恩を仇で返す
彼の声のトーンから伝わってくる自信と落ち着きが、彼が話していた「最高の環境」が実際に存在することを示唆していた。
その声は、ただの虚言ではなく、確信に満ち溢れているようだった。
おそらく、俺はこの救世主に本当に必要とされている。
Bの最悪な環境と、救世主の言う最高の環境に天秤をかけると、頭は後者が圧倒するが、心が優柔不断にさせてくる。
ぐるぐると周りを回りながら悩み続け、寒いことなどとうに忘れていた。
Bにはお世話になったけど、酷い扱いも散々されてきた。
この最悪な環境を出られるならそれ以上にいいことはない。
Bが良くなったら、Bには悪いけど、内緒で出ていくことにしよう。
しかし、どうしてか、心の隅には消えないモヤモヤが残り、俺に不安を煽ってくる。
玄関を開けて、閉めると、またしんしんと小さい雪のような埃が降り始め、深いため息をついてしまった。
この最悪な環境で俺の体は慣れてしまっているが、頭はここにいるのが嫌だと言い続けている。
いやいや、もう決めたんだ。ここを出た方が自分のためだし、迷惑をかけているんだったら、Bのためにもなるだろう。
Bの部屋に向かうと、まだBはしかめっ面をしながら寝ていた。離れると決めたからか、Bの慣れた顔が愛おしく感じた。
「ゼブ…ゼブ…」
「何?」
「ゼブ…」
寝言か?俺も横になり、Bの邪魔しそうな髪をかきあげた。
そうすると、Bが少し顔を緩めた。
Bの寝顔をこんなまじまじと見るなんて初めてだな。思わず、頬を撫でる。刺激しない程度に、優しく撫でた。横になって急に緊張が取れたからか、瞼がだんだん、重く、なってきた。
――突然、朝日が部屋を満たし始め、その眩しい光が俺を優しく包み込んだ。
身体の上にブランケットが下手くそにかかっており、俺はその中で安らかに眠っていたらしい。
寝ぼけながらリビングに行くと、Bがパンを食べながらテレビを見ていた。
焼かれていないパンにバターだけが塗られてあって、ビールと一緒に食べている。
「起きた?お前さ、横で寝るとか気持ち悪いから」
いつもように朝から悪口を言われたが、声が明るく、顔が少しニヤついており、とても機嫌が良さそうだった。その瞬間に俺はガクッと体に力が無くなり、倒れてしまった。Bの腰元が顔の近くに現れる。
「大丈夫?熱うつった?」
よく考えると、俺は昨日は一食も食べていない。急なイベントばっかで食べるのを忘れていた。
「お腹すいた」
「そっか、ちょっと待ってて」
Bがそう言うと、俺の頭を撫でた後。腰元が俺の顔から離れていった。
俺はゆっくりと力をためて、ようやくローテーブルの方まで座れたと思うと、力が抜けてローテーブルに倒れてしまった。
「邪魔」
ビクッと体が起き上がった。
コトっと置かれる音に反応して見ると、目の前にはパンが何枚もあって、いろんなジャムが置かれていた。コップに、牛乳も。
「どーぞ」
そういうとBは俺の隣に座ってまたテレビを見始めた。
「ありがとう」
心からの言葉だった。ジャムの硬い瓶が開けてあって、スプーンまで刺さっている。ジャムを掬い上げ、パンに塗ってかぶりつく。うまい。
牛乳をごくっごくっと飲んで、思わず、ぷはーと言ってしまった。ふとBを見ると、恥ずかしそうに微笑んでいた。しかし、その笑顔は一瞬の光で、すぐ真顔に戻り、
「いただきますは?」
と怒ってきた。
「いただきます」
Bはまた笑ったかと思うと、すぐにテレビの方に向いてしまった。
同じパンなのに、こんなにうまいのは初めてだ。
気づいたら、俺は、パンを全て平らげてしまった。
「お前全部食べたの?キモっ」
と言いながらまた笑って、急に俺に優しく抱きついてきた。
押し倒され、床に頭をぶつけたはずが、痛くない。
Bの左手が、俺の頭の後ろまで来て守ってくれていた。
「ありがとうな」
Bは、わずかに声を震わせながら感謝の言葉を、俺の耳元で囁いた。
暖かく包む腕、女のいい匂いがふんわりと香る。俺も自分の意思で腕を絡めた。
「でも、元はと言えば俺が」
急に少し離れ、Bの顔がよく見えた。Bの左手が抜けて、俺は頭をぶつけ、Bは急に渋い顔をし始める。
「そう!風邪ひかせたのはお前!」
と言ってまた抱きついてくる。
「でも助けてくれたのもお前」
「でも、ハグするのは謝る時じゃ」
「キモいなお前」
と甘い声で囁かれ、しばらく、Bに包まれたままだった。俺はどうしたらいいかわからず、とりあえず腕をもう一度からめた。
ただ、幸せだった。
その後、Bが寝るまで、俺は彼女のそばに居続けた。
Bが静かに眠りについた後、俺はカーテンをで隠された窓を眺めた。
少し、夕焼けの光が漏れている。
あっ、救世主。カーテンを開けると、太陽はまだ明るさを保っていた。
Bにブランケットをかけてあげて、少し、Bが気持ちよさそうに寝ているのを見てから、服を着て、向かおうと思ったのだが、まだ、ここにいたいと思ってしまう。
でも人と約束したことは守らなければならない。これもBに教わったことだ。
俺はゆっくり立ち上がり、玄関のドアノブを持った。
振り返り、またBを見てしまう。Bは気持ちよさそうに寝ている。
ドアノブをこっそり捻り、ゆっくりと、外を出た。
古臭いアパートを離れ、高層マンションを通って、高級住宅街を曲がって、コインランドリーに向かう。
だんだん、夕陽が落ち始めているのが見える。昔のスマホを取り出して、開けてみると、三時四十分と書かれていた。
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