現状復帰

 契約書には書かれていなかったが、『夜は危険だから外を歩くな』と言われている。思えばもう、二ヶ月も月を見ていない。


 彼女が横たわっていた布団に移動し、ゆっくりとその温もりを感じながらズルズル埋まっていく。布団には、女性がまとう不思議な匂いが染み付いていた。敷布団の色はくすんで、いつもざらざらしている。薄くて、少し手を押し込むだけでも床を感じれるが、まだほんの少し暖かい。


 埃と女の匂いがブレンドされた枕に顔を埋める。何も見えなくなると同時に、周りにあるゴミの山を思い出し、何も見たくなくなる。


 ブランケットは頼りなく、次第に冷気が直接肌に触れるのを感じた。


 ああ、掛け布団が欲しい。おそらくこの部屋の、ゴミの山の中にある。


 面倒をエネルギーに頑張って寝てみようとしたが、どうしても途中で起きてしまう。

 俺はとうとう寒さに負けて、掛け布団を探す旅に出た。瞼は何もできないと訴える。ゾンビのように体を動かし、押し込むように電気をつけた。閉じ切っていた目が、光に包まれてすごく痛い。


 三時五十一分。時計のなる音にイラつきながらも、辺りを見回すと、よく見たらドアが少し開いていた。


 どんだけ立て付けが悪いんだ。腹が立った勢いでバンッと閉め、カチャお優しく鍵をかけた。


 慣れていたはずの光景も、よく見ると歩く隙間もないことがわかる。


 俺はBの部屋にある山の中部に、ひょこっと顔を出している掛け布団の端を見つけた。上手く体が動かないが、どうにか引っ張って取り出そうとするが、重みで向かい側からも引っ張られらような感覚に見舞われる。

 くそっ、まるで奥からも引っ張られているようだ。歯を食いしばりながら、体全体で、スポッ。と引っこ抜いた。


 その瞬間、山は崩れ、気がつけば俺の視界には天井が映り込んでいた。そして、すぐに闇が訪れた。音から察するに、崩れた山は掛け布団と引き換えに俺の寝床を奪ったようだ。


 ゴミを掻き分け顔だけ出した後、しばらくめんどくささに酔いしれた。動かない。体の節々が暖かくて心地良い。


 カチッと鳴った瞬間、背中に一本の小さな電撃が走った。時計にパッと目を合わせると、五時四十分を差していた。

 六時まで後二十分。それはBが帰ってくる時間だった。

 俺は飛び上がり、低山の上にBの私物を盛り付けて、確実にいらないであろうものを急いで片付けた。神秘的に照らされる光が強くなっていく。その微かな熱が俺にはとても熱かった。ズンズンと明るくなっていく景色は、タイムリミットを警告されているようにも感じた。

 ゴミ袋に突っ込んでまとめ、突っ込んでまとめを繰り返し、最後に夕方買ってきた時の袋まで使って周りを片付けた。


 布団が綺麗に現れると、達成感で、俺は布団に倒れてしまった。


 はああ。全身が萎むようなでかいため息をついて、ゆっくりと瞬きした瞬間、Bが急に隣に現れた。

 うっ。頭がいたい。状況が理解できず、時計を無意識に見ると、針は十時を指していた。

 条件反射ですくっと起き上がり、テレビの音のする方を見ると、綺麗だったはずのテーブルがまた汚れているのに気がついた。


 おかしい。夜中に、というか早朝に掃除したはずなのに。あれ、リビングは何もしてないっけ。そう、思いながら重い瞼を上げつつ、今朝の続きをするようにまた片付けを始め、あとはめんどくさくて諦めた。


 ストン、ローテーブルの前で腰を落とす。聞くはずの耳が音を跳ね返してしまい、Bは確実にさっきから俺に怒り続けているが何も聞き取れない。

 そしてそれを冷静に聞けるほど、頭は回っていなかった。


「ていうかお前さ……まず電気つけながら寝るとかキモすぎるだろ。それとな」


 ぼんやりとしている俺の髪を掴み、ちぎれるかと思わんばかりに揺さぶりながら、Bは説教を始めた。


 俺が掛け布団を苦労して出したのも知らずに、出した後部屋がさらに散らかって、Bに怒られまいと必死に片付けたのに。仕事への腹いせに俺を言葉で殴っているのか?元々汚しているのは誰だ?


 つまらない反論が揺れながらポンポン浮かぶが、口を開くのはめんどうくさかった。


「ごめんなさいは?」


「ごめんさい」


 全く心がない返事に流石のBも懲りたのか、


「もうしない?」


 彼女は少し甘えたような声でそう言った。


「しない」


「よし」


 と社交辞令が済んだら、彼女は俺を勢いよくハグし始めた。座っていた俺に向かって飛び込んできて、俺を絞めるように力強く抱きしめた。痛い苦しい、痛い痛い。


 彼女はこれを仲直りのルールだと言っていたのを覚えている。お互いの改善点を話し合い、理解し合ったら許しのハグを交わすという。

 「同棲するときはーそうするのが長続きするコツ!だ!ってテレビで見たのー」

 と酒で喉が焼けているBに、俺が転がり込んでからすぐに教えられた。


 さらに、言われてはいないが、俺も一緒にハグを返さなければ再び怒りを買う、という暗黙のルールも存在する。


 ハグの勢いが苦しくて毎回息ができなくなるから、反論ができずになあなあになって一方的な喧嘩が終わる。いつもこうだ。


 離した手をそのまま俺の頭に乗せて次は撫でるのかと思ったら、そのまま床に押し込み、立つための原動力にされた。痛くて、ゔんっという声が出た。


 Bが立ち上がる際に香る、彼女特有のフワッとした優しい甘い匂いが、かえって俺の苛立ちを増幅させた。


 いい匂いだからウザい。


「じゃ、朝ごはん作って」


 そう言いながら、Bは部屋に戻って引き戸を閉め、着替え始めた。また散らかる。

 ローテーブルには箸の刺さった空のカップ麺が寂しそうに立っていた。テーブルだけは基本綺麗にする。Bに怒られるから。つまり、これは今朝出来たゴミというわけだ。もう食べた後だというのに、まだ食べるというのか。

 まあこれもルールだ。俺は命令に従って、冷蔵庫から食パンと牛乳と卵とソーセージを取り出した。


 この家に来たときに課せられたルールの一つ。


 【料理を頼まれたらすぐに作ること】


 俺がこの家にいる条件として、即席の契約書にそう書かれていた。朦朧としている時に母音を無理やり押され、その後最初に下された命令でもある。


 ここに来て最初に見たキッチンの姿は、あまりに酷すぎて、今でも鮮明に覚えている。

 ゴミ帝国から続いていた街並みはとても栄えていて、俺の仕事はその整備から始まった。

 Bに料理をする場所がないと言ったら、「じゃあ作れば?」と、何も考えていない口振りでテレビを見ていたのも俺の記憶に確かに存在していた。それから、俺は彼女の事を、極端にだらしないご主人様と評価するようになった。

 その日から、常にキッチンとローテーブルだけは片付けていて、Bも流石に汚さないように配慮してくれた。


 カチッジジジジジジ。コンロに火をつけ、卵をフライパンに割ってソーセージも一緒に放り込む。


 白く染色されてきたら、水を追加して蓋を閉じた。ジュウウウウウと蒸発音を背後に、いつ壊れてもおかしくないオーブンにパンを一枚入れてスイッチを入れ、振り返ると、俺が出した掛け布団に、Bがくるまって寝ていた。

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