第29話 きっと来る
『いい加減にしてくれよ、クロ! もう三時四十分、そろそろ四時だぞ。夜っていうか、朝の四時なんだよ! いくら明日休みでも、付き合いきれねえって』
「それは悪いと思ってる悪いと思ってるんだがそれとは別に別の問題で泣き声がだな泣き声がずっとずっと問題ずっと問題がずっとあってだなずっ――」
ここから本題に入る、というタイミングで電話を切られてしまった。
一番古い付き合いなのに、藤田のやつも薄情だ。
どうして――
どうしてみんな、真面目に人の話を聞こうとしない。
こんなにも、こんなにも必死になってあの時に知ってしまった、あのことについて説明しようとしているのに。
一人でいると、不安で気が狂いそうになる。
誰かといると、その誰かが誰かじゃなくなって、誰かじゃない誰かが自分を別の誰かにしてしまいそうな、そんな不安で気が狂ってしまう。
だから一人でいる。
部屋に一人でいる。
この部屋から、みんなに危険を知らせようとしている。
なのに言葉にすると、どうしても伝わらない。
伝え方が下手なのか、それともどこかで、邪魔が入っているのか。
もしかして、あれが邪魔を。
かなり近くにいる気がする。
いや、気のせいじゃない。
間違いなく、すぐ近くにいる。
定位置になっていた、部屋の隅から起き上がる。
そして、テレビ台になっているチェストの引き出しを開けた。
そこには、自分で買い集めたり
御守り、護符、
オカルト雑誌に載っている、怪しい広告コーナーを丸ごと集めたような品揃えだ。
インチキ通販と異なるのは、全てに『本物』と断言できる
なのに、それなのに――どうしてこんな。
もう何回確認したかわからない、引き出しの中身を見る。
そしてまた、何度目かわからない絶望を噛み締めている。
そこにある品々は、全てが原形を留めないほど破壊されていた。
御守りは破裂し、護符は炭化し、金属製品は捻じれ、宝石は
そこに置いてなかった普段使いのアクセサリーも、全てが融けて焦げて混ざって、センスのない現代アートを生み出していた。
かつて鹿野が、「これこそが最強の防壁を生み出す」と豪語していた、詳細不明なアフリカのどこかの神像。
どうなっている。
どうすればいい。
途方に暮れて、再び部屋の隅に座り込んだ。
泣き声がして、ハッと顔を上げる。
いつの間にか、意識が飛んでいた。
鳴き声は聞こえない。
反射的に時計を確認する。
四時三十八分――
珍しく、一時間近いまとまった眠りがとれた。
頭に
現在だと頭に泥が詰まったような、としか表現できない。
そんな重たい頭で、するべきことを考える。
考えたい。
だけど、意識の覚醒が中々やってこない。
気配が
気配だけが膨らむ。
何かがいる――或いはある、のだと思う。
だけど、わからない。
気配だけは日々濃厚になっていくのに、見えない。
聞こえない。
触れない。
ただひたすら、
霊感だの霊能だのが、本当にあれば話は変わったのか。
それも、どうだかわからない。
そもそも、どうして自分なんだ。
何でこんな目に、こんなことになる。
「くげっ、げっ、へっ――」
変な声が聞こえたが、
何かがすぐ傍にいるとしても、わからないのだ。
行くならまず、真っ先に鹿野の所だろう。
じゃなければ、
和久井のやったことも、忘れちゃならない。
ユリカや、アイダだっている。
林でも常盤も、あの助監でもいい。
なのに、どうしてここに来る。
こんな自分に、何もできることはない。
いっそ小松だって――と思ってしまって我に返る。
あいつの、小松のところにも来たのか、これが。
クロは、消えてしまった助監督のことを考えた。
考えて、想像して、胃に鋭い痛みが走る。
どうなった?
小松は消えて、それからどうなったんだ。
もしかして、どうにかなった結果で、消えたのか。
際限なく不安が
ままならない手でスマホを掴み、不安を伝えようとする。
誰に、誰がいい。
やはり、頼れるのは鹿野だろうか。
連絡先を呼び出し、発信する。
発信した。
しているのに、つながらない。
昔のパソコンのモデム音のような、ノイズが繰り返し聞こえる。
しつこく受話口に耳を当てていると、部屋の電話が唐突に鳴った。
慌てて電話機を探す――が、見つからない。
見つからないのも当然で、この部屋にはもう二年近く固定電話はない。
何だこれ。
何なんだ、これ。
インターホンが、変にエコーのかかった響きで鳴る。
何度も何度も何度も鳴る。
逃げたい。
逃げるか。
逃げよう。
でも、どこに?
思考がループして、やがて何も考えられなくなる。
クロはベッドに手を伸ばす。
すぐに終わる。
いずれ終わる。
やがて終わる。
言い聞かせ続ければそうなると信じて、信じたくて。
繰り返し繰り返し、心の中で唱える。
非生産的な祈りに、異物が混ざる。
『――――――――』
ノックの音だ。
ノックの音なのか?
フワフワの、着ぐるみの手で叩いているような、ボンヤリとした音。
トントンでもゴンゴンでもない。
のっのっのっのっ、と振動だけが伝わって来る。
呼んでいるのか。
報せているのか。
そう思ってしまった後で、脂汗が吹き出す。
報せるって、何を。
タオルケットを投げ捨て、ドアを
あの向こうに、来ているのか。
のっのっのっのっ――
音は続いている。
逃げ場はないのに、もっと壁に背中を押し付ける。
のっのっのっのっ――
振動が、背中に伝わって来た。
「……あ、れ?」
無理な体勢で首を
のっのっのっのっのっのっのっのっ――
クリムトの複製画を飾ったパネルが、前後に揺れていた。
ノックされているのはドアではなく、この壁。
「ちっ、違う……違うんだ。全部ウソで、ウソなんだ。僕はニセモノで、だから……見えないんだから、帰って」
涙声の
息が苦しい、とても苦しい。
獣臭さを伴った生ぬるい空気が、どこからともなく湧く。
「じゃあ、みせてあげる」
耳元で声がした。
老人の年甲斐もない
見える――
見てしまう。
手入れの行き届いてない長い髪が、微かな濁った音と共に視界を侵食する。
冷たい何かが額に触れ、次に頬に触れ、そして唇に触れ――
ぬるりと
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