第一章 住処
「お客さん?お客さん?」
子供くらい背の小さいショートの店員さんが、ぼーっとして何も考えていない俺に話しかけてきた。決して大きい声じゃなかったのに、ビクッとしてしまった。無意識に首が動き、レジを確認した。
あれ、消費税変わったんだっけ。せっかくちょうど持ってきたのに。
財布の中の小銭入れを開ける。ジィッッ。
人差し指が少し擦れた。あれ、小銭を持ってきてない。仕方なく、いつも買っているインスタントコーヒーを戻してもらった。
「あれ、よかったんですか?コーヒー」
「え?ああ、俺のなんで」
「ふーん。はい、おつり」
笑顔が素敵そうな店員さんは小さな手でお釣りを俺の手に置いた。小銭入れにはだいぶ古そうなレシートも見えたが、構わず入れて財布をポケットにしまった。
「よかったですね、小銭が三つで済んで」
よくわからない言葉にやっぱり素敵な笑顔を重ねてきて、俺はペコっとお辞儀をした。店員さんが買ったものをまとめてくれたレジ袋を引っ張って、床に向かって落ちた瞬間、ズン。と肩を襲う。今日はコーヒーの分、少し軽いはずなのにな。
それでも、何事もなかったようにスーパーを出た。
初対面にもかかわらず友達のように話す店員さんに、俺は少し羨ましいなと思いつつ、夕日が溶けてゆく空を眺めながら歩いた。彼女にはきっと、たくさん友達がいるのだろう。
心地よい夕日の暖かさが肌を撫でるが、すぐに冷たい風が奪って行ってしまった。俺は無意識にポケットに手を突っ込んだが、レジ袋が膝に当たると、イラッとして手を引っ込めた。夕日の美しさが、今の俺の気分とは裏腹に感じて、そのギャップもなんだかうざったく感じてきた。
俺の家は高級住宅街を過ぎた先の、首が痛くなりそうな高層マンション。の影に隠れるように建っているボロアパート。
建物は所々黒ずんでおり、管理人の手が行き届いていないのが一目瞭然。あそこの壁なんて剥がれかけたペンキが見える。
汚れにまみれたの家々の窓は、透明さを失っていて、もはや窓の役割を果たしていない。
ドアノブの冷たさを無視して、風に熱が盗まれぬようすぐに閉めて鍵をかけた。
部屋の中を見渡すと、陽の光に照らされて舞い上がる埃が、まるで小さな雪のように見える。
部屋にはカビと埃の匂いが混ざった淀んだ空気が立ち込めていたが、それにももう慣れていた。
リビングのテレビからは効果音が響き、その光がぼんやりと暗闇を照らし出していた。
そんなゴミ屋敷に住人が一人。ゴミにかかっている赤髪のロングヘアー。柔らかそうな腹や主張の強い胸を掻きながらリラックスした様子で座っている彼女は、何も気にせずに生きる姿勢を体現しているようだった。
マイナスが勝ってしまい、悩ましく思うことがない。嘘、なくはない。
私は冷蔵庫を開けながら、
「ただいま」
と言うと彼女はスマホから目を離さず
「おかえり」
と社交辞令を返された。
買ってきた食材を小さなゴミ屋敷のような冷蔵庫に入れて、いつか掃除しなきゃという気持ちと共に冷蔵庫を閉めた。
唯一、少しだけ綺麗なローテーブルの上にあるカップ麺を、俺が、片付けた後、コトッと置いた缶ビールに動物のように反応したBは、帝国の街並みを一掃しながら、ゴトッと座りカチッと開けゴクっと飲む。
いつ見てもこれは少し気持ちがいい。ヤカンの口から湯気が強く登る音がしたら、スプーンでも掬えない残りカスのコーヒーの粉をコップに突っ込んでお湯を入れた。湯気で目が熱い。俺もBの対面に着き、テレビを見ながらうっすいコーヒーを飲む。無味無臭。
するとBが急にコップに顔を覗かせて、不思議そうに俺の顔を見つめてきた。
「それ、ただの茶色いお湯じゃないの?」
とBが軽く皮肉を交えて、訊ねた。
俺はBに話しかけられたことに内心驚きながら
「最高。Bも飲む?」
と適当に返した。
「いらない」
Bは不思議そうな顔のまま、首を傾げながらスマホに戻った。なんだったんだ。
俺もテレビに顔を戻して、つまらないクイズ番組を頭で解く。わからないから、つまらない。
そういえば、Bが皮肉とはいえ、癇癪以外で話しかけてきたのは初めてだ。
心がほんの少し肩を上げる。
BがまるでCMのような喉越しの音を響かしてコンッとテーブルに打ちつけるように金属音をさせて、勢いよく立ち上がった。
ビール缶を置く音にいつも少しイライラする。俺の反応を嘲笑っているんだ。
今日はコーヒーが薄かったからか、余計イライラした。Bがドタドタと歩いていく音で一層強まり、彼女が引き戸を閉めるドンッという音でピークに達した。うるさい!と言おうとした瞬間、彼女のシルエットの動きに目を奪われた。彼女が服を脱ぎ始めたことがわかると、俺は慌ててテレビに視線を移した。俺の心は、一瞬のうちに複雑な感情の波に飲み込まれていった。
しかし、俺ではない俺の中の誰かが、Bの姿を確認しようとする。浮かぶシルエットを頼りにしていると、急に引き戸が開き、俺はまた咄嗟にテレビに目を向けた。
怒られないのを確認してゆっくりBを見てみると、もう妙に厚いブルゾンを着た後で、太く一つに赤毛を結び、サラッと髪をなびかせてスマホを見ていた。
一つ結ぶだけで、さっきまでのだらしない顔がマジックのように凛々しくなる。
「んじゃ、行ってくるね。」
耳に通った瞬間にすぐ目を逸らした。絶対目が合ってた。俺は少し小さくなって答えた。
「うん」
ボロボロの作業服を着たBは、足元にある無数のゴミに突進して、俺が見ていたのにテレビを消し、ゴミを蹴りながら玄関に着いた。
床でだるそうにしていたペットボトルがBの足に蹴られ、玄関までコロコロと転がって行く様子に、ある種の哀れみを感じる。少し共感も混じる。
「じゃあね。」
ドアノブを捻る前にBは、いつも軽やかに、まるで女の子のように俺に手を振る。
振り返すとブンッとドアを開け、溶け切った夕陽の光に向かってダシダシと音が遠くなっていく間に反動でドアが閉まった。ガタン。
どこへいくのかも知らせずにドアが閉まった瞬間、騒がしく見えた部屋も急に静かになり、時計の音が鳴り始める。チッチッチッチッ。
心音も、針の音と一緒にユニゾンし始めた。
彼女は、今日も消えたと思ってしまう。
玄関を開けば彼女の姿が見えるかもしれないけど、面倒くささがいつものように上回った。
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