ナイフを持った来客
冷たい風が青ざめた顔に深く突き刺し、そのまま心臓を抉るかのように、厳しい現実を俺に突きつけた。
ほんの数分開けただけだったのに、やばい。俺は鍵をかけていなかったのか。
勝手に足が動き、突っ込むように玄関に入り、力加減ができず、ダンと強く電気のスイッチをつけた。
「あれ、ここはあいつの部屋じゃ。いや、あいつの部屋だよなあ」
部屋の中には俺をギロッと睨む男がいた。奴の目の周りが黒く、痩せこけていて、このゴミ屋敷によく似合う格好をしていた。俺は動けず、ただ目に力を入れることしかできなかった。奴は目を逸らし、ゆらゆらと歩き回り、俺がいるのにも関わらず、ゴミを摘み上げては投げ捨て、物色を続けていた。
「誰だお前は」
やっとの思いで出せた、俺の震えた声に反応し、こっちをまたじろりと睨み、静かにそして怪しくにやにやし始めた。
「あぁ思い出した。あのバカが探していたのはお前か」
誰のことだ。探していた?うまく頭が回らない。だからと言ってこいつに何か聞いたら、襲われそうな気がしてならなかった。
電気をつけた手が、スイッチに離れないまま、自分でもプルプル震えているのがわかる。奴は、手には荒いナイフを慣れた手つきでいじって、俺の顔を見るなりニヤニヤしながら、Bの部屋に入ろうとしていた。
「Bならここにはいない」
咄嗟にBの名前を言ってしまった。不安定に声だけがでかくなり、助けを欲していても恐怖で言えない自分がいた。
「B?確かにいないな。残念だ」
こいつ、Bを知ってここまできたのか。話は終わったか?と目で訴えてきて、また、Bの部屋に向かいゴミを漁り続けた。
何かをゆっくりと探しているようにも見えた。Bにこんな不審者がが入ったなんて知られたら、Bにも殺される。Bへの恐怖が勝り、俺は奴を追い詰めようと、Bの部屋の前まで、トス、トス、トス、とゆっくり歩いて行った。
「今日はこれでいいか」
「おい、早く出ていけよ!」
「あ?こっちはナイフ持ってるのに、お強いねえ。かっこいいねえ。でも」
俺の抵抗も虚しく、奴は嘲笑うように言い放った後、急にナイフを突き立てこっちに早足で向かってきた。条件反射で、俺は後退りをしてしまい、ローテーブルの前で転んだ。やばい。奴は躊躇なく近づいてきて、ナイフの腹を俺の胸にドンッ押し当てた。俺は逃げようと、足だけは後退りを続けていた。ローテーブルが少しずつザザ、ザザザと引きづられる音のせいで、焦りが増してくる。まずい、殺される。
「なんにも知らないね。自分を守る術も、他人を倒す術も。Bのことも、知らないんだろうね」
「お前は、Bの、なんなんだ」
「まだ聞く余裕があるの?あと一分も持たない命かもしれないのに」
ゆっくりと刃先が顔に近づいてくる。嫌だ。奴の腕を押し返そうとしても、奴の力に全く及ばない。奴の腕が震えながらも、首元まで刃先が来て、必死に首を伸ばしながら俺はナイフを遠ざけようとした。
刃先が当たり、死ぬ。
と思ったら、奴の腕の力が抜け、掴んでいた俺の腕を振り払いすくっと立った。フラフラと自分のペースで玄関に歩き始め、捨て台詞も吐かずに出て行ってしまった。
見えなくなった途端に腰が崩れ、体重任せに手をついた。プスッ。突然の痛みにびっくりして飛び上がり、急いで手を見ると、画鋲が刺さっていた。血が滴り落ちていく。画鋲をとって、意識が朦朧としながら吸い込まれるように洗面所に行き、水で血を流した。ついでに顔を洗って鏡を見ると、かなり顔が青白くなっている。まるで幽霊だ。
今になって、心臓が速くなっていたのがわかる。俺は一歩間違えたら死んでいた。でも、死ぬ直前の感覚は初めじゃないような気がした。
息が詰まり、目の前のことしかわからず、頭がずっと警報を鳴らして考えてくれないあの感覚。
はあ、はあ、はあ、はあ。ゆっくり呼吸を始めて、整理する。
大丈夫、俺は、死んでいない。
あいつはBのなんなんだ。おそらく俺のことも知っていた。困惑と恐怖が、体に重くのしかかる。俺もふらふらとBの部屋に行き、布団で横になると、心音を緩めながら、現実から逃げるように目を瞑った。
「おい、殺すぞ」
その言葉に驚かされて起き上がると、Bがいた。
いたことを確認できた瞬間に、頬が爆発するような衝撃が起こる。Bに叩かれた。思わず手を右頬に添える。ジンジン痛い。
「なんで電気つけっぱなしにするの?バカなの?もうしないって言ったよね?」
何にも知らなそうなBが僕に怒っている。現実だ。少し胸を撫で下ろして、感情任せにBの胸に飛び込んだ。
「ねえキモい。お前って変態なの?」
飛び込んだ俺の背中に殴られているような刺激が全身に伝う。でも今は、いつもいる人がいて嬉しかった。
「離れろマジでキモいから」
離れた僕に対して、Bは嫌悪の塊と言ってもいい目つきをしていた。やっぱりBにも殺されるのかも。
「あのね?部屋の電気がついてることでもう殺したいんだけど、なんで玄関の鍵空いてるの?」
「ああ、やっぱり?」
生返事をした僕に再度頬が爆発し、その衝撃で俺は布団に倒れた。
痛くても、死んでない。夜中のナイフよりは全く怖くない。むしろ安心で顔が緩んでしまう。
「お前今日なんなの。ちょっともうマジでキモいわ。着替えるからあっちいって」
布団の温もりが今日はとても沁みる。でも背中がまだいたい。多分蹴られてる。
「あっちいけつってんだよカス」
そろそろ本当に怒られると思った俺は、起き上がりリビングに行ってまとめたゴミを玄関に持って行くことにした。
ゴミの無いラインが出来ていて、それはローテーブルの引きずられた痕跡として、さっきの情景をフラッシュバックさせた。
本当にいたんだと、また血の気が引いてくる。自覚が、さらに恐怖として俺を襲う。
もう元に戻ったんだ。やめにしよう。頭を振って、夜にまとめたゴミ袋を大きなゴミ袋に一つにまとめて、引きずりながら玄関に向かった。
ゴミ袋をいつものところに捨てて戻ろうとすると、また俺は開けっぱなしにしていた。
その瞬間、最初に来たフラッシュバックの衝撃が少し弱くなってまた俺に突きつけた。死ぬ直前までいったあの場面、Bを知っていた得体の知れない男を思い出し、一瞬動けなくなったが、できるだけ早く日常に戻すために、再度頭を振って、考えるのをやめた。
そもそも開けてなければ、あんな思いはしなくて済んだんだ。
玄関を閉めて、今度は意識的に鍵を閉める。ガチャリ。
嫌でもやっぱり思い出してしまう。奴の、未来を何も考えていなかったようなあの目を。本当に嫌なスタートだ。畳み掛けるように今日は、ドタドタとBの部屋が騒がしい。
「ねえ、私のパンツどこやった?」
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