まで届き……心のうちを満たして命を輝かせるのだ」
「そう……そうなの?これが愛なのか」
颯人が俺の額に口付けた瞬間、胸の奥から色んな記憶や感情が湧き出してくる。
……胸が、痛い。苦しい、切ない……心臓がどくどくと早鐘を打ち、喉が痛くなって、鼻がつんとして、目に熱が集まってくる。
いつまでも止まってくれないその衝動に手先が震えて、体に力が入らない。
伏見さん、白石、清音さん、鬼一さん、妃菜、星野さん、アリス……陽向、魚彦、赤黒、暉人にふるり、ラキ、ヤト、ククノチさんに天照……月読。累、真子さん、是清さんに桜子さん。大村さん、倉橋くん、加茂さん、真さんに咲陽、親父に……おかあさん。
いろんな人の顔が浮かんでは消えて、心の中が掻き乱される。
最後に浮かんできたのは目の前にいる、颯人だ。眉を顰めた顔……眉を下げてしょんぼりした顔、怒ってる顔、笑ってる顔、泣いてる顔。眩しそうに目を細めて、俺に……あの言葉を囁く時の顔がうかぶ。
俺の震えを感じて、颯人が耳元で囁く。
「真幸……愛している。其方がどこに行こうとも、離れはせぬ。
我は、其方以外に無くすものなどないのだ。寂しかったか?すまぬ……辛い思いをさせた」
「は……颯人、一緒だよね?これから、もずっと一緒にいてくれるだろ?
俺、怖い。何にもわからないけど、みんなと離れるのは嫌だ。颯人と離れるのなんて考えたくもない」
「……真幸」
「全部が溢れて来て、止まらないんだ。胸が苦しい」
「あぁ……そうだな。其方が生きて来た全てが去来して、ここを乱している。……我の鼓動を感じるのだ。目をつぶって、息を揃えよう」
颯人の大きな手が左胸にそっと触れる。俺も真似して、颯人の心臓を左手で押さえた。
指輪がきらりと陽光を弾き……とくり、とくりと心臓の音を刻む。
目を閉じてゆっくり深呼吸を繰り返すと、柏手の音が聞こえた……鬼一さんか?俺、荒神になりそうだったりするのかな。
「そなたは堕ちぬ、我がいるのだから。何をなくしたとしても、どこへ行こうとも我がいる。愛する其方を手放さぬ。
手を携え、我らは共に歩むのだ。膝を折ったとしても……必ず立ち上がれる」
「…………うん」
颯人が額をくっつけて、欲しかった言葉をくれる。低くて艶やかな声がじんわりしみて、心音が揃って、だんだんとそれが落ち着いてくる。颯人が俺を引っ張り上げて、優しくあたかかいもので包み込んでくれる。
瞼にあたたかい雫が触れた。それが頬を伝い落ちて、顎から滴った。
颯人が、泣いてる。
……俺を想って、泣いてるんだ。
瞼を開くと、自分の眦からも雫が伝っていく。俺を泣かせてくれるのは、いつも颯人だな。
「はやと」
「うん?」
「なんか……これって今までと変わらないよな。なるようにしかならないと思うんだけどさ。どう思う?」
「そうだな、魚彦の言った『考えても仕方のないこと』やも知れぬ。
全ての結果を受け止めるのは其方一人ではない」
「うん…………。今は、やれる事をやろう。悲しむのも、怒るのも、笑うのも全部が終わった後からだ。
颯人、俺がこうなったらまた同じことしてくれるか?」
「ああ……そなたに頼られるのはとても良い。我がそなたを落ち着かせてやろう」
「ふふ……頼むよ相棒」
「応」
俺は再び目を瞑り、颯人に抱きつく。背中に回って来た大きな手のひらを感じて、しわあせな気持ちでそっと吐息を吐き出した。
今まで……ずっと見えていなかったものが、正体のわからなかったものが、確かに心の中に存在しているのがわかった。
颯人に出会ったあの時、その時からずっと俺の中にあったんだ。
――それは、花の蕾だった。颯人の涙を受けて、固く閉じたものが綻び始め、いつのまにか咲き誇っていた。
……俺、やっとわかった。
やっと、わかったよ……颯人。
心の中でそっと呟き、止まらない涙の熱が際限なく上がっていく。
長年追い求めていた答えは、自分の中にあったんだ。
最初から、ずっと……気づかないうちに俺の中で確かに花開いていたんだな。
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