第3話 松前はスター街道の途中で罠にかけられようとしている
浜田たけしとペアになって舞台に出演し始めてから、二年もたった頃だろうか。
松前は、スター街道を快進撃で突っ走ろうとしている。
師匠の浜田たけしは、松前の活躍ぶりを嬉しいと同時に、少々不安に思っていた。
ある日、松前を呼び出して言った。
「俺はもう年齢的に五十歳半ばだ。そろそろ別のことを考えて始めている。
お前はまだ二十四歳。これからはお笑いの世界だけでなく、司会の勉強もした方がいい」
この頃から、浜田たけしは家族とは別居を始めた。
子供は女房に任せっきりで、給料の八割を渡すという。
会うのは月に一度だけ。
このときだけは、女房は浜田の好みの特製ポテトサラダをつくり、和服をきて
頭を床にこすりつけ「ようこそ、お帰り頂きました」と出迎えるという。
ちなみに、浜田好みの特製ポテトサラダは、リンゴの薄切りとセロリのすりおろしが入っており、マヨネーズの代わりにクリームチーズとポン酢で味付けしているという。
浜田は職業上、高血圧がひどくなっているので、うす味を心掛けており、かつおと昆布のだし汁を使うという。
松前は、さっそく師匠浜田たけしの助言に従い、司会の勉強を始めた。
といっても、誰かに教わるわけではなく、先輩諸氏方の番組を見て、自分なりに自分に合う司会のパターンを、研究していった。
浜田たけしのように、新聞を五紙熟読し、わからない語句はすぐ調べ、報道番組も最新ドラマも、研究した。
自分でも博識になったことを自覚している。
松前は、浜田たけしの言いつけ通り、つきあい程度で酒は飲むが、ギャンブルは一切しなかった。
お笑い芸人は、本番前に賭けトランプをする習慣がある。
浜田たけしの時代は、わざと自分が負けて、先輩方に花を持たせるという習慣があったが、今はもうそういった時代ではない。
むしろ、いかにも見え透いたわざとらしいご機嫌とりを嫌がる大御所さえもいるくらいである。
松前と会えなくなって、二年の月日が過ぎようとしていた。
松前は、もう私とはすっかり別世界の人でしかない。
私は松前の活躍ぶりを、陰で応援するばかりである。
そんなとき、初めて松前のスキャンダルが週刊誌を賑わわせた。
松前の共演者かつ先輩の命令で、松前がハニートラップに加わっていたという内容である。
週刊誌の内容によると、松前は先輩であり共演者である、大御所坂元ゆうじに好みの女性を探し出してきて、あてがったというのである。
といっても、このことは五年前のことであり、坂元ゆうじはその頃はまだ、独身だったので、不倫にはならない。
確かに、坂元ゆうじと松前との好みは似通っていた。
一、黒髪であり、パーマネントをしていないこと。
一、目が大きな童顔
一、いかにも初々しい感じがして、すれたところが全くない。
一、指が細く長い
あっ、この四項目は私にも十分当てはまることよね。
まあ、もっとも私の場合は、髪質が太いので、パーマをあてたら髪が広がってしまうという不都合な事情もあるが。
ということは、私と似たようなタイプが、松前のみならず、坂元ゆうじの好みでもあるということだ。
松前は、確かにそういったタイプの女性を坂元ゆうじに紹介した。
しかし、それはあくまでお見合いのようなもので、それから後の関係は、坂元ゆうじとその女性が決めることである。
紹介者である松前には、そう責任がない筈である。
それに、坂元ゆうじは、松前のみならず、師匠である浜田たけしの先輩であり、昔は、公私共に世話になった仲である。
むげに断るわけにはいかない。
それにしても、世の中のモラルの変化のスピードは速い。
二十年前までは、漫才で本妻のほかに、港に女ありの如く、愛人が三人ほどいるということが、爆笑のネタになった時代でもある。
それが現代は、モラルに反するけしからんこととして世間に蔓延している。
これでは、松前はモラルに反することをして、坂元ゆうじをはめた悪の根源のようになってしまう。
松前が、諸悪の根源なんてとんでもない話である。
私の知っている、いや過去に知っていた松前は、お人よし的な部分もなり、決して人を悪に陥れたりしない善人だった。
まあ、お笑い芸人は、人を騙すというよりも騙されることが多いというが、松前とてその例外ではない。
それに、松前が悪者扱いされると、師匠の浜田たけしまでが悪者になってしまう。
そうすると、下手すると芸能界追放になりかねない。
これで、五年にわたる松前の努力が、水の泡と化してしまう。
こんなことは、許されないし、放っておくわけにはいかない。
マスメディアというのは、黙っていればいるほど、ますます悪者扱いされてしまう。
私は策を講じることにした。
私は週刊誌宛てに、手紙と同内容のラインを送った。
ラインだけだと、筆跡が確かでないので、信憑性に薄い。
デマだと解釈されれば、それまでである。
「私は、松前ひできの元友人です。といっても、決して恋人ではありません。
私の知っている松前ひできは、坂元ゆうじ氏に頼まれて、半ば強制的に女性を紹介しただけで、決して坂元氏を陥れようなんて魂胆はなかったはずです。
紹介というのは、お見合いと同じで、その後の関係については、当人同士が決めることです。
これでは松前が、まるでハニートラップの主謀者のようになってしまいますので、想像だけで勝手なデマを報道するのは、やめて下さい」
稚拙な文章であることは、自分でもわかっている。
しかし、私は自分の思いを伝えずにはおれなかった。
マスメディアは、有名になればなるほど、悪者扱いしようとする。
三回持ち上げておいて、四回目にはドーンと落とそうとする。
松前を、そんなマスメディアの犠牲にさせるわけにはいかない。
もちろん、私は本名で宛名を明示した。
このことで、私がマスメディアの餌食になるかもしれない。
それでもいい。愛する人ーといっても恋人ではないがーを守るためには、その手段しかない。
また、世の中にマスメディアによるウソの報道を信じ込む人がいないためにも、私が犠牲の小羊になる必要がある。
ウソはいずれは露見するが、その間に松前は芸能界から消され、新しいタレントが登場することになる。
そんなことが、許される筈がない。
神様、どうか松前と私をお守り下さい。アーメン
私は、週刊誌にこの自筆の手紙を郵送してから、毎日が祈るような気持ちでいた。
いつしか私のなかには、わがまま勝手やなにかを欲しがる気持ちは消え、神の前では謙虚な気分になっていった。
もしかして、神様は松前を通じて、私に信仰を与えて下さったのだろうか?
そうであれば、私の願いも聞いてくれる筈である。
今や松前は、週刊誌のみならずネット記事では、すっかり悪者扱いである。
単なる憶測で、事実無根のことまで付け加えられているが、このことを本気にして信じ込む人がいれば、恐ろしい結果となる。
万年二流コメディアンどまりの乏しい才能の松前ひできが、大御所坂元ゆうじの足を引っ張り、陥れるのが目的で、坂元ゆうじの好みの女性を探し出してきて、紹介した。
このこと自体は、別に法律違反でも、犯罪でもない。
しかし、坂元ゆうじは非常に手が早く、セックスまで持ち込むのを承知の上で、ハニートラップまがいのことをやらかした、悪の張本人が松前ひできである。
そして、その女性も実は松前が事前に金銭を渡し、坂元ゆうじに逆らわないように教育したのだと、まことしやかに書かれている。
ゲスの勘繰りなのか、まるで、松前ひできが売春あっせんと同じように報道されている。
噂はいったん活字になると、光の速さで広がる。
ましてや、有名になればなるほど、事実に尾ひれがつくという以上に、根本から悪者扱いされ、気がついたときには、もう弁明の余地がないほどになっている。
また有名女性大御所までが、あらぬことをコメントし始めた。
「私は、松前さんと仕事でご一緒させて頂きましたが、非常に低姿勢で人を手づけるのがうまい人でした。この調子で、いろんな人を味方に引き入れ、子分にしていったんですね」
まあ、週刊誌というのは実際のインタビューとは違ったことを、平気で記事にするのであるが、そのあとの責任など一切考えていないのが現状である。
まだネット記事だと、著名がない限り、誰が書いたのかわからない単なるデマか都市伝説で済ませられるが、週刊誌の場合は、会社名が明示されているので、そういうわけにはいかない。
もう、猶予期間など与えられていない。
私が松前ひできのスキャンダルの拡大を、食い止めなければならない。
いや、このことは素人である私だからできることである。
芸能関係者は、誰しもが自己保身しか考えておらず、松前の形勢が不利になると、今までの取り巻きが、まるで潮が引いたようにサーッと去っていく。
もしかして、松前の師匠である浜田たけしまでも、そのうちの一人になってしまうかもしれない。
私の願いがきかれるときが、訪れた。
二週間後の週刊誌では、早速「松前を援護する素人女性からの謎の絶叫」というタイトルが発表された。
デビュー前の松前は、私と手をつなぐ程度の付き合いであり、とうていハニートラップなどできる度胸のある男性ではないという事実、また松前は、大御所であり師匠の先輩でもある、坂元ゆうじに逆らうことのできない立場だったので、ただ女性を紹介したにすぎないという事実が報道されていた。
ただし、私の名前は伏せられていた。
このことは、松前のスキャンダルを食い止め、軌道修正させる役割を果たすに違いない。私はそう信じていた。
この日から、私は神に熱心に祈り始めた。
こんなに、真剣勝負のように熱心に祈ったのは、初めてのことだった。
天にまします我らの父よ。
どうか松前さんを悪者扱いするマスコミからお守り下さい。
イエスキリストの名において祈ります。
アーメン
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