58⭐︎追加新話 急転直下

伏見side


「おっ?おはよう。お前らも朝飯食いにきたのか。コーヒー持ってきたぜ」

 

「おはようさんどす。鬼一さん、気ぃ合うな。私はベーコンエッグ持ってきたで。アリスと作ったんや」

「わたしはちょっとだけですよ……」


「おはようございます。やれやれ……昨日の晩も芦屋さんのお家に居たのに、また集合ですか。

 僕は父が持ってきた京都のお豆腐パンを。今朝は洋食ですね」


「伏見さんも人の事言えんやろ。あそこのパン、私も好き!」

「豆腐なのに、パン??初めて聞きました」

「あれは地元の人しか知らんよ。アリスも真幸もきっと初めてやな」


「それは反応が楽しみですね。開けますよ」



 勝手知ったる芦屋さんのお部屋のドアを合鍵で開け、勝手に中に入って「お邪魔しまーす」と全員で声をそろえる。

 昨日の晩は日帰りの父を駅まで送り、遅くまで起きていたが……早朝に起きたのには訳がある。


 芦屋さんと朝ごはんを食べたいからです!


 リビングダイニングに持ち寄った食料を置きにいくと、部屋中にコーンスープの匂いが漂っていた。完璧なラインナップになりそうですね。



 

「――次はここにお塩を入れるんだ。三本指でつまんで……そうそう」

「できた!」

「とっても上手に出来たな。そしたら次はお砂糖を入れよう」

「えっ!お塩入れたのに?」


「うん。その方がうんと美味しくなるん。颯人が大好きなんだ」

「……ぐっ」

 

「颯人?なんでダメージ受けてんだ?」


「……き、気にするな。累、こぉんすぅぷは甘さとからさのはぁもにぃが良いのだ」

「からいのやだー」

 

「颯人、じゃ幼子はわからん。今風の言い方を教えたじゃろう」

「む、そうか。『あまじょっぱい』味なのだ。砂糖の甘さと塩のしょっぱさが味を引き立てる」

「ふぅん?両方が良いなんてハヤトはよくばりさんだね!」


「ぷふっ!確かに欲張りさんじゃのう。累はようわかっておる」

「ぬぅ…………」

 

「んふふ、累に突っ込まれちゃったな。そっちのサラダはできたか?」

「あぁ、我が手ずから整えてやった。さぞ美味になったろう」

「葉っぱをちぎっただけで大袈裟じゃのう」



 日差しが差し込む部屋に、穏やかな声とスープをかき混ぜる音が聞こえる。まさか……魚彦殿は分かるが、颯人様も料理を手伝っているんですか?


 


「あんなん新婚夫婦やんか。しかも子連れの」

「ひ、妃菜ちゃん!?それを言ったらダメなんじゃ……でも、確かにそう見えますね」

 

「やっと諦めたのか」

「鬼一さん、それとこれとは別やで。

 幸せそうやな、本当の家族みたい」


「もう、家族ですよ……あれは芦屋さんがずっと欲しがっていたものです」



 

 彼が僕の実家で泣いた時を思い出す。まだ全容は聞いていないが、彼が小さな頃から苦労をしてきたのは知っている。

 

 父は芦屋さんの過去を先日知った。内容を聞いても、何も教えてはくれなかった。

 ただ一言「芦屋さんが話せるようになるまで、待ってあげなさい」とだけ言われた。

 

 僕が専属のあずかりになった時、彼の過去は一度調査が入っている。そこから得られた情報よりさらに一歩踏み込んだ事実は不明のまま。

 彼の過去に思いを馳せると、僕の頭の中には芦屋さんが一人で暮らしていたアパートの様子が浮かぶ。


 

 彼が裏公務員になる前の住まいを知っているのは僕だけだ。突然転属が決まった彼の部屋から荷物を運び出したのは、伏見の隠密。報告のために記録された写真には……今では信じられないほど何もない部屋が写っていた。

 

 窓際にはカーテンも設置されていない。テーブルも椅子も、ベッドもなく、キッチンにはコップ一つだけ。

 長く使ったであろう薄い布団は床に敷きっぱなしで掛け布団は毛布のみ。厚い掛け布団も枕もなかった。

 

 当然掃除をする道具もなく部屋の隅には埃が溜まっていて、排水溝の掃除やぱっと見で見えない箇所は……手をつけられていなかった。


 

 

 芦屋さんは何も知らなかったんだ。小さな頃から遊び感覚でお手伝いをして、僕のように父や母から教わって自然に身につけていくものを。知らなければ調べる事すらできない何もかもを。 

 それ故に以前勤めていた課では『頭はいいが変わり者』と評されていた。


 

――『箸の持ち方がおかしいんだよ。フォークばっかり使ってた』

 

『何にも知らないのよねぇ、本当に。ゴミの出し方すらわからないのよ』

 

『精神的に不安定でね、訪問先でいきなりキレるから本当に困った人だったわ』

 

『あいつやべーっすよ、何にもないところを指さして、お化けがいる……とか突然言って。マジ無理』

 



 そんなふうに言っていた前部署の元同僚も、芦屋さんと言う人を知らなかっただけ。精神的に不安定だったのは、突然低級霊が見えるようになったからだった。


 彼の身のうちに宿る本当の優しさ、人を思いやるからこその厳しさ。何もかもを背負って自分の責任にしてしまうお人好しの気質、物事を調べ抜き学び、身につける貪欲さを……何も知らないからこそ、そんな口がきけるんだ。

 


  

 小学校に上がる直前に親を亡くし、施設の子達からお下がりで貰ったボロボロのランドセルで学校へ通い、中学は成績優秀で補助金を給付された記録があった。

 あれだけ知識欲があるのだから、初めて受けた教育に水を得た魚のようだったろうと想像がつく。


 高校へも当然進学が望まれたが、そうしなかった。義務教育の最低限をこなしただけで養育施設を出て、就職している。

 唯一の住まいだった養育施設が潰れてしまったから、放り出されたも同然の自立だった。

 

 中学生の頃と同じく助成金が出る可能性はあったが、それとは別に交通費が要る。国からの金では生活をするのが精一杯で、遠くにある進学校に通う術は持ち得ていなかっただろう。



  

 そんな芦屋さんは中卒でいくつかの職を転々とした後生命保険会社に勤め、会社の福利厚生で高卒の資格を取っている。そして最後に公務員の臨時試験に受かった。


 

 僕が当然のように授かった家族の愛も、学びも……何も受け取れないままで社会に出ていた事を、あのがらんどうの部屋が物語っている。

 

 彼がここに引っ越すときの荷物は、くたびれたワイシャツ、コップ、下着が数枚と自立できない程に使い古したランドセル。何度も何度も読み直しただろうボロボロの学校の教科書、たくさん使って、たくさん削って短くなって……どうやって使っていたのかわからない程小さな鉛筆の山だけだった。

 

 自分の置かれた環境の中で必死に生きてきたのだ、と荷物の中身を知ってそう思った。

 颯人様が彼の生活を一変させたが、それを受け取ってここまで努力したのは、彼の積み上げてきた過去も含まれてのことだ。



 

「あれっ?おはよー!みんなもう来てたのか。スープあるよ。パンでも焼こうかと思ってたんだが」

「朝から勢ぞろいだな……全く」

 

「おぉ?それぞれ何か持ち寄ったのじゃな。いい匂いじゃのう」


「せやで!美味しい卵使たんや!……アリスが割ったから殻が入ってたらごめんやけど」

「ウッ……スミマセン」

 

「殻なんてカルシウムだし食っちまえばいい。俺のコーヒー気に入ってたよな?今日は濃いめに淹れてきたぜ」


「おぉーー!みんなで持ってきてくれたのか。楽しみだな」


「おう」 

「ふふん、期待するとええで」

「妃菜ちゃんがお手伝いさせてくれて楽しかったです」


「そっかぁ……ほら、みんな座って座って。早速いただこう」 



 

 僕は目の前の光景に立ち尽くし、芦屋さんが動くのをひたすら見つめている。朝日をいっぱいに浴びて、仲間たちに柔らかく笑いかける彼を。ようやく得られた束の間の眩しい幸せを……。



「俺、パジャマのままだから着替えてくるね」

「い、いいです、そのままで!!たまにはいいでしょう、そんな風にしたって……」

「えっ?伏見さんなんで泣いてるの」


「ホンマや……めずらし」

「どうしたんだ?具合でも悪ぃのか?」

「は、ハンカチをどうぞ」


「ありがとう、ございます……」


 安倍さんに差し出されたハンカチを握り締め、瞼を閉じる。ツヤツヤで綺麗に磨かれた床に僕の雫が落ちて、ポタポタ音がした。

 お掃除も本当に上手になりましたね。


 

「伏見さん疲れてるのか?魚彦に治してもらう?こっちおいで」

「ぐすっ……だい、じょうぶです」

 

「昨日頑張りすぎたんだろ、無理しなくていいよ。一緒に座ろう、ソファーの方がいいか?」

「うぅ……芦屋さん……!!」

 

「ほぁ?!ど、どしたの?なんで抱きついてくるの!?ぐえっ!力強っ!!」



 僕よりも華奢な体を思い切り抱きしめると、腕の中で芦屋さんがびっくりしている。 

 出会った時よりも筋肉がついて、髪に艶があって……生き生きとした顔は、輝きに満ち溢れている。

――あの時とは、もう違うんだ。



 


「芦屋さん。あなたの今は、あなた自身が勝ち取ったんですよ」

「おん?……なーんか思い出してナーバスになった?」

 

「はい……」

「ふふ、どうせ俺のことだろ。伏見さんがこうなるのは大体そうだってわかったからな。よしよし、伏見さんはやさしいな……」

 

 背中をポンポン、と叩いて抱きしめ返してくれる芦屋さんがあたたかい。勝手に思い出して、勝手に感無量になってしまったのに何も聞かれず甘やかされている。情けないと思いつつも、離れるのが名残惜しい。



「小娘、あれはどう言う状況だ」

「……ウチらとは違うと思うけど。でも腹立つわ」

「同意だな」


「伏見さん、邪魔されないうちに座ろう。颯人の反対側な」

「ハイ」


 颯人様と鈴村がタッグを組む前に、手を引かれて朝食の席に着く。彼の隣に座り、僕は勝手に上がってくる口端を抑えきれない。



 

「ほんじゃ、いただきまーす」

「いただきます」

「累、パンはちぎって食べるんだぞ」

「はぁい!」


「むぅ、気に食わぬ……」

「どさくさに紛れて隣の席取られたやんか!」

 

「フン。たまにはいいでしょう」

「そないな事言うて、新幹線でずっとべったりしてたの忘れてん?」

「あれはあれ、これはこれです。」


「こらこら、喧嘩しないの。妃菜のおすすめ卵んまいなー。黄身の味が濃くてぷりぷりしてる。安倍さん、卵の殻はなさそうだぞ。上手に出来たね」

「そ、そう?……良かったわ」

「はい……!」

 

「鬼一さん、コーヒーの淹れ方上手いよな、俺が淹れるとこんな風にならないよ」

「おう……」


「伏見さんの持ってきてくれた豆腐パンも美味しいね。お豆腐が入ってるからしっとりしてる」

「はい……」


 

「朝ごはんから晩御飯まで仲間と一緒だなんて、幸せだなぁ。安倍さんも妃菜と仲良しになったみたいだね」

「はい!妃菜ちゃんが優しくしててくれるので……楽しいです!」


「そかそか、良かったな。今日の昼はみんなで作ろうか。この前もらった山菜が冷凍庫に山盛りでさ、天ぷら祭りでもしよう」

「それはよいな。蕎麦でも茹でるか」

 

「ワシはこの前食べた卵とじが欲しいのう。かつぶしをかけて、山菜がたっぷり入っておるのがとてもよい」

「じゃあお昼はそれで決まりだな!」


 


 芦屋さんが微笑むと、仲間たちに柔らかいものが伝わって広がる。毎日任務に明け暮れて疲れ果てていた彼の、束の間の休息にホッとしているのは僕らの方だ。

 

 鬼一も、鈴村も、ここに来たばかりの安倍さんまで顔がとろけている。

いつか、こんな毎日を過ごす時がきっとくる。皆で食事を共にして笑顔が溢れる日々が。


「いい子だなー、累。お野菜食べれるようになったなぁ」

「うん!美味しいよ!」

「そうかぁ、良かった良かった。とっても良い子の累にはデザートが…………」


 


 何かを言いかけた芦屋さんが急に立ち上がり、目線を漂わせる。沈黙を抱えて、顔色がどんどん悪くなっていく。


「芦屋さん、どうしました?」

「嘘だろ……まだ、まだ一年も経ってないのに」


 芦屋さんがテーブルの上で手のひらを握り締め、それが震えだす。

一体何が起きたんだ。



「き……鬼一さん、いや、妃菜。累を頼む」

「どないしたんや?ええけど」

「颯人!」

「応」


 累さんを鈴村に預け、颯人様と芦屋さんが走ってリビングを出ていく。

魚彦殿が陰鬱な顔をして、僕を見上げてくる。



「緊急を報せる結界が破れた。奥多摩へ行かねばならぬ」

「奥多摩……ハッ!姫巫女ですか?」

「そうじゃ。……護衛に鬼一、伏見がついとくれ。真幸がワシらを顕現させていられるか、正直わからぬからの」


 わずかな沈黙の後、全員が一斉に動きだす。



 一瞬の間に崩れ去った幸せなひととき。その残滓を握りしめて、僕もリビングを飛び出した。


 ━━━━━━


 

「姫巫女様は、こちらにおわします。私どもは麓の館に詰めておりますので、ごゆっくりお話しください。最期の付き添いは、あなたにお願いしたいとのお言葉でした」

「……はい」


 

 僕達は奥多摩の『灯火の館』へ転移術でやって来た。姫巫女……咲陽さやさんは突然具合が悪くなり、今日明日が峠と言われている。

 彼女の寿命は後二年ほどと聞いていたが、いつこうなってもおかしくはない難病だ。颯人様も魚彦殿も芦屋さんと同じく険しい顔をしていた。


 

咲陽さや、入るよ」

「……」

「咲陽?……咲陽!!」


 声をかけても返答がなく、慌てて障子戸を開ける。

 布団の上で起き上がり、ノートパソコンを打ち込んでいた少女が目線を上げた。


 

「おぉ?真幸じゃ!すまんな、耳が遠いのじゃよ。元気じゃったか?」 

「さ、咲陽?具体悪いんじゃないのか……?何でパソコンなんかやってるんだよ。て言うか、なんでこんな所に?」



 畳を数枚持ち込んで、その上に布団を敷いて簡易的に病床としているようだ。病院ではないから点滴も、心電図も何もついていない。それに、ここは……。




「妾が死んだ後の事をな、ちゃーんと書いておかねばならんじゃろ?筆を持てずパソコンを使っておる。死んだら真幸に送ってもらうに、ここに居れば手間がかからんじゃろう。

 妾の始まり、そして終わりを迎えるは村の守り神が住まう社。かっこいいと思わぬか?」

「うん、凄くかっこいいな……」


 咲陽さんの枕元に静かに座し、魚彦殿が声をかけて彼女の手を取る。

 頰がこけて血色の悪い顔を眺め、脈を測って、芦屋さんに向かって首を振った。奥歯を噛み締める音がギシリ、と聞こえる。



 

「お主、医術の神なのか?」

「一応な。ワシは魚彦、神名はスクナビコナじゃよ」

「おお、知っておるぞ!また稀有な神様を迎えたものじゃ。颯人殿が誰かも分かったし……古事記は大変面白かった」

 

「そっか。咲陽、横にならなくて良いのか?顔色が良くないよ」 

「大丈夫じゃよ。それに、残された時が僅かじゃ。残す者たちのために、まとめておかねばならぬ記録があってな」

 

「それなら俺も手伝う。颯人」

「応」


 芦屋さんがパソコンに打ち込むのを引き受け、颯人様が咲陽さんを背中から抱えて支えになった。

 なるほど、効率アップですね。



「咲陽、痛みがあるだろ、薬は飲んだか?」

「あぁ、あれは眠たくなるでな。最後の慰めとして頂くおとやらは頭がぼーっとするし、お断り申し上げた」

 

「わかった。魚彦、頼む」

「応。姫巫女よ、ワシが痛みを抑えて進ぜよう。乙女に何度も触れて申し訳ない」

 

「魚彦殿はお医者さんなのじゃから許す。ありがたいことじゃ」

 

「よし、じゃあ始めよう。――ここからだな、商品の流通について」

「あいわかった。現在特産物として……」

 

 咲陽さんが記録したい内容を話し、芦屋さんがそれをパソコンに打ち込む。

時々掠れる声、漏れる吐息。医師でなくともわかる。彼女は気力だけで今、起き上がっているのだと。



 

「伏見、外で結界を張ってくる。変なものが寄ってこないようにしてやりてぇ」

「えぇ、僕もやりましょう」



 二人で静かに立ち上がり、社の外へ出た。この村は、山頂に土地神の社を構え、そこから見渡す限りが野菜畑になっている。

 長閑で暖かい気候は、天変地異がまだ残っていることを示していた。この気候があるからこそ、畑の作物はたくさん実っているのだろう。



「結界は必要ねぇかな。ここにゃなんの恨みも、穢れもねぇ」

「えぇ。鬼一、見てください。空に星が沢山……あんなに見えるものなんですね」

「うぉ、すげぇな……」


 


 すっかり黒く染まった夜空には、満点の星々が無数に輝いている。故郷でもここまでの星の数は見えない。都会の灯りが届かない場所だからこその天文ショーだ。


「……今日逝くのは間違いねぇな」

「えぇ。星を見る限りでは、そうなります」

「お嬢ちゃんには悪いが、俺ぁ真幸が心配だ。あいつ、本人より顔が白くなってやがる」

「……そうですね」



 社のそばに落ちた枝を拾い、社の入り口前に突き刺し、そこに札を貼る。狐を喚び、異変の感知を任せる事にした。

 他に、何かできることはないだろうか。


 

「地力を集めりゃお嬢ちゃんは朝まで持つかもしれんが、野菜が枯れる。どうしたもんか」

「……灯火の館の方々は皆さんでご祈祷されていらっしゃいます。それで十分助けになるでしょう。先導者もいますから」

 

「あぁ……そういや真幸の知り合いが来てるって言ってたな。坊主の知り合いなんかいつ出来たんだ?」

「山菜をよく頂く方ですよ、坊主と言って良いのかわかりませんが」

 

「??頭丸めて、袈裟を着てるのに坊主じゃねぇのか?」

「まぁ色々あるんですよ、彼にも」




 そう、浄真殿が栃木から先導者として灯火の館にやって来てくださった。

 『最期の時をどう過ごしたらよいかわからない』と混乱される村の方と語り合い、祈りを教えている最中だ。

 

 彼がわざわざやって来たのを見て、心底驚きましたよ。優しげな笑顔を浮かべていたのにも。鬼軍曹だった人のあんな顔は、初めて見ましたから。


 灯火の館からは灯りが見える。ほのかな光は蝋燭の火だ。一つ一つが小さくともそれらが集まり、赤く燃えた炎の集団は山の上から見ても暖かなものに見えた。




「伏見……」

「颯人様、どうされましたか?」

「あぁ、いや。何も起きてはおらぬ。記録のまとめが終わり、姫巫女はしばし眠っている」


 颯人様が社から外に出て来て、階段に腰掛ける。なんとなくそれを真似て、僕と鬼一も横に並んだ。



「姫巫女に宿ったカマイタチは真幸に勾玉を預け、引き継いだ」

「そうでしたか。ここの守りは山神がされるのですか?」

 

「あぁ。真幸が神起こしを行う。……天変地異は残さねばならぬ故、そなたたちも力を貸してくれ。複雑な術式となろう」

「かしこまりました。芦屋さんは大丈夫そうですか?」


「………………」



  

 やや気落ちした様子だった颯人様は俯いて、長い髪の中に顔を隠す。

膝の上に置かれた手のひらが……わずかに震えている。


  

「颯人様……どうなさったんですか」

 

「伏見は、分かっているだろう。真幸がどうやって生きて来たのかを。一部は知らぬとしても、そなたの隠密が荷物を運んだのだ」

「えぇ、そうですが」


「我は、恐ろしい。真幸は其方の思う通り何もかもを知らずに生きて来た。あれが人の死を見るのは初めてではない。

 だが……懇意にして居た者が、心を交わした友が亡くなるのは初めてなのだ。どれほど傷ついてしまうのか、計り知れぬ」


 はっと息を呑み、颯人様の言葉の意味を受け止める。



「真幸は、その……神隠しの神の時も看取っていましたよね」

 

「あれは違う。慈しみと友愛は別物だ。特に姫巫女には思い入れが強い。

 ここに訪れてから、一日として便りを欠かした事はない。疲れて寝入っていても日の変わる頃に必ず起き出して手紙を書き、霊鳥を飛ばしていた。最早友とは呼べぬ、姉妹のように仲が良いのだぞ」

 

「……そうだったんですね」




 颯人様がここまで動揺するとは思わなかった。あの顰め面は本気だったんだろう。

 彼自身もまた、芦屋さんと共に特別な思いを抱いていたと分かる。

元々情が深すぎるほどの神様だ、こうなってもおかしくはない。



「真幸に何を言えば良い。心で泣いて、顔は笑って。姫巫女の痩せた手を握って寄り添っている。

 心が閉じ切って、何も見えぬのだ。こんな事は今まで一度もなかった」

 

「……」

 

「支えたい、守りたいと思いながら我は何もしてやれぬ。歯痒くて仕方ない」




 自信満々で、いつも悠々としている颯人様は芦屋さんの事になるとこうなるのだろう。うちの大社で神降しをされて、攫われやしないかとヤキモキしていた時もこんな表情だった。


 

「これは……芦屋さん自身が颯人様にでさえ共有したくない、自分自身の中で治めたいとお考えなんでしょう。

 頑固なところがありますからね」

 

「…………」

 

「姫巫女の死は確かに芦屋さんに傷を与えるでしょうね、彼は身の内に入れた人間を殊更大切にされますから。

 しかし、颯人様にしかできない事がありますよ」



 漸く顔を上げた彼の漆黒の瞳が揺らぐ。大きな目いっぱいに雫を貯めて、今にも溢れてしまいそうだ。


 


「お傍にいて差し上げてください。芦屋さんが『たった一人のバディ』と認めた方なんですから。

 芦屋さんが意固地になって泣けないなら代わりに泣き、怒れないなら代わりに怒り、何もかもを分け合う事ができる。

 修行中の僕たちにはまだ、できない事です」

 

「……」


「しかも、あなたは既にそうされていたでしょう。僕は知っていますよ、芦屋さんとあなたが過ごして来た日々を。

 彼が抱えた傷を一つ一つ丁寧に癒やし、生活の全てを教えた事を」

 

「伏見がそう言ってくれるのなら、我はきちんと出来ていたのだろうか。自信がない」



 鬼一が目を見開いて、心底驚いた顔をしている。僕も同じ気持ちだ。まさか、颯人様がそんな事を言うなんて。


 


「伴侶もお子様もいらっしゃったでしょう……どうされたんですか……」

「我は、さいに対しても、子に対してもあのように触れた事はない。共寝もせぬし、子育ても折々に触れるのみだ。風習とでも言うのか、それが常だった」


 なるほど、確かにそうでした。昔の人はあんな風に四六時中イチャイチャしてませんもんね。


 


「それにしちゃ自然だったと思いますが。颯人様の由来を考えたら経験があったのかと思いました」

 

「ない。考える前に手が出る。口を出してしまう。

 あれが動くたびに目が勝手に追い、何もかもに触れたいのだ。箸の上げ下げから、生活の全てに於いて関わったのは初めてだった」


「「…………」」



 

 流石に顔が熱いのですが。盛大に惚気られている気がする。最早恋バナですよね、これ。

気持ちはわかりますよ。僕がもし神で、芦屋さんに降りたとしたら同じようにして関わっていただろうと思う。

よし、ここは人間のバディである僕が背中を押してあげましょう。


 

「ならば今まで通りにされてください。芦屋さんの今は颯人様と共にあるんです。

 頑固な心の中を暴けるのはあなただけです。それを許されているのも颯人様だけですから」



 颯人様は僅かに唇を噛み締め、僕の言葉を咀嚼して飲み込む。そして、うん、と深く頷いた。

 

 

「伏見の言う通りだな……真幸を支えるのはバディたる我の使命だ。我自身の望みなのだ」



 すっくと立ち上がった颯人様は満天の星を抱えた空を見上げ、そこに浮かぶ白い月を見つめている。

 まるで、芦屋さんを見ているかのように……優しい色の瞳で。


 

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