161 唯一の女神

伏見side


「つ、ぅ……」

 

「痛そうだな……お薬持ってきたけど飲む?」

「はい……はい!?」


 

 痛みで呻いた自分の声で目覚め、芦屋さんの声が聞こえた。慌てて動こうとして、自分の顔が何か柔らかくあたたかいもので覆われていることに気づく。

 

 僕の枕は硬めだったはずですが……なんだろう、これは。

モゾモゾ動き、慣れない感触に蠢いていると芦屋さんが艶かしい声をあげた。



「んんっ、くすぐったいよ伏見さん」

「!?……????」

「ひゃっ!もぉー、モゾモゾしないで」

 

「伏見……それ以上動けば息の根を止めるぞ」


「颯人!そう言うのやめなさい。俺が勝手に抱っこしてるだけなんだからな」

「……ぬぅ」

 

「だっこ……?も、もしかしてこの柔らかいものは」


 


 間違いない。芦屋さんの胸の間に僕の顔が挟まっている。そして、布団の中では細くてすべすべした足が絡まっているのを感じた。

 あまりに恐ろしい状況、そして幸せな状態に体が勝手にピシリと固まる。


 

「枕が固くて痛そうだったから、つい抱えちゃったんだ。苦しいか?」

「大丈夫です!!」

 

「そ、そう?相当辛そうだし、痛み止め飲もうよ。魚彦に一回診てもら……」

「結構です!!!」

 

「えぇ……?何でだ??魘されてただろ?」

「動いたら殺されますし!いえ、死んだとしても本望です!!最高です!!!」



 

 何言ってんのさ……と呆れたような穏やかな声が聞こえて、思わず目を瞑る。

芦屋さんに密着した顔から声の振動が伝わって、心地よさにため息が出た。


 とてもあたたかい。こうして一緒に横になるなんて本当に久しぶりのことで、薬の作用も相まって思考力が霧散していく。

 それと共に、ズキズキと痛みを訴えていた右目から痛みが綺麗に消えた。


 

「伏見さん、痛いならちゃんと言わなきゃダメだよ。本当はあと三時間くらい空けたいけど、我慢できないならお薬飲んでいいんだよ」

 

「痛くなくなりました」 


「へ?なんでだ……?」

 

「芦屋さんが僕に触っていると分かったら、消えました。とても気持ちいいです。このままでお願いします」


「そう?……あんまり薬飲みすぎても胃に良くないし、我慢できそうならもう少ししてからにしよう」

 

「はい」




 僕の肩に布団を掛け直し、芦屋さんの手が背中に回る。そのまま手のひらがトントン、と叩いてくれて身体中に幸福感が広がっていく。

 

 心臓の音が聞こえる。とくとく、ゆっくり脈打つ音が意識を奪って、いつの間にか瞼が閉じた。



━━━━━━ 

 


「――うん、熱が出てきたみたいだ。颯人がいま氷枕作ってくれてる」

「怪我所以の熱は出ると思っていたが、かなり高いのう。痛み止めは?」


「陽向が交代する前に煎じ薬飲ませてるけど、そろそろ切れるかな。あまりにも痛みが強ければ坐薬にしようと思ってたんだけど、抱っこしたら痛くないって言うんだ」

 

「あぁ……ならば心配せずとも良い。短時間で連続して飲めば、臓腑の負担が高い。伏見には心因的な痛み止めが効いたのじゃろう。ぷらしーぼという奴じゃよ」



 

「んー……何となくわかる気はするけどさ、俺も颯人にくっついてると落ち着くし。でも、内臓がとられたんだぞ。プラシーボでどうにかなるようなモノじゃないと思うんだけど。

 あっ、そうだ。妃菜はちゃんと寝てるのかな」

 

「そのあたりは飛鳥に任せれば良い。それこそ心配いらぬじゃろう。伏見の傍に居てやっておくれ。此奴にとっては真幸が薬なのじゃから」


 

「うん。……魚彦、伏見さんの目を早く取り返したいよ。俺はこの人の榛色の目が好きなんだ。

 俺が守れたらよかったのにな……」


「そう言うてやるな。伏見は其方を守れて幸せじゃと言うておったじゃろ?本人のプライドの問題なんじゃから、謝ってはいかんぞ」

 

「うん……」



 

 小さく囁く優しい声が、聞こえる。相変わらず僕を抱えたままの芦屋さんと、魚彦殿が会話している。

 そうか、熱が出てしまっているから頭がぼーっとするんだ。瞼も身体も重くて、持ち上がらないし動けない。

 

 芦屋さんが僕の頭を撫でて、頬に触れ……痛くないように顔の角度を調整してくれている。

僕の女神が僕のために看病してくれているんだと思うと、胸がジーンとする。


 


「冷やし枕を持ってきたぞ。水分もな」

 

「あぁ、ありがとう颯人。吸飲み買っておいてよかったね。あの時みたいに口移ししなくても大丈夫そうだな」


「!?くち、うつししたん……ですか!?」


 


 芦屋さんが口移しで……颯人様が風邪を引かれた時だろうか。そういえばこの前、高天原でそんな話をしていたような。


 

「あれ、伏見さん起きてたの?目が開かないのか?」

 

「はい、体に力が入らないだけですから問題ありません……と言うか本当に口移ししたんですか?颯人様に?」

 

「な、なんでそこ突っかかるのさ?風邪引いた時の話だよ。吸飲みがなかったし、あの時は流石に颯人を持ち上げられなかったから仕方なくやっただけだぞ」


「くっ!吸飲みを一つ残らず捨てましょう!!今からでも遅くありません!」

 

「……熱に浮かされてるんだな?そうだな?はい、水分補給して」

 

「むぐ」




 吸飲み……病院で使う、患者の水分を補給するための道具。急須のような見た目のプラスチックが、ぬるい水分を口の中に運んでくる。

 経口補水液が美味しい。あぁ、水分不足になっていたのか……。


 今の現状はこの目で見ておかなくてはならない。必死で瞼を持ち上げ、わずかに景色が見えてくる。

 黒曜石の黒い瞳が気遣わしげに見つめて、口からこぼれる雫をティッシュで拭き取ってくれた。

 



「すみません……口に力が入らなくて」

 

「そんなの気にしなくていいの。感染症にはなってないけど、ちゃんと重症なんだよ。だから熱が出て来たんだ。

 そろそろ解熱剤と、痛み止めを飲もうか。痛み止めは抗炎症薬も兼ねてるから飲まなきゃ。今の痛みは10段階中どのくらい?」


「5くらいです」

「本当は?」

「9くらい……です」


「そうか……結構痛いんだな。魚彦、点滴と坐薬どっちにすべき?」

 

「点滴ならば水分補給もできよう。用意してくる」

「ありがとう。伏見さん、魚彦が点滴持って来てくれるからね。もう少しだけ頑張れるか?」


「……はい」



 

 正直こんなに痛いと思ってはいなかったから、思わず本音が出てしまった。


 心臓が二つある気がする。失われた右目がドクドクと脈打ち、その度に激痛が絶え間なく生まれてくる。

 目の痛みは、歯の痛みに似ているようだ。脳の奥底まで響いて全身が刺し貫かれるような鋭さがある。

酷い感触にまた呻き声をあげそうになり、歯を食いしばった。勝手に眉間に皺が寄っていく。


 

「……伏見さん、歯を食いしばると折れちゃうぞ。目は痛みが強くて深いから、無意識に噛み締めてると歯が砕ける」

「そうなんですか……んむ?」

 

「俺の手でごめんだけど噛んでいいよ、すぐ回復できるから気にしないで使ってくれ」

「…………」



  

 芦屋さんの指が僕の歯に挟まれた。どうしてこう、すぐに自分の身を差し出すんです?僕があなたを傷つけるわけがないでしょう。

 

 芦屋さんは色んな怪我をしてましたが、思えば目の負傷は一度だけだった。

普段痛いと言わないのに、初めてその言葉を口にしたのは目を怪我した時だったと思い出した。



 『眼球の怪我は避けろ』としつこく授業で言っていたのは、これが理由だったんだ。人間の急所だからというのもあるけれど、戦いを続けるためだけにそう言っていたのだと思っていた。

……こんなに強い痛みでなければ、芦屋さんはそう言わないのか。


 僕は、あなたの痛みをようやくいくつか知れた。口が裂けても言えないが、それが嬉しくて仕方がない。

 これでもう少し、芦屋さんの気持ちがより理解できるようになる。


  

「……なーんで笑ってるの?」

「ふふ、ふふふ」

 

「ちょっと怖いぞ。良いことでもあったのか?」

「こくり」

「むー?なんだろう……うーん」



「真幸、戻ったぞ。右手に点滴をするとしよう」

「おかえり。わかった」

 

 魚彦殿が戻り、芦屋さんが離れていく。心許なくなって思わず手を伸ばすと、僕の手が小さな手に包まれた。


「大丈夫、どこにも行かないよ」



 大好きな人の、大好きな声が胸に沁みて、僕はただ頷いた。


 ━━━━━━


 

「むーう、むーう」

 

「……ん、どした?あぁ、お乳の時間か」

「んむーう」

 

「ふふ、ちゃんとお返事できてえらいな。今あげるからね。颯人、ミルク取ってくれるか?」


「応。あぁ、伏見を起こすのは忍びない、我がくれてやろう」

 

「お願いします。月読はどうする?」


「……僕、いい」

「ん?お腹すいてないのか?」

 

「いらないの」



 件が甘える鳴き声と、月読殿の不機嫌そうな声が聞こえる。いつの間にか喋っているが、彼はまだ完全に元に戻っていない筈だ。

 首を動かして見てみると、月読殿が小さな体で芦屋さんに抱きついている。頬が赤い……おや、これは……。



 

「抱っこがいいのか?」

「……ぼ、僕、ぼく」

 

「わかってるよ、頭の中はもう戻ってるんだろ?」

「え……真幸くん……知ってたの!?」

 

「うん。もうちょっとくっつかないとちゃんと抱っこできないから、おいで」



 

 芦屋さんは布団の上に仰向けで寝転び、片手に僕を抱えて反対側に月読殿を抱えているようだ。顔を真っ赤にした月読殿は起き上がり、気まずそうに目を逸らした。


「ごめん、僕は少し前から元に戻ってたと思う。なかなか言えなくて……」

 

「なんでそんな顔してるんだ?いいから早くおいでよ。いつも件に抱っこ譲ってあげてるだろ?今颯人がミルクあげてるからくっつくチャンスだぞ?」

 

「……でも、僕は大人だし」


「体が子供なら気にする事ないだろ。頭の中が赤ちゃんの時だって、月読はお兄ちゃんやってくれたんだから。遠慮しなくていいの」

 

「本当に?」

「うん」



 

 とすっ、と軽い音の後、月読殿の手がそうっと芦屋さんの首に回る。体を引き寄せて片腕に彼を包み込み、芦屋さんが額にキスを落とした。


 

「小さい頃からそうやって遠慮してたんだろうなぁ、って思ってた。件の面倒も見てくれてたし、お世話を手伝ってくれてたし。

 月読はいいお兄ちゃんだったんだな」


 

「やれやれ、意識が戻られていたのか。兄上は確かに我と陽の兄の面倒をよく見てくださった」

 

「甘えるのが一番へたっぴなのはそのせいか?」


 

「……正確に言えば僕たち三貴子みはしらのうずのみこは父上から生まれてるから、母上とはそこまで触れ合う機会がなかったんだ。

 ヒノカグツチが生まれてから母上は黄泉に渡って、颯人が物心ついた頃にはもう高天原にいなかった」

 

「そうか、だから颯人は寂しくなって追いかけたんだな」


「そう……だと思う。僕も体が小さくなってから、母上がいなくて寂しい気持ちを思い出した」

「そっか、じゃあ今くっついたらいいだろ?昔できなかった分、かわいいうちに甘やかしてあげるよ」



 

「大きくなったら、可愛くないの?」

 

「んふ、そんな事ないよ。小さな月読と一緒だったから、前よりずっと可愛がってしまうかもしれない」

 

「真幸」

 

「颯人はやきもち焼かないの。俺は……優しくて弟思いで、甘え慣れてない月読が可愛くて仕方ないんだ。颯人は甘えるの上手だもんな、末っ子だし。

 たまには譲ってくれるだろ?」


「むう……」

「むーう」


「颯人と件が同じ事言ってる。ぷふふ」


 


 穏やかな笑い声が耳に届く。件が哺乳瓶からミルクを吸う音、颯人様が件を抱き抱えてため息を吐く音……芦屋さんの呼吸音。

 聞こえるもの全てが優しくて、このまま時が止まって仕舞えばいいのにと思う。


 

 頭の中に、いろんな情景が浮かんでは消えていく。芦屋さんほどではないが、僕も小さな頃の記憶が朧げに残っていた。

 母が、父が、姉が僕と同じ色の目で、普段から細い目をさらに細めて覗き込む光景が心に刻まれているんです。



 小学校、中学校、高校と何の苦労もなく順調に成長し……小さな挫折や悔しさを味わったけれど、自身は芦屋さんのように大きな苦難や苦労はしていない。

 

 裏公務員になってからはそれなりに大変だったが、それも芦屋さんが来てからは本当に楽をさせていただいた。



  

 初めて見た時は『やっていけるのだろうか』なんて心配をしていたのに。この方は、自分が経験したものを客観的に見つめられる境地に達している。

 颯人様が教えた全てを正しく身につけて、花が開くようにして全部を生かして戦い続けている。


 それがどんなに大変なことなのかが今回改めて分かった。明子さんのようになってもおかしくなかった環境で、自身の力で立ち上がった尊い意志が……正義であろうとするその心が僕はたまらなく愛おしい。


 言い表せないほどの感情が湧き上がり、勝手に目から涙が溢れた。


 


「伏見さん、そんなに痛いか?今点滴が入ったから、もう少ししたら楽になるよ。ごめんな、痛みをとってやれなくて」

「…………」

 

 心配そうな顔をしている芦屋さんの目は、ずうっと昏いままだ。明子さんも同じような目をしていたのに、どうしてこんなに綺麗に見えるのだろう。

 

 不思議だな……。


 


「顔に穴が開いちゃうぞ。そんなに見て、どうしたの?眠くないのか?」

「眠気が覚めました……」

 

「痛み止めが効けば眠れるじゃろう。ワシは鈴村を診てくるぞ。点滴が終わる頃に戻るからの」

 

「妃菜の事お願いね、魚彦」

「応」


 

 ドアが開いて、閉じる音。静かになった室内で、颯人様はミルクを飲み終えた件と共にうとうとしている。

 月読殿も幸せそうな顔で目を閉じて寝息を立て始めた。


 


「ねぇ伏見さん、恋バナしよっか」

「……恋バナになるでしょうか」

 

「なるよ。伏見さんの経験した事をちゃんと聞いておきたいんだ。

 こういう事話すのは初めてだろ?」


「そうですね……星野のように何か為になることは言えそうにありませんが」

 

「そうか?伏見さんが何を見て、何を感じたのか知りたい。教えてよ」


 


 芦屋さんに言われて、熱に浮かされたまま勝手に口が喋り出す。いつもならこんな事を話したりしないけれど……芦屋さんがどんな風に思うのか聞いて見たいとは思っていたし、たまにはいいのかも知れない。


 僕の受験対策要員としてやってきた明子さんは、実家の大社の氏子さんだった。ご両親共に教師をやっていて、彼女の進路も教育者だった。


 

 そうだ……彼女に初めて出会った時も芦屋さんのように前髪が長く、顔を隠してヨレヨレの服を着ていた。

 

 厳しいご両親のもとで育って、親に敷かれたレールの上を走るという立場は僕と同じだったけれど……僕はそれを自分でやりたいと願っていたから、わかりあうのは難しかった。

 

 彼女はそのレールを疎んじて、大学もサボって引きこもっていた。あの性格では友人もいなかったし、仕方ないとは思えるが。

 そんな時に引きこもりを脱するのを手伝ってくれと言われ、必要のない家庭教師を伏見家は迎えた。



 

「伏見さんは成績優秀だっただろうなぁ、優等生してたんじゃない?」

 

「ええ、ご想像の通りですよ。僕はまっすぐ育ちましたから。姉が捻くれた分、その道が面倒な事はわかりきっていました」


「ヤンキーさんも大変そうだな。でも、真子さんの長ラン姿は忘れられないよ。カッコよかった」

 

「僕もそう思ってました。自分で選んだ道を進む真子の姿に憧れもしましたが……正直怖かったです」


 

「んふ、そっか。真子さんがいたら、明子さんは伏見家に入れたかわからないね」

 

「追い返したでしょうね、間違いなく。……でも、家庭教師をきっかけに彼女は引きこもりを脱しました。

 大学に通い始め、家庭教師としてうちに来るのも回数が減って……そして問題の不倫男と出会ってしまったんです」



 


「なるほどな……不倫する人ってさぁ、結婚して決まった相手がいるのにどうして他の女性に手を出すんだろう?俺にはその気持ちがわかんないよ」

 

「相思相愛が世の常ではないんですよ。正しい形の愛し愛されは奇跡なんですから。

 大きな砂漠から砂を掬い上げた時、手のひらに残る砂は少ない……その中で心の内の全てが結ばれるのがたった一人だけ、と言うのは砂粒の確率です」



「砂粒か……。伏見さんは、明子さんを好きだった?その後恋愛した?」

 

「難しい質問ですね。僕は大人になってから恋はしていません。惚れてる人はいますが、以前も言ったように自分の手でどうこうしたい欲求はありませんよ。

 颯人様や白石のように我慢するでもなく、鈴村と飛鳥殿のようにわかりやすい直球の愛ともまた違うものです」

 

「ふ、ふぅん。なんか藪蛇を突いた気がする」


「えぇ、惚れてるのは芦屋さんですから。この世で誰よりも愛おしく、尊敬を抱く僕の唯一の女神です。自覚していただけているのは大変幸せな事ですねぇ。この先もずーっと変わりませんから、そのつもりで居て下さいね」

 

「む……むぅ」



 

 芦屋さんが頬を赤らめ、躊躇いがちに目線を合わせてくる。熱でぼやける視界の中でも、綺麗なお顔だけははっきり見えた。

 

 僕は、自分で自分の感情にきっちりと線引きをしている。そうしなければこの気持ちは恋になっていただろう。


  

 叶わぬから諦めたのではなく、芦屋さんを好きだからこそ線を引いたまでのことだ。そして、僕は女神を手に入れるのではなく自分の身を捧げる決意を持ち、確固たる幸福と立場を手に入れている。


 本当に、あなたに出会えて幸せなんですよ。だからこそ明子さんとの関係性は恋かと問われると、否と答えるしかなくなってしまう。芦屋さんへの綺麗な思いを汚されたくはないから。




「明子さんはいつの間にか不倫して、振られていました。相手方の奥様がとても優しい方で……何も知らずに害をなしてしまった彼女を赦し、恨みを抱かなかった。

 しかし、明子さんは違いました。自分で自分を諦めていたあの人は、男性に依存してアイデンティティを確立していたんです」


「依存って……別れを受け入れられなかったのか?」

 

「そうですね。僕は別れの直後に関係を持ちました。純粋に恋敗れ、傷ついた明子さんが綺麗だと思った。

 忘れさせてあげたいと生意気にも思ったんです。子供だった僕がそれを成せるはずもなく……結局一人で苦しんだ彼女は優しい奥様を殺しました。そして、愛したその人に背中からバッサリやられて亡くなったんです」



 

「……酷いのはその男じゃんか。明子さんを騙して、奥さんに嘘ついて。どんな感情でそうしたのか、ますます理解できない」

 

「そうですね、最低だと思いますよ。

 でも……あの時僕が中途半端に手を差し伸べなければ、そうはならなかったかもしれません。

 体を重ねた時に『あなたのせいじゃない』なんて言わなければ、違った結果だったかも知れないと思っています」

 

「伏見さんのせいでもないでしょ。結局は本人が選んだことだ。丑の刻参りは唆されたとしても、そうしたのもまた彼女の決断だろ」



「はい……でも、僕は僕のわがままで蹴りをつけたかった。誰をも救う芦屋さんに手を差し伸べてもらえる資格なんかあの人にはない。だから僕が引導を渡したんです」


「そっか……」


「僕は僕のエゴで彼女を打ちのめし、醜いと罵ったんですよ。立ち直る云々の前に、腐った根性をぶちのめしたかったんです。

 そうしなければ先には進めません。芦屋さんはよくご存知でしょう?すでに実践されていますから、倉橋達に」

 

「…………そうだね」



 

「明子さんが散々こだわっていた……ルッキズムの解釈を間違えた人は厄介なものですね。偶像にまで文句を言う時代ですよ。僕はそれが一番理解できません」

 

「偶像って?」


 

「たとえば夢の国のプリンセス達、アニメの登場人物です。

 リアルな生き物に対してのルッキズムはわからなくもありませんが。二次元の中にあるもの、現実とかけ離れた世界の人たち、憧れの対象……それは偶像です。恨みや嫉妬を抱く対象ではないんです。

 仏像や銅像と同じでしょう?わざわざ醜いものを偶像にして誰が喜ぶんです?空想の世界に現実持ち込むことがおかしいんですよ」


「確かにそうだ。綺麗なものに憧れて、見つめ続けて自分で努力して……本当に綺麗になる人だっているもんね」


  

「ええ、そうだと思います。人間の姿に関しては美醜なんか好みによるでしょう。その意識を統一化して、優劣をつける方がおかしいんですよ。

 見た目ではなく、心の中を見つめれば自ずと本当の姿形が浮かび上がる。

自分の心の汚さを見た目のせいにしたまま、何百年も怨念を抱くなど片腹痛い所業です」



 

 芦屋さんがくつくつと笑い、天井を見上げてそうだな、と呟いた。



 見た目に囚われてしまって本質を見られないなら、引っ叩いて正気にさせてやるつもりでいたんですが……そううまくはいかないだろう。

 芦屋さんでさえもご自身の見た目にはあまりいい印象がないくらいだから、難しい問題なのだとは思う。


 ここまで美しい女神様でも、自信がないなんて信じられませんけど。そこは美德ということにしておきましょう。



 


「伏見さんは胡散臭い雰囲気だったのにさ、いつの間にかポワポワ可愛い素直な神様になっちゃったな。だからあんな風に真っ直ぐ切り込んだんだ。

 大人の言葉で宥めてもよかっただろうに、同じ目線に立って自分を傷つけてまで明子さんを引っ叩いた。……大切に、思ってたんだろ」


「そうですね。白石程ではありませんが、僕の初めてを捧げた方ですから……それなりに思い入れはありますよ。

 優しくはできませんでしたが、僕はなりふり構わず汚い言葉を吐きました」


「思い入れがあるからこそ小細工しないでぶつかったんだな、そうかぁ……」




「人間の恋って本当にめんどくさい」

 

「お?……月読、聞いてたのか」


 ため息混じりに月読殿が参戦してきた。そういう貴方もなかなか面倒な恋愛してるじゃないですか?



「神様も面倒でしょう?」

「否定はしないよ、兄上もそうだし颯人も僕もそうだね」


「藪蛇突いてないのになんか胸が痛い。天照はさぁ……その、勘違いじゃなければ陽向のことが好きになってたりしない?何となくだけど」

 

「あれ……真幸くん気づいてたの?そうだよ、兄上も陽向くんも両片思いってやつ」


 


 ちょっと待ってください。と、とんでもない情報が出てきたのですが。え?あのお二人が……えっ??いつからですか!?


 

「伏見の顔がうるさい。いつからかはわかんないけどさ、二人でずーっと仕事してるでしょ?陽向くんは今や僕よりも兄上のサポートが上手くなってるよ。

 一緒に過ごす内、いつの間にか好きになってたんだと思う。僕もそうだったもん」

 

「あぁ……恋とはそういう物なのかもしれませんね。好意の一途はいつしかそれに辿り着くのでしょうか」

 

「そうだと思うよ。尊敬とか友情も育てば愛になる。僕は直人にたくさん質問して色んな答えをもらって勉強したけど、結局は自分の線引きでどうにでも変わるものだと思った。

 愛にも種類があるけど、それは自分で決める物なんだよ」


「全くの同意ですね」

「伏見も自分で線を引いたもんね」

 

「えぇ、月読殿のおっしゃる通りです」


 

 

「……ごめん、あのさ、ちょっと自分で言っておいてなんだけど衝撃を受けてる。陽向も天照が好きなの?」

 

「そうだよ、見ててわからない?」

 

「わからなくは、ないけど。まさかそんな事になってるとは思わなかった……マジか」


「真幸くんに言うつもりはなかったんだけどさぁ。話聞いててちょっとイラッとしたから言っちゃった」


「えぇ?なんでだよ」



 

「真幸くんは人の心の機微を整理したら、ちゃーんと自分に落とし込んでください。全部他人事じゃないんだからね。アップデートを怠らないで欲しい」

 

「ゔっ……」

 

「月読殿……鋭い切れ味の刃をお持ちですね?」

「伏見の話は結局のところ、自分の曖昧な過去に蹴りをつけたって事でしょ。遥か昔に残した禍根を抹殺して、彼女のために男らしく引導を渡したんだ。

 そして、そのやり方がキツかったと思っててもちゃんと心の整理がついてる」


「そうですね。僕は明子さんに容赦無く尋問できるでしょうし、する予定です」


  

「そう。その強さって真幸くんにも必要なんだよ。僕は、事件の順番が早く真幸くんの番になればいいと思った。

 伏見みたいにちゃんと区切りをつけるきっかけになる、と思ってるから。僕みたいなヤンデレになる前にそうして欲しいな」 


「……ぬ、ぬぅ」



 

「真幸くんは人の恋愛には敏感なのにさぁ。本当に……はー。でも、そこが好きなんだ。僕は自分のことだけ鈍チンな真幸くんが大好きで大好きで仕方ない。

 僕ね、直人と清音ちゃんの子供を予約したんだよ。でも……たとえ生まれたとしても、心の中では君を想い続ける。それをあの二人の子なら、分かってくれるんじゃないかと思うんだ」

 

「…………なるほど、その手がありましたか」

「伏見も真似していいよ」

 

「そうしましょう、とてもいいアイディアです」


 

 月読殿を真似て、芦屋さんに抱きつく。綺麗な鎖骨を指先でなぞり、額をくっつけた。


「……あれ、俺、もしかして置いてきぼりか?」

 

「ふふ、そうだね。真幸くんは鈍チンだから仕方ない」

「なんでだっ!?て言うか、予約したって何を?」


「ナイショ!」

「…………むーーー」




 芦屋さんが唸ったところで、ドアのノック音が響く。魚彦殿の気配だ。

おや?まだ点滴は終わっていませんが……。


「真幸、伏見の熱は共鳴りじゃ!鈴村も清音も熱がでとる!」


「えっ!嘘!?ちょ、とりあえず清音さんのところに……あれ、颯人ガチ寝してる?!」

「行ってらっしゃい。伏見と颯人は僕が見ておくよ」


「ごめん、月読……伏見さんも大人しく寝ててね」

 

「はい」


 


 ガバッと起き上がった芦屋さんは眉間を揉んで立ち上がり、浴衣を整えつつ部屋を出ていく。

 相変わらずフラグが仕事してませんねぇ……。次々とよくもこんなに事件の波が起こる物だと感心してしまう。


 

 布団の上に残った女神の熱に手を伸ばし、そっと触れる。

月読殿のようになれる日が、いつの日か来るとして。僕の女神はあなただけですよ。

 真似するのはそこだけです。他の女神はいらないので。


 


「伏見は頑固だな。……たまにはああやってくっつかないとダメだよ。ちゃんと心のエネルギーチャージしないと……僕みたいになるよ」

 

「ふふ、そう致します。でも……僕はこの想いが恋じゃない、と言い続けますよ。何と言っても芦屋さんが師匠なので」


「ヤレヤレ……本当にめんどくさいな」



 月読殿のつぶやきを噛み締め、僕は目を瞑って残された熱の上で体を丸めた。

 

 

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