第19話 汚染物質の浮かぶ水に落ちて死ぬ夢

 中学生くらいの頃の悪夢です。


 夢は町が大洪水に襲われるところから始まります。私たち家族は、自宅のベランダに取り残されていました。妹二人は存在しない設定になっています。室内は汚水で満たされており、ベランダの外もすでに建物の2階辺りまでは水没。見渡す限り海のようになっています。


 そして、ところどころに直径2メートルくらいの真っ黒な球体が浮かんでいます。この球体が汚染物質を吐き出し、水を汚染しているのです。


 この時の私は既にこちらが夢であると自覚しています。ですが、すぐに夢を終わらせようとはしません。悪夢に対する恐怖心が薄れた今、無暗に目覚めるよりも、目覚めずに対処できればそれが一番だからです。


 当時は金縛りの破り方と同時に、もうひとつ研究していることがありました。それは「夢の内容を書き換えること」です。夢と分かっていても、悪夢が連続するのは不愉快なもの。しかしその悪夢自体を操ることができれば、全ての問題が軽決します。極めて重要な研究です。


「何よこれ、紐かしら」


 母は目の前に現れたものを指さして言います。まるで未知のものを見るかのような言い方ですが、どこからどう見ても紐です。よくプールの天井にある、三角形の旗が並んだあの紐です。正式名称は「背泳ぎ用標識」というそうです。


 その背泳ぎ用標識が、蜘蛛の糸のように垂れ下がってきました。皆で空を見上げますが、紐はどこか見えないほど高いところから垂れているようです。この紐を上ることでこの悪夢から抜け出せるのならいいですが、残念ながらそうはいきません。


「7階とかから偶然その辺に降りてきたのかな」


 父は真剣な顔でいいますが、そんなわけはありません。単なる記憶の整理に過ぎないはずの夢が、なぜこのような愚かなストーリーになるのか疑問に思います。


「よし、これで向こう岸に行こう」


 父がベランダの腰壁を乗り越え、紐に飛びつきました。とんでもない身体能力です。そしてターザンロープのような要領で、向こうの屋根に飛び移ります。


「さあ、次はあなたの番よ」


 いつの間にか向こうに渡っていた母が、私に対してそう言いました。しかし、これは悪夢です。この後どうなるかなど、推察に難くはない。私は夢に逆らえず、紐に飛びつきます。


「どうせこの球の上で紐が切れるんだろうな」


 そう思った瞬間、案の定、汚染物質を吐き出す球体の上で紐が切れました。私がそう思ったからなのか、始めから決まっていたことなのかは不明ですが、私の体は落下していきます。


 走馬灯のようにゆっくりと時が流れる中、私は思います。


「どうして私ばかり」


 この頃には私の見る夢が普通ではないと分かっていました。多くの人は夢を見たとしても毎日ではなく、内容も覚えていないことがほとんどであり、中にはそもそも夢を見ないという人もいる。なぜ私だけ普通に夢を見られないのか。


 球体に飲み込まれながらも、じわじわと腹が立ってきます。金縛りや悪夢の中では、脳内の恐怖心を司る部分が活性化し、恐怖を感じやすくなるそうです。しかし、関係ありません。全ての恐怖を怒りでかき消します。そして怒りに任せて全身に力を込めたその時。


「よし、これで全員助かるね」


 父の声がすると同時、私は屋根の上に着地していました。夢の内容が変わったようです。しかも、自分の意志で動くことができます。


 夢の世界における「自分の意志」というのは非常にややこしいものです。


 夢を夢であると認識できていないうちは、自分の意志で自由に動いているように感じられますが、夢であると認識すると、それが「作られた自由」であると気づいてしまう――つまり夢に思考や行動を支配されていると気づいてしまい、気持ち悪さを感じるのです。


 それはさておき、いつまでこの状態を維持できるかが分かりません。私はとにかく急いで屋根の上を歩き回り、状況を確かめます。


 残念ながら、この場所から何かできることはなさそうです。はっきり言って、ベランダからわざわざこちらへ飛び移った意味が分かりません。屋根の上を何周かし、もうできることもないな、と諦めかけたその時。


 ゆっくりと、全身が重くなるように感じます。そして徐々に自分の行動が自分の意志と合わなくなっていきます。自由を奪われたのです。そして。


「きゃ!」


 何かに引っ張られるかのように、母が水に落ちました。続くように、父が声を上げる間もなく、見えない何かに引きずり込まれます。次は私です。


 バシャッ。水の中から何かが巨大な腕のように飛び出してきました。それは木の根のようにも、泥が形を持ったもののようにも見えますが、とにかくその腕が私を掴もうとしてきます。


 私は再び、怒りを燃やします。パンッ。腕は透明な壁にぶつかるかのように、私の手前で止まりました。しかし。


 ドン、ドン! 腕は何度も「壁」を突き破ろうとしてきます。ガラッ。「壁」が陶器のような音を立てたと思うと、腕が私を捕えました。同時に、私の意識(視点)が外に移動します。つまり私は私が腕に捕らわれるところを、少し離れたところから見ている状態です。


「駄目だったか」


 水に引きずり込まれる私を見て、私は思いました。怒りで恐怖を消し去れば、一時的にでも夢の支配権を握れる。怒ることは悪夢に対し有効な手段である。そう分析しながら、私は死んだのです。

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