スーパーにて
コーヒーはすごく繊細だ。一度だけ、Bに内緒でちょっと良いインスタントコーヒーを一つだけ買ったことがある。一度淹れてから、一分一分と経つうちに顔は変わっていないのに、味わいに変化が現れる。俺は、冷めた頃の酸味の強いコーヒーが、まるで自分のようでで結構好きだ。レモンのような甘さがあるわけでもなく、鉄のような酷い舌触りでもない。ただそっと、コーヒーが俺の舌を優しく包む。その酸っぱさが、俺の一日に終わりを告げてくれる。
と、俺がコーヒーをやっと楽しめると思って口に運んだ瞬間。隣からカップを置く音がした。
「もう行こう」
Bの方を見ると、彼女は紅茶を飲み干して、すでに立ち上がっていた。
おそらく、俺がコーヒーについて思考を巡らせている間に、グビグビと飲んでいたのだろう。
俺はまだ飲み終えていないのに。タイミング弁えろよ。でも、俺は彼女以外に拠り所がない。
モヤモヤを持ちながら、最高の瞬間を置いていったまま、Bについていくしかなかった。
Bが向かったのは、俺が昨日行ったいつものスーパーだった。彼女はゆっくりと開くスーパーの自動ドアを手でこじ開けながら、ずんずん入っていく。
他の客が彼女の動きに合わせて少し立ち止まり、Bに当たらないように少しずつ避けていく。その後、後ろにいた俺に、
『お前がなんとかしろよ』
と言わんばかりの視線をみんながぶつけてくる。
『できるなら俺もやってる』と睨み返して、
俺は黙ったままBについていった。
Bはおそらく、ビールを買うつもりだ。
体が覚えているのか、ずかずかと酒屋ゾーンに向かい、ビールをすぐに手に取って、その流れのままレジに並んだ。
Bが右足をイライラさせながらレジを待つ。気まずい。さっきの紅茶、そんなに美味しくなかったのか。
レジについてから、Bはポッケに手を突っ込んで、財布を探し始めた。待っている間に探せばよかったのに。探してるうちに金額が表示され、店員、客、俺、全員がBを待つ時間になった。
ビール一缶を待つために、どんどん人が並んでいく……。指図すると怒られるので、俺はただひたすらに待つために、ぼーっと遠くを眺めていた。
「えー、ないなあ。ジブラ、持ってる?ねえ、ジブラ?ねえ、おい。おいジブラっ」
頭皮に重い衝撃が伝わった。いたっ、こっちは待ってるだけなのに。よく見るとBの形相はほとんどキレる直前だった。自分を落ち着けるように、唾を飲み込む。
「何?」
「財布!」
俺に突き刺す大きな声が、スーパー内にこだました。おそらく、俺以外もBのことを観察しており、完全にやばい奴がスーパーに入ったと思われているに違いない。
財布…そういえば、俺は昨日、コーヒーを買い損ねている。財布の中の小銭入れを確認したら、ちょうどビールが買えるほどの小銭が入っていた。それで急いでお会計をし終えると、Bはぶんっとビールを手に取り、
「おっそいんだよグズが」
とまた視線を浴びるような大声を出して、堂々と出口に向かって歩いていった。
「デイブちゃん、危ない!」
Bが対面から走ってきた子供にぶつかり、子供は吹っ飛ぶ勢いで倒れたが、Bは微動だにしなかった。
子供はわんわん泣き始め、Bは少し子供を見たあと、舌打ちをして、そのまま通り過ぎていった。
その一部始終を、みんなが眺めていたが、Bが出ていった瞬間、タイミングを図ったかのように、各々の世界へと戻っていった。子供が倒れていても、誰も歩く狂気と関わりたくないといわんばかりに、全員が全員、見なかったことしたのだ。
すると、奥から一人の店員さんと、多分、母親と思われる人が挟むように駆けつけてきて、
「ボク、大丈夫?」
「走っちゃダメって言ったでしょもう!」
店員さんは天使のような優しさで、母親らしき人は泣いている子供に追い打ちをかけるように怒っていた。店員さんは優しい顔をして子供を撫でながら、甲高い声をあげる母親をまあまあと宥めていた。そうやって怒るのも一つの心配なら、俺もBに心配されてる日があるのだろうか。
「あの……他にお客様がいらっしゃいますので、少し進んでいただけると助かります……」
恐る恐るレジをしてくれた店員さんが、手のひらで俺に出口を指した。そうか、俺は今の今まで邪魔だったのか。
しかし、ここを通るのはかなり気まずい。出口に向かうには、Bのせいで泣いている子供と、怒る母親と、子供の頭を撫でる店員を通り過ぎなければならない。店内を見まわし、まわり道のルートを予測して、ある程度想像してそのまま出口の方を見ると、Bが俺を見ながら外でビールを飲んで待っているのが見えた。
まずい、また待たせてる。また怒られる。
俺は突っ立っていた体を反射的に動かし、通り過ぎる道を選んだ。
無意識に、泣いてる子供の声に反応してちらりと見てしまい、横切ろうとする俺の足音に反応したのか、俺は店員さんと目が合ってしまった。
背の小さい、ショートの店員さん。
彼女は俺に気づいたのか少し目を見開いた後、少し睨むような冷ややかな目で俺を見て、すぐに子供の方に注意を戻した。こんなひどいやつのツレなのだと、彼女の今までの少し暖かった感情が、リバーシのように反転した気がした。
罪悪感を持ち帰りながらスーパーを出て、俺はBのところにたどり着いた。
俺はBに初めて対抗の目を向けて、感情に任せて、
「何考えてんだよお前!」
と言うために少し口を開いたが、Bに虫を見るような目で見下されながら睨まれ、その圧倒的な威圧感に、俺の怒りも負けてしまい、そっと下に、目を逸らした。
「行くよ」
とBは早足で先に行ってしまった。
Bから離れたら、俺は多分生きられない。どうしても今は、最悪なBについていくしかなった。
彼女は溶ける夕陽をつまみにビールを飲み、俺は負の感情に押し潰されそうになり、首に力が入らず、俯き続けるしかなかった。唯一の抵抗として、俺は揺れる彼女の影を踏み続けた。
俺の帰る道にBがいる。そんな違和感と最悪な気持ちを味わいながら、次は意識的に、少し怒りを持って、Bの影を踏みつけた。
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