第38話 DEAD END

 暗闇には慣れてきたが、明かりが皆無なので視界はゼロに近い。

 ユリカは走ることも出来ず、かといって立ち止まるのも無理で、両手を前にしてよろめきながら、地下の通路を奥へ奥へと進んでいく。

 工場の再訪時から漂っていた、得体の知れない圧迫感のある不穏な気配。

 それがまるで「そこにいる」かのように濃厚に、明確になっている。


 本当ならば、一秒たりともこんな場所にいたくない。

 しかし背後からは、鹿野かのが何か言いながら追ってくる。

 しゃべっている内容は、妙な感じに音が反響して聞き取れない。

 鹿野だけでなく、何人かが一斉に話しているような気も――

 とにかく、今のユリカには逃げる他に選択肢がなかった。


 相手は常識から外れた存在だ――ならば自分も、理屈ではなく勘に頼るべき。

 そう判断したユリカは、感性の導きに従ってひたすら深部へと進む。

 果てしなく続いてそうな通路は、ついに行き止まりに達する。

 そこで待っていたのは、あの寒い部屋だった。


「ヌンッ――」


 ユリカは短く気合を入れると、両開きの扉に手をかけた。

 開けると同時に、全身の肌に突き刺さってくる冷たい空気。

 その部屋は以前と変わらず、不自然な低温に満たされている。

 今が真夏なのを忘れそうな寒さが、沸騰ふっとうしかけたユリカの頭も冷やす。


 行き止まりに追い詰められてしまったが、鹿野がやってくるのと入れ替わりで部屋を抜け出せば、あとは外へと逃げるだけだ。

 鹿野はチビで、デブで、短足で、不細工。

 だから逃げ切れる、絶対に逃げ切れる。

 そう自分に言い聞かせるが、不安はいくつも脳裏のうりに浮かぶ。


 今の鹿野は、もっとバケモノめいた存在なのかも――

 ここから出ようとしても、何故か閉じ込められる――

 ドラまでおかしくなって、急に襲いかかってきて――


 不吉な想像が次々湧いて出るが、ユリカはかぶりを振ってそれを打ち消す。

 自分の呼吸音と動悸どうきが、耳鳴りと混ざった不協和音になって頭に響く。

 泣きたくなるほどの痛みがあるのに、どこを怪我してるのかわからない。


 数十秒か、数分か、十数分か――

 どれだけ経ったかわからない、緊張を強いられた時間が過ぎる。

 やがて、重たい何かを引きずる気配と足音が、扉の前で止まった。


 来る――と身構えた瞬間。

 ドゴンッ、という重い音が鳴り響き、扉が蹴破られたように開く。

 吹き飛んだドアの向こうから、左手にランタンを提げ、右手にミクの足首を握った鹿野が、悠然とした足取りでやってくる。


 地面を引きずられすぎたからか、ドアに叩きつけられたからか。

 ミクの頭はグズグズにくだけ、額の破れ目から桃色の固形物が溢れ出している。

 室内を見回す鹿野は、どういうわけか愛想笑いのような表情だ。

 これは――本当に鹿野、なのか。

 ユリカが鹿野として認識してきた人物と、背格好は一緒なのにどこかが決定的に違う。


「ここにいる、ましたが。それなのにまた、あるのでは、ない」


 日本語未満の怪文を淡々と述べると、鹿野はミクを振りかぶった。

 鹿野の脇をすり抜けて逃げたいユリカだが、その隙が見つからない。

 どうしよう、どうする、どうすればいい。

 迷って答えを出せずにいると、鹿野がミクを頭上でグルグル振り回す。


「んなっ――」


 予想外の奇行を見せられ、既に混乱しつつあった思考は破綻する。

 ミクから撒き散らされる血と脳漿のうしょうが、部屋の壁と床とユリカを粗雑な水玉模様に染めた。

 本能的な危機感が前に進むのを拒み、ユリカは鹿野から目を離せないまま、じりじりと部屋の奥へ後ずさる。


 だがユリカの背中は、すぐに飾り棚にぶつかってしまう。

 それと同時に、鹿野はミクを掴んでいた手を離す。

 推定五十キロの肉塊が、ユリカ目指して飛来する。


「ぬぁおあああああああああああああっ!」


 演技でも発したことのない種類の絶叫と共に、ユリカは床に身を投げた。

 叫んでいる途中で、自分の声が衝突音と混ざって何が何だかわからなくなる。

 心身共に疲れ果てて、このまま突っ伏していたい気分だった。

 だがそんな行動は、自殺行為というか単なる自殺だ。

 ユリカは両手をついて、左腕に走った痛みをこらえながら身を起こす。


 さっきまで自分のいた辺りは、飾り棚が壊れて壁に大穴が開き、そこからミクの青褪あおざめた下半身が生えている。

 いや、違う――元からあった穴が、棚で隠されていたようだ。

 ゆっくりと、鹿野がこちらに向かってくる。

 穴と鹿野を何度か見比べた後、ユリカはミクを踏み越えて穴の中へと転がり込んだ。


 二歩か三歩で行き止まりだったら詰むな、と入った後になって気付いたが、幸いそんなオチにはならず、ユリカは暗がりの中で身を起こす。

 背後から、激しく揺れる光が届く――鹿野が追ってきていた。

 穴の中は、人が立ったまま歩ける程度の高さがある空間、というか通路だ。

 緩い角度でジグザグと曲がる、傾斜のつけられた道を足早に進んでいく。


 その先に待っていたのは、またもや行き止まりだった。

 ユリカは、全身の力が抜ける思いでその場に崩れる。

 泣き喚いて、理不尽を呪って、もうそれで終わりでいいんじゃないか。

 いや、ダメだ――焦るな、落ち着け、どこかに、何かないか。


 壁を手で探り、床を靴底で探り、漆黒に目を凝らす。

 鹿野の呪文めいた独り言と共に、ランタンの光が近付いてくる。

 それが、ユリカの足元に置かれている鉄板を照らした。

 工事現場でよく見るタイプの、滑り止めのデコボコのあるやつだ。


「どぅお、りゃ!」


 ユリカは鉄板の端に指をかけ、普段なら絶対に持ち上がらないであろう重量の、金属製のそれを引っくり返す。

 左腕の痛みが悪化した気もするが、それを理由に立ち止まる余裕はない。

 鉄板の下には、四角く切り取られた穴が隠されていた。


 覗き込めば、下に通じる作り付けの金属梯子が続いている。

 やや斜めに架かっているせいで、地面までの距離は不明。

 一段ずつ降りている暇はなさそうだ。

 そう判断したユリカは、梯子の丸い支柱に抱きつくような格好で、下まで一気に降りる方法を選んだ。


 四秒か五秒で着くかと思ったが、たっぷり十数秒もすべり降りる――というか滑り落ちることになった。

 予想外の深さのせいで、着地で発生する衝撃が尋常じゃない。

 手に、足裏に、膝に、尻に、痛みが連続で訪れる。


 だけど、まだ生きている。

 その事実で、気持ちを奮い立たせようとするユリカ。

 だが、一歩ごとに痛覚が肉体の危機を警告し、意識に揺さぶりをかけてくる。


「くっ……うぅふっ、とぁあっ……なんんっ、しょあぁあああぁ!」


 ユリカは、自分でも何を口走っているのかわからない、気合なのか悲鳴なのか判別不能の声を散らしながらうように前進する。

 喚きながら進む内に、痛みに慣れるというか、痛覚を遠くに感じるようになった。

 映画の格闘シーンで見た、あの――アドレナリン、あれが分泌ぶんぴつされているのだろうか。


 そんなことを考えながら進んでいると、ユリカは顔から何かにぶつかった。

 手で触れて形を確かめてみると、鉄格子という単語が思い浮かぶ。

 また行き止まりか、と鉄柵を握った手にヤケクソ気味に力を込める。


「ふんっ――うぉおおっ?」


 予想しない手応えに、変な声が出た。

 行く手を阻むかと思えたものは、きしんだ音を立ててドアのように開いた。

 かび臭さとほこり臭さで麻痺しかけた鼻が、未知のニオイを嗅ぎ取る。


 煮詰めた鰹出汁かつおだしを長時間放置してダメにしたような、日常ではあまり遭遇することもないタイプの、そんな臭気。

 ニオイの出所を気にしつつ、ユリカが壁に手をつきながら進んで行くと、掌が丸みのある何かに触れた。


 数秒の間を置いて、唐突に薄明かりが広がった。

 トンネルの照明や常夜灯を思わせる、オレンジがかった色合い。

 人工的なその光が映し出しているのは、天井の低い地下牢めいた石造りの部屋。

 広さは十畳か十二畳くらい、だろうか。

 調度品も窓もなく、毛羽立ったマットレスくらいしか目に付くものはない。


 いや、もっと強烈な印象を与えてくるものが、マットレスの上にある。

 ユリカとしては、なるべくなら直視したくない。

 しかしながらその圧倒的な存在感は、目を逸らすことを許してくれなかった。

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