第28話 今からそいつをこれからそいつを
「しかし、この広さだと家賃もお高いんじゃないですか」
「その程度は稼げてるからね。それに、広くないと資料の置き場に困るってのがある。自宅にも送ってるけど、そっちも満杯になってきてね。そろそろ、倉庫を買うか借りるかしないと」
キッチンで飲み物を作ってくれた
鹿野からは『マダガスカル産の何たら茶』と耳慣れない名前を告げられたが、ユリカにはこれがお茶かどうか判別できない。
カップから漂ってくるのは、香気というより臭気に近い。
ユリカは口をつける気になれず、手にしたカップをテーブルの上に置いた。
鹿野は慣れているのか平然と飲んで、一息ついてから話を始める。
「それで……クロさんがおかしくなってる件、ね」
「はい。他の人からも聞いてたんですけど、私のところにも
「慣れてないと、驚くのも無理はない。でもイワクつきの場所に行って、そこから挙動不審になる、ってのはこの業界では日常茶飯事だね」
「はぁ……」
ユリカが納得してない顔で答えると、鹿野はパッと笑顔に切り替えて言う。
「心配ない心配ない。ある程度はね、何が起きてるのか把握してるから。クロは多分、自分の意識に他者の意識が混ざって混乱しているだけ。きっとすぐ元に戻る」
「本当に……すぐ治りますかね?」
「問題ない。彼はプロだよ。誰よりも深く、霊との付き合い方を理解している」
いや、霊能者のフリをしてるだけの元ホストでしょ――
そう口走りかけて、ユリカは寸前で思いとどまった。
下手なことを言えば、鹿野にこちらの事情を本気で探られる危険がある。
ユリカに霊感めいた能力があるのを知れば、どうにか自分の
そんな警戒もあってユリカがまごついていると、鹿野は急に話を変えてきた。
「そういえば、ミク……宮島君の本が、わたしのプロデュースで来月に出るんだが」
「ええ、この前のイベントの打ち上げで、ミクさんから聞きましたけど」
それが何か、という感じに訊き返すと、鹿野がそっと距離を詰めつつ続ける。
「ユリカさんは、こっちの業界でやっていこうとか、そういうつもりはないの」
じわりと間合いを詰めながら、鹿野は真顔で質問を投げてくる。
ユリカの意識は、完全に拒絶モードへと切り替わった。
自然な動作でスマホを手にし、ソファから腰を上げて鹿野との距離を取る。
「いえいえ、まだ女優業も半端ですし……二足の
「間違ってるね。そこは考え方を変えるべきだ」
「べき、って何が」
唐突に断言され、ユリカはつい素の出た雑さで返してしまう。
だが気にしたようでもなく、鹿野は重々しい口調で語り出す。
「考え方、というか視点かな。どっちつかずとか器用貧乏とか、下から物事を見るんじゃなくて、ユーティリティプレイヤーとか多芸多才とか、高い観点でもって世界と
鹿野は準備していたかのように――いや、実際のところ準備していたのだろうが、意識は高いけどスカスカ感に満ちたセリフを
装飾過多な言葉の群れだが、要約すれば「俺を頼れ」でしかない。
ユリカは湧き上がるウンザリ感を隠しつつ、作り笑顔でやんわりと言う。
「ともあれ、しばらくは役者の仕事がありますから、時間の方もとれなそうで」
「若さが武器になるリミットは、意外と早く来るんだが……いいんだね?」
余計なお世話だ――と思いつつも、やはり微笑を崩さずNOの態度を続ける。
そこからは、鹿野があからさまに機嫌を
ダメだこりゃ、と判断したユリカは仕事関連の連絡が入ったフリをして、早々に鹿野の仕事場から退散した。
何だかんだで時間をとられ、自宅の最寄り駅に着いた時には日が暮れている。
帰って食事を作る気力も湧かないので、ユリカは数ヶ月前にオープンしたらしい洋食屋で、早めの夕食を
店は
メニューをザッと見てオムライスを注文した後、「クロについて話したい」とアイダにメッセージを送ると、折り返しで電話がかかってくる。
「ああ、どうもです、アイダさん。この前のロケぶりで。で、ですね……あの時のこととか、最近のクロさんのこととか、話しときたいんですけど」
『ごめん、この後でTVなんで……ゆっくり話せる時間ないんだ』
声が少し聴き取りづらいな、と思いつつユリカは続ける。
「それじゃあ手短に。クロさんからの電話、ありました?」
『あったあった。だいぶ何言ってんだかわからんのが、何回か。ユリカさんとこは』
「今日の昼頃、二回目が来ました……大丈夫なんですかね、あの人」
ユリカが言うと、心配そうな口調でアイダが返してくる。
『大丈夫大丈夫……って監督っぽく言いたいけど、本気でヤバそうだ』
「私もそう思って、さっき鹿野さんにも相談してきたんですけど」
『鹿野さん、何だって』
「あいつはプロだから問題ない、の一点張りで。ついでに、愛人になってオカルト業界でブイブイいわせてみないか、との遠回しなお誘いも」
『チッ! あのオッサン、またかよ……』
アイダが舌打ちし、呆れ果てた口調で絶句する。
やはり鹿野とは早く縁を切るべきだな、と再認識しつつユリカは話を変えた。
「あと、定点カメラには何が映ってたんです?」
念の為に確認しただけなのに、予想外の沈黙を招いてしまった。
三十秒ほどの間を空けてから、アイダは答えを告げてくる。
『得体の知れない跳ねる影と、やたらカメラの前を横切る白っぽい塊』
「……ガチなやつじゃないですか」
『それと、荒い呼吸音みたいなのとか、子供が泣いてるみたいな遠い声』
「
『うん。久々に撮れたマジもんだ、ってハシャいでた』
そう言って笑うアイダだが、その笑いは気が抜けていた。
「何か他に、問題ありましたか」
『いや、そういうのでもないんだけど……あの工場で鹿野さん、霊の反応を引き出すにはケンカ吹っ掛けて怒らせる、みたいな話をしてたじゃない』
「してましたね」
実際、とんでもないこともやらかしているし、とユリカは不快な絵面を思い出す。
『で、それなりの反応は来たけど、何ていうか……違ってる気がしてならないんだわ。そうじゃないだろ、みたいな。あのさぁ、ケンカ売られて本気でブチキレたら、ユリカさんはどういう反応する?』
ユリカは少し考えてから、思い浮かんだ行動を素直に
「全力でぶん殴りますね」
『それ! そうなんだよ。どうもさ、こっちがやったことに対して、リアクションが甘い気がするんだよね。だから――おっと、呼ばれたんで行くわ。それじゃ、また近い内に連絡する』
それは多分、『だから、これから殴りにくるんじゃないか』ではないか。
その答えに思い至ったところで、ユリカの前に料理が運ばれてきた。
卵が絶妙なトロトロ加減の、見事な仕上がりのオムライスだ。
だけど今のユリカには、ちょっと味がわからないかもしれない。
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