温泉

 ダグラスがこちらに向かってとろけたような優しい顔で手招きをしてくる。

 俺はまだダグラスのことを信用しきっていないが、あんなに良い部屋を用意してくれたんだから、悪い人ではない。はず。

 俺は警戒をしつつダグラスのところへ向かい、湯船に入ろうとした瞬間、野太い待ったが聞こえた。


「まずはそこにある桶で体を流すんだ」


 ダグラスは俺の足元にあるデカいコップのようなものを顎で指してきた。

 ダグラスが言うには、桶にお湯を入れて、体かけるのがマナーらしい。

 俺はお風呂のお湯をすくい、ザーッと体にかけたかけた。こう?とダグラスの方を見ると、頷き、満足そうにしながら、目を瞑った。

 そして片足ずつ入ると、足がゆっくりお湯に浸透していく。

 俺の肌が、暖かさに包まれていく。布団の柔らかさはないが、足が隅々まで満足しているのがわかる。

 壁まで歩いたら、俺はダグラスのまねをするように、腰を落として、顔以外を風呂に埋めた。なんだこれは。気持ちいい。全身が温められていく。このダイレクトな熱さが、はああ。という声を俺に出させた。

 お湯に浸かるなど初めてのことだったが、これはなかなかいいぞ。

 ダグラスがゆっくり近づいてきて、その波が少し顔に当たる。手で顔を拭いて、その手で邪魔だった髪を後ろに持っていった。


「気持ちいいだろう。日本に行った時に感動してな。頼んで作ってもらったんだよ。効能といって、すごく体に良い。本物は湧き出ているんだが、こっちは成分を真似して、汚くなったら濾過して循環させているんだ。もちろん汚くなる一方だから、時々入れ変えているがな」


 やっぱりこっちにきてからみんな何を言っているのかわからない。ただ今は頭が溶けるように気持ちよくて、今はそんなことどうでもよかった。


「どうだサンドラは」

 急にサンドラのことを聞いてきた。俺はダグラスの言う効能のせいか、簡単な言葉しか頭に浮かばなかった。

「優しい」


「そうかそうか。いやな、サンドラは、最近入ってきたばっかりなんだよ。何しろ、親戚の娘らしいのだが、一向に働こうとしなかったらしい。やることがないだの寝ていたいだの御託を並べてな。まあ本人はお嬢様育ちだからと言っているから、仕方がないところはある。まあそんなプー太郎だったところを俺が拾ったわけだ。この場合はプー子なのかな」


 溶け切った頭に長文が流れ込んできてそのまま耳に漏れていったので、サンドラは働いてなかったということしかわからなかった。


「それとBのことだ」


 ザブン。Bのという言葉に反応して、体勢が崩れてしまった。顔がお湯に覆われて熱い。急いで戻ろうとするが、風呂の浮遊感のせいで、上手く体を起き上がらせられない。苦しい。


 ザパァー。


 ……急に高い。俺がダグラスよりもデカくなっている。


「おいおい大丈夫か?死んでないよな?」


 脇が痛い。下をよく見ると、俺は上に上げられていた。ゆっくりと降ろされ、俺の身長は元に戻った。


「びっくりさせてしまったならすまない。まあ、また落ち着いたら話そう。」


 ダグラスがまた俺を助けて風呂を上がってしまった。やっぱりヒーローみたいだ。


 俺はとりあえずもう一度肩まで浸かり、心地良かったので居座ることにした。一生居られる。


 ダグラスの背中を見ながら、彼が電話越しにBのことを殺し屋だと言っていたのを思い出す。

 そういえば、Bが朝に、玄関を開けて帰ってきたところを見たことがない。

 俺が見た時のBはいつも、綺麗な姿をしてだるそうにリビングでビールを飲んでいた。


 ずっと、汚い家なのに彼女だけ清潔な意味がわからないと薄々思っていたが、Bが殺し屋だとしたら、返り血を洗ってから俺に話しかけてきていたのだろうか。だとしたら筋が通る。でも、あのBが殺し屋なんて……。


 考えがぐるぐるして、溶けた頭が今度は蒸発してきたような感覚に達してまた溺れそうになったので、俺も風呂を出ることにした。

 少し体が揺れる。もたつきながらシャワーに向かって、キュッと捻ると、豪雨のように俺に降りかかってきた。冷たいっ。


 バッと離れて、手で触りながら温度を確かめた後、俺は頭からシャワーを被った。

 少し強い。でも、ちょうどよく刺激されて気持ちよくも感じた。

 黒いボトルに金色の文字で何か書かれたシャンプーは、ドロッとして、少し重くこれも黒かった。

 泡だて始めると、ダグラスから香る豪華な匂いがして、チクチクするような痛みが頭に広がる。頭

 がひんやりし始め、洗い流してもまだ刺激が髪から頭に伝う。

 ボディソープも同じように黒かったが、こっちはソフトに体を洗えて、滑らかに体を洗えた。

 そして俺は泡を全部洗い流し、風呂を出た。

 洗面所でダグラスが鏡と睨めっこしながら髪を乾かしている。

 俺を見るなり目を見開き、驚いた表情のままドライヤーを止めた。


「いやあ、自社製品なんだが、私には効果がなくてね、改良をしようとしていたんだが。痛かっただろう、刺激をもう少し抑えなければな」


 何を言っているかわからず首を傾けたら、ダグラスが鏡の方を、ほれ。と目で指してきた。

 鏡の方を見ると、俺の真白い髪が、少し灰色になっていた。

 なんで。

 その場にあったタオルで髪の毛を拭いても、色が変わらない。自分の髪を触ったり鏡に近づいてみたりしてみるが、違和感が受け止めきれない。

 こんな色だったっけ……。

「ゼブラは元々綺麗な白だったから、染まりやすいのかもな」

 と言いながらダグラスは急に俺の頭をドライヤーで乾かしはじめた。

 頭を撫でられながら温風を当てられて、俺は何故か少し恥ずかしい気持ちになり、終わるまでとりあえず目を瞑ることにした。

「はいおしまい。暴れなくて良い子だな」

 そういえば俺まだ裸だ。

 着替えようとカゴの服を見ると、俺の服は無くなっており、その代わりにでかいふわふわした布と同じくふわふわした布でできた長い帯みたいなのが置いてあった。


「ダグラス、何これ」

 布を取り出し、ダグラスに見せると、彼は少し驚いた表情をした。しかしすぐにはにかんで、

「バスローブだ。そのまま体に巻いて、帯で締める。簡単だろ?」


「わかんない」


 すると、ダグラスは少し優しい目になりながら近づいてきた。俺は彼の急な柔らかい表情を少し奇妙に感じた。まるで子猫を見るような目だったからだ。

 そして彼はバスローブを取り、俺にふんわりと着させてくれた。


「いやあ、初めて、私の名前を呼んでくれたね。何かその、健気な呼び方で、息子を思い出してしまったよ」


 帯をキツく、しかし優しく縛ってくれて、俺の肩にぽんと、デカい手が置かれた。

 近くで見たダグラスの目は少し下を向いていて寂しそうな顔をしていた。

 彼は自分がしている顔に気づいたのか、キリッとした顔を作り、まっすぐな目で俺を見た。


「一つだけ教えておこう。わからないだけじゃ進まない時がある。自分で決断しなきゃいけない時が来るんだ。それが決められる運命ならば。その時には考えなさい。時間をかけられるだけかけなさい。私の息子は、すぐに決めてしまったから、落ちこぼれてしまった」


「息子は何やってるの?」


「わからない」


 え。


 ダグラスは、バツが悪そうに俺を見て笑った。


「これじゃ私も進まないんだけどな。本当にわからないんだ。どこにいるかもわからない。探すこともできるが、探さない方が息子としても幸せだと思ってるんだ」


「じゃあ、もし決められない運命だとしたら?」


「決められるさ、諦めるか、抗うか。生き延びていれば、もしかしたら運命が変わるかもしれないからな」


 彼はそう言いながら腕を組みながら温泉に向かって黄昏始め、腕を組んだまま後ろを振り向いて、出ていった。


 結局何を言いたかったんだろう。

 わからないまま俺は、『タオル』と書かれたタオルがいっぱい入った穴がを見つけ、俺はそこにポイっと入れた。


 ふとまた鏡を見ると、昨日洗面所で見た俺とはまるで違う姿が映し出された。

 顔色が良い。肌は全体的に暖かい色で構成されており、ここにいるべきだと体全体が表していた。

 自分でいうのもアレだが、俺は少し幸せそうな顔もしていた。

 鏡が綺麗だからなのか、それとも環境が変わるとここまで変わるのか。


 まじまじと自分のことを見ながら、俺は嫌じゃない違和感を持って、風呂場を出た。


 出てすぐ、サンドラがまた目の前で置物のように突っ立っていた。


「おかえりなさいませゼブラ様、ご寛ぎいただけましたか?」


「まあ、多分」


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