第4話 カビン

「二十年くらい前。東京の三鷹在住の吉平よしひらさん……あ、本文中だとYさんね。その吉平さんと同居してた、母方の祖父に異変が起き始める。家族が『あれ、おじいちゃんちょっと好き嫌いが増えたかな?』と気付いてから、二ヶ月ぐらいでまともな食事をしなくなった」


 観客の殆どは知っている話なのだろうが、みんな静かに聴き入っている。


「吉平さんも、おじいちゃんが肉や魚を嫌がるようになった辺りまでは、年取ると味の好みが変わるらしいから、と暢気のんきに構えてた。でも、段々普通じゃないのがわかってくる。食べる量が減る。箸もつけないメニューが増える。お茶しか飲まない日もある」


 鹿野のテンポのいい語り口に、冷静に観察するつもりのユリカも引き込まれる。


「吉平さんのお母さんは、入れ歯の噛み合わせが悪くなったのか、それとも体の調子が悪いのか、心配して色々と訊いたんだけど、おじいちゃんはムスッとして『何でもない』って言うばかりで、食べない理由を全然説明してくれない」


 そんな事情の説明に、大元の語り手である吉平さんの不安や、その母親の戸惑いといった心情を織り交ぜて、鹿野は平穏な家庭が暗くよどんでいく経緯を述べる。

 ユリカの読んだことがある鹿野の怪談本は、どれも長くて十ページほどの掌編しょうへんを集めたものだった。

 なので、この辺りの細かい事情は、本編ではカットされているのだろう。


「もしかしたらボケが始まったのかも……と皆が心配し始めた頃、おじいちゃんが倒れて病院に運び込まれる。検査の結果、中程度の栄養失調と診断されて、とりあえず入院して治療を受けることになった。医者からは虐待を疑われて色々と大変だったけど、家族としても対応に手詰まり状態だったから、この入院にはある意味で助けられた……はず、だったんだけど」


 思わせぶりな言葉の後、鹿野は手元の烏龍茶を飲んで間を作る。


「おじいちゃんは、入院しても回復しない。むしろ、目に見えて衰弱すいじゃくしていった。医者も理由がわからないと首をかしげて、検査を繰り返したり点滴の成分を変えたりする。でも、よくなるきざしはまるでない。吉平さんたち家族は、時間を作っては見舞いに行ってたんだけど、その内におじいちゃんが殆ど喋らなくなって。入院から二週間後には、お母さんしか病室に通わなくなった」


 鹿野の声のトーンが、徐々に重みを増していく。


「そんなある日、病院から戻ったお母さんが吉平さんに言った。もう何度目かわからないけど、お祖父さんにどうして食べないのかを訊いてみたら『ダメなんだ。あの味が』って、初めて答えらしい答えが返ってきたんだ、と。味がどうダメなのかと確認してみても、それには答えずにまたダンマリになって。で、その夜。真夜中に電話が」


 グラスの烏龍茶を空にした鹿野は、一気に話を畳みにかかる。


「電話は、病院からの連絡。おじいちゃんの容態が急変した、っていう。吉平さんたちが病室に駆け付けた時にはもう亡くなっていて。あまりにも急なことで吉平さんはしばらく呆然としてたんだけど、不意に妙なことに気付いた。おじいちゃんの枕元に、ざらついた感触がある。指先についたそれを見てみると、塩か砂糖か、そういう白っぽい粒だ」


 言いながら鹿野は、右手の親指と人差し指で何かを擦るような仕草しぐさを見せた。


「色々と死後の処置をしている医者に『これ何ですか』と訊いても、相手も首をひねるばかり。もしかして、おじいちゃんが変なもの食ったのでは、と口の中を調べたら、その白いのがノドの奥まで入り込んでる。当然、家族はどういうことなのかと詰め寄るんだけど、病院側でも死亡確認時にはこんなものはなかった、と困惑気味に言うばかり」


 そこまでで一息ついて、数拍おいてから再開する。


「両親と看護婦が揉めている中、ベッド脇のキャビネットにも粒が散らばってるのに気付いた吉平さんは、そこに置いてあった空の花瓶に何気なく手を伸ばした。で、持ち上げようとするとこれが重い。たっぷりと水が入っているような重さだ。何だこれは、と病室の洗面台でひっくり返してみたら、半分融けた白いのが大量に出てきた。成分を調べてみたら、それは塩と唾液だえきの混ざったものだとわかったけど……どこからどうやって一キロ近い塩が持ち込まれたのか、それは結局わからなかった」


 意味がわからない――でも老人に対する何者かの悪意だけは濃厚に伝わってきて、ユリカはうなじの毛が逆立つ感覚に囚われた。


「……ってとこまでが、本に書けた内容」


 ここからが本番――という雰囲気で鹿野が話を続け、会場の空気が張り詰めた。


「この話、意味はわからないけど不気味で好き、って感想がチラホラあるんだけど、わかりづらくなってるのは、重要な情報のいくつかを意図的に削ってるから。まず一つ、吉平さんのおじいちゃんは大戦中に歩兵としてニューギニアに送られて、そこで終戦を迎えてます」


 第二次大戦の日本軍は各地で悲惨な負け戦をしているが、中でも南方戦線は補給の途絶えた劣悪な環境下での戦闘を余儀なくされる、地獄としか言いようのない環境だった――というのをユリカは思い出す。

 戦時中が舞台の劇に出演する前、役作りの資料として読んだ本から得た知識だ。


「二つめは、吉平さんたちが異変に気付く少し前、おじいちゃんは戦友の葬儀に参列してます。そして三つめ、おじいちゃんの死後に遺品を整理していたら、その戦友からの手紙が見つかったんだけど……問題はその中身、なんだよね」


 客席は、シンと静まって鹿野の言葉を待っている。

 厭な話を聞いてしまう予感がつのり、ユリカはひたすらに落ち着かない。


「消印は、葬儀の四ヶ月前。無沙汰ぶさたを謝る挨拶から始まった手紙は、送り主の近況や昔話が入り混じった、とっ散らかった内容だ。でも、何が書いてあるかは大体わかる。わからないのは『この頃メシが不味い。何を食っても塩漬けの、あの味がする』という一文」


 さっきの話とのつながりが見えてきたが、もう不穏ふおんな気配しかしない。

 陰鬱いんうつな戦場の情景が、ユリカの頭の中で像を結び始める。


「この先は故人の名誉も関係してくるし、ちょっと憶測おくそくとかも入るんで、ネットに書くのは本気でNGね……いいかな」


 鹿野がゆっくりと客席を見回す動きに合わせ、ユリカも観察してみる。

 観客たちは椅子から動こうとせず、揃って前のめりで話に聞き入っていた。

 いや、一人だけ客席の後ろにある通路で、体を左右にフラフラ揺らしているのがいる。

 あれは――さっきから気になっていた、厚化粧の女だ。

 どういうつもりなのか、と責めたくなる気分もあって、思わずにらんでしまう。


 不意に、肘の辺りを軽く突かれた。

 反射的にそちらを向くと、アイダが手にしたスマホを指差す。

 メール画面に、シンプルな一文だけが記されていた。


 『あまり見ない方がいい』


 顔を上げてアイダを見れば、本日一番の渋い表情で出迎えられる。

 何を告げられたのか理解する前に、鹿野の語りが再開されて思考が途切れた。


「食料の補給はない。狩りや釣りでどうにかしようにも、数千数万の兵隊を養うのは難しい。それに、戦争末期には敵軍の包囲下でロクに身動きがとれない状況だ。食いものはない、だが食わないと死ぬ。なら、何を食う? 食えるものは何がある?」


 答えの出たらしい観客の一部が、不快げな表情をひらめかせた。


「そう……ヒトだ。人肉にんげんを食べるしかない」


 ある程度は想像していただろうが、それでも客席に動揺が広がる。

 改めて断言されて、ユリカも自然と表情が強張こわばってしまう。


「しかし、だよ。いくら極限状態、飢餓状態に陥っていようが、人肉を食う行為への抵抗は凄まじいはずだ。だから、吉平さんのおじいちゃんたちは、何を食っているのかを忘れるための一手間をね、加えたんじゃないかと。味をわからなくする目的で過剰に塩を使う、とかね。周りは海だし、塩はいくらでも作れる……」


 好き嫌い、拒食状態、大量の塩――不可解な現象が、一本につながった。

 鹿野の述べる陰惨な結論に、場内のアチコチで大きな溜息が湧き上がる。

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