第4話 オーバードーツ出身の教育係を任される

 この頃は、素人である筈の有名人の家族にまで、脅迫が及ぶという。

 ある元政治家のもとには「お前の家族に硫酸をかけるぞ」という脅しの手紙がきたが、警察に通報することで解決した。

 しかし、有名人は名誉と脅迫と挫折とが、紙一重の背中合わせになっていることを、私は松前の件を通じて、痛感させられた。


 私の手紙が功を奏したのだろうか?

 坂元ゆうじに対するスキャンダルは潜めつつあり、それに比例して松前ひできに対する悪者扱いのバッシングも薄れつつあった。

 週刊誌の記事をうのみにすると、まるで松前ひできは坂元ゆうじの好みの女性御用達のように掲載されている。しかし、それは白熱したスキャンダルのみであり、そこにはなんの証拠もない。デマが炎上したのと同じである。

 坂元ゆうじの関係者の間では、いろんな意見が飛び交っているが、どれも信憑性がない。

 ある女性は、女性に関しては不器用な遊び下手と批判し、また坂元ゆうじに世話になったタレントは、口を揃えて、坂元ゆうじを「悪辣なことのできる人ではない」と援護する。 

 マスコミが証拠のないことをいくら騒ぎ立てても、いつかは読者に飽きられてしまうのがオチである。


 私が手紙を、出版社に郵送してから一週間たった。

 幸いにも、私の身の安全は守られいる最中である。

 私は今、松前と出会ったカフェで主任に昇格した。

 まあ、勤務歴三年を過ぎているから、当然といえば当然でもあるが。


 そんな時、オーナー男性から呼び出された。

「君に新人教育をしてもらいたいんだ。

 今度入店してくる子は、いわゆるオーバードーツ気味の子でね、少し覚えが悪かったり、礼儀作法が身についてなかったりする。

 実は、僕の親戚にあたる子なんだけどね、よろしく頼むよ。

 あっ、年齢は二十歳になったばかりだよ」

 えっ、オーバードーツというと、麻薬中毒とまではいかないが、いわゆる脳に多少の障害がでてしまう。

 私は失礼を承知で、オーナーに聞いてみた。

「あのう、これは私の見聞上でしかないのですが、男性よりも女性の方が脳に回るのは、早いといいますね。

 職場で奇声を発したり、仕事仲間に対してバカとかあほとかといって、喧嘩を売ってきたり、そのくせ2キロ以上のものは持ち上げることはできないほど、体力がなかったりするといいますね。

 私で大丈夫でしょうか?」

 オーナーは感心したように答えた。

「君の話は、オーバードーツから生じた脳障害のことだね。

 たしかに、オーバードーツから始まって麻薬中毒や売春に走るケースがある。

 しかし、僕の親戚はまだそこまでの重症ではなく、初期の段階である。

 だから今のうちに、社会経験をさせたいと思っているんだ。

 といっても、接客は難しいので、初めは掃除から頼むよ」

 私は、断る権利などなかったので、黙ってオーナーの申し出を引き受けるしかなかった。

 オーナーは、半ば安心したように「よろしく頼むよ」と言い残して、背中を向けた。その背中には、不安と淋しさが漂っていた。


 翌日、オーナーが朝礼のとき、親戚の女性を紹介した。

「初めまして。私は橋本ゆりといいます。

 今日からお世話になりますので、よろしくご指導願います」

 オーナーの親戚だから、苗字は違うが、いかにもそう言わされたという感じがする。多分、今までの人生のなかで、礼儀作法もろくに教育されていなかったのだろう。

 少々太り気味で、耳にはピアスの開け跡が三か所ほど見られる。

 しかし、凶暴性はないようであるのが、唯一の救いである。

 オーナーが初期の段階というのは、まさに当っている。


 私はオーナーの指示通り、橋本ゆりに開店前の掃除を教えようとした。

 開店前の二十分に来て、床掃除と拭き掃除をするのだった。

 ところが、驚くべきことが起った。

 なんと橋本ゆりは、私にほうきを渡して「あんた、ここ掃いて」と、床を指さしたのだ。

 私は呆れるのを通り越して、思わずポカンとした。仮にも先輩に向かって、発する言葉だろうか?

 まるで、オーナーが使用者に対する指示と同じではないか?

 私は橋本ゆりの、子分になれというのだろうか?

 いくら、橋本ゆりがオーナーの親戚でも、これは無理な相談である。

 が、私は橋本ゆりに、若干の興味を抱き始めていた。

 ゆりのような人は、初めてのパターンである。

 しかし、私がどこまでゆりを教育していくことができるか、自分を試してみたいというアドベンチャー精神が湧き始めていた。


「私は、オーナーからあなたの教育係を任されているの。

 だから言うけどね、先輩に向かって『ここ掃いて』はないでしょう。

 自分で掃きなさい」

 ゆりは、うつむきながらすごすごと、床を掃き始めた。

 隅々まで、きれいに掃いたのを見て、ゆりは掃除はできる人だな。これからは、掃除専門を任そうと思った。

 と同時に、もしかしてゆりは少年院出身ではないかという疑問が湧いた。

 少年院では、掃除を徹底的に仕込まれるという。

 もちろんこの疑問(?!)いや疑惑は、私の胸にだけしまっておいた。


 ゆりは、確かに掃除は一人前にこなす。

 しかし、言葉遣いは滅茶苦茶であり、やはり敬語の使い方すらもわかっていないようである。

 ゆりの方から提案があった。

「ねえ、あんた、私、専用洗剤を作ってるの。今度、それを持ってくるね」

 私はまた、言葉遣いからゆりを教育せざると得ない。

「あんたじゃないの。松木さんと呼んでよ。

 私はあなたの先輩であり、オーナーから教育係を任されているのだから」

 ゆりはまた、無言になった。

 いけない。言い過ぎたかな?

 オーバードーツはときには、無言になり引きこもることも有り得る。

 まあ今のZ世代は、叱られてなれていないというから、あくまでも丁重に接するべきである。

 私は、あくまでポジティブに

「へえ、専用洗剤までつくってるの。すごいなあ。

 どういうものなのか、教えてくれないかな」

とゆりを持ち上げた。

「はい、松木さん。私特製の専用洗剤を、紹介しまーす。

 まず、粉末の漂白剤と重曹とを混ぜたものを、つくっておくの。

 それを洗濯用洗剤と酢に混ぜるだけなの。

 でも、この洗剤、お風呂のタイルにたわしで染み込ませ、放ったらかしにしておくだけで、黒いタイルが白くなるのよ」

 私は思わず感心した。

「なるほど。私もさっそく試してみようかな」

 ゆりは、私のポジティブな態度に、希望を見出したらしく、微笑みを浮かべた。

 これも教育のひとつ。

 本来の教育とは、学校の勉強だけではない筈だ。

 偏差値なんて、教育の一環でしかない。

 オーバードーツ出身という暗闇にうずくまっている人に、一筋の希望の光を与えることこそが、教育ではないだろうか。

 私は徳を積んだような気がした。

 ある有名占い師曰く

「金を積むより徳を積め。積んだ金は、自分が使うか、人から奪われるか、税金として国家に渡す結果になる。

 一瞬にして奪い去られることさえもある。

 しかし、積んだ徳は神様が見て下さり、天国への道筋となる」

とあるが、まさにその通りかもしれない。


 ゆりには、掃除ができるという長所もある。

 しかし、オーバードーツ出身者というだけで、偏見の色眼鏡で見られる。

 そのいいところを、引き出していくべきではないか、そうすると、ゆり自身にも社会にも貢献することができる筈だ。

 私は暗闇の向こうから、一筋の光が見えてきたような希望を感じた。


 一週間後、オーナーに呼ばれた。

「どう? 橋本ゆりはちゃんとやってる?」

 私は答えた。

「はい。橋本さんは、掃除はちゃんとこなしています。

 この調子で、コツコツと継続してほしいです」

 オーナーが言った。

「実はね、ゆりはなぜかあなたになついてね、あなたとならば、生きていけそうなんて流行歌のセリフみたいなことを言ってるんだよ。アッハッハー」

 オーナーが、急に十年以上も昔の流行歌の一節を歌い出したので、私もつられて笑ってしまった。

 オーナーは、あくまでゆりに希望的観測を抱いているらしい。

 ということは、ゆりは昔はいい子だったに違いない。

「ゆりはね、昔は医者に憧れていた秀才だったんだよ。

 ただ、ひとりぼっちが嫌でね、友達に誘われてオーバードーツになってしまったんだ。まあ、ゆりを放ったらかしにした、両親のせいでもあるがね」

 あーあ、昔からよくあるパターンである。

 家庭がうまくいかない子は、最初はシンナーに走り、そして悪友の影響で薬物へとはまっていく。

 しかし、この際、過去の事情などいってられないし、同情する気にもならない。

 私は、これから一週間、ゆりに掃除を任せることにした。


 ゆりが入店してから三日後のことだった。

「松木先輩、ここだけの話だけどね、私、松前ひできから飲み会に誘われてるんですよ。しかし、どうしてまたよりによって、私のような子を誘ったんでしょうかね。

 エッチ目的だったりして」

 私は思わず耳を疑った。

 松前ひできといえば、昔の恋人未満友達以上の私にとっては、忘れられない男性である。

 私は思わず、平常を装って尋ねた。

「松前ひできといえば、今、坂元ゆうじの飲み会に女性をあてがったなどという週刊誌ネタになっているあの松前ひできのこと?」

 ゆりは答えた。

「ピンポーン。まさにビンゴです。でも、私から見て、松前さんって決して悪い人物には見えないんですよ。

 愛想がよくて、私の話をじいっと聞いてくれて。

 情にほだされやすい人情家じゃないかな。まあ社交的な人情家ほど、悪用されるといいますがね」

 確かにそうだ。松前は人情の機微を心得ていて、人のふところに入り込み、いつしか、松前には本音を話してしまいたくなるという人懐こさがある。

 私は、思わずある提案がひらめいた。

「橋本さん、その飲み会、私も参加していいかな?」

 ゆりは喜んで言った。

「そうして頂ければありがたいです。

 最初にお話ししますね。私が松前ひできと知り合ったのは、松前ひできの高校時代のクラスメートと友達だったからです。

 私、こう見えても進学校にいて、医学部を目指していたこともあったんですよ」

 オーナーから聞いていた通りである。

 ゆりは話を続けた

「私、お酒は全くといいほど飲めないんです。といっても、飲み会にウーロン茶では白けてしまいそうでしょう。だから、松木先輩にご一緒してほしいです。

 松木先輩って、しゃべりがうまそうだし」

 あっ、このセリフ、二年前に松前に言われたことと同じである。

 


 








 



 


 


 

 

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