第2話
あの頃からすでに八年近くが過ぎた。今頃になってこの本のことを思い出したのである。大学を卒業後、そのまま都内の小さな繊維商社に入社し営業の仕事をした。特に何がやりたいわけでもなかったが何となくビジネスマンとして洗練された印象を持っていたことと、商社に勤めていると同級生に放言しただけで決めた会社である。その会社は二年務めた後で、無断欠勤したのちに辞めてしまった。その後は一年程職探しとアルバイトをしていたが、どうにも決断できず、実家の北関東の田舎町に戻って来たのが二五歳の時である。三つ年下の弟はすでに都内に就職し、家にいるのは六十過ぎの父母だけ。一か月、二か月、三か月が過ぎても一向に職が定まらない私に対し、最初は私が家に帰って来たことを喜んでいた母もあからさまに早く仕事を見つけるようにと言い始めた。ただ、私はハローワークに向かうふりをしながら河川敷の芝生に座り、午前中からぼんやりと空を眺めては雲の流れを見ていたり、よくわからない小さな羽虫を手で追い払ったりしていた。昼になると近くのパン屋で、惣菜パンとパック牛乳を買い、芝生の定位置の戻り、そこで食しては、小一時間ぼんやりとして一仕事終えたような顔をして実家の古びた門扉をくぐり、静かに二階の自室に戻るのだった。自室の本棚には数千冊の文庫本が収まっていて、年々その冊数は増加していく。その時なぜその本を手に取ったのかわからないが、その日私は「笑う月」を手に取って、いつも通り河川敷へ足を運んだ。読み出したら止まらない。昼食休憩を取って読み切った。「ワラゲン考」もよいが、やはり「阿波環状線の夢」に得も言われぬ魅力を感じた。作中ではそんな名称の電車は存在しないと明言されていたが本当に阿波環状線という路線が存在するのではないだろうかと、私はしきりに気になった。徳島県に本当にそのような路線が存在し、その路線の小さな町には本当にそんな風習があるのではないか。その日、私はそんな考えに取りつかれた。数時間そこに座って本を読んだり、空を眺めてはぼんやりしていた。そしていつものように古びた門扉をくぐり、ひっそりと自室に戻ると机上に開かれたスタンバイ状態のノートパソコンを広げた。検索エンジンに「阿波環状線」と入力してみる。だが検索結果はゼロ件である。まあそうだろうと思ったが、どうしても気になる。阿波、鉄道、駅と分けて入力すると、阿波環状線ではないが阿波という名前がつく駅名が徳島県内に複数あることがわかった。阿波山川、阿波橘、阿波富田、阿波赤石、阿波海南、阿波大谷、阿波池田など。阿波環状線ではないが、そこには牟岐線、徳島線、土讃線に阿波がつく駅名を見つけることができた。作中では著者はあくまでもこれは夢の話であるということを強調していたが私はどうしてもそのことを認めることはできなかった。このような奇妙な風習が阿波地域特有なものとして残っているのではないか。公表されておらず、遠く離れたその地域に秘められた現象が、著者の脳を媒介してこの作品として具体化したのではないか。それは著者である阿部公房すらも気が付かないうちに。「笑う月」が発行されたのは昭和五九年七月であるからすでに四十年近く前の随筆であり、その当時阿波地域の住人は恐れおののいていたのかもしれない。なぜ地元民だけにひっそりと延々と引き継がれてきた文化が阿部公房の手により、夢という形で公表されてしまったのか。おそらく著作の公表後数年は住民や観光協会の人々はそのことが表沙汰になることを極端に恐れ、ひやひやとしていたと想像に難くない。それは間違いないと思った。そんな妄想に浸っていると、現実へと引き戻すような音、一階から年老いた母が私を呼ぶ声が聞こえてきた。私は耳をふさぎ、聞こえないふりをして情報を探し続けた。阿波環状線が実際に存在することを示す証拠はこの文庫の中にある。私は再び文庫のページをはじめから繰り始めた。本文には『跨線橋の長い階段のあたりが女性旅行者の難所として知られている、荷物をもって階段の登っている時の女性の姿勢がいかに無防備なものかはあらためて説明するまでもないことだ。』と記載されている。この文章を読みなおすと、六畳の散らかった部屋で窓際に置かれた暗い机を前に座っていた私は数年ぶりに興奮していることに気が付いた。絶対に私がこの悩まし気な風習を自分の目で確認する必要がある。この現場が生じる現場に立ち会う必要があると、無意味な責任感を強めた。
阿波と名前がつく十余りの駅の内、跨線橋がある駅を私は、しらみつぶしに探していった。インターネットとは便利なものである。私は一つずつ探していった。逐一駅の画像や駅舎の情報が掲載しているホームページを見ていくと、そのほとんどは一面一線の単線か、単ホームの駅であることがわかった。その内の一つに唯一、三面五線という大型の駅があることがわかった。それが阿波池田駅という駅だった。駅舎自体は、島式二面四線と相対面式一面一線大きな駅舎であり、もちろん跨線橋が設置されている。ここに行って奇妙な風習の実態を確認する必要がある。私は明日、出発することを決めた。
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