魔族領 九

 休憩を終えて荷物をまとめると、ナイアが俺の傍に寄ってきた。


『その荷物はワシが持つよ。そのほうが早く歩けるじゃろ?』


 ナイアは有無を言わさずに大きなバックパックを軽々と持ち上げて背負う。


『魔王様の手を煩わせる訳にはいきませんから、俺が持ちます』

『良いのじゃ。ワシは魔王じゃが、それは恩恵があってのことじゃし、それに今のワシはただの魔人じゃ』


 そう言って俺に手を伸ばし、手を取れと催促する。

 大きな布をローブのように身に着けた魔王ナイア。

 やはり露出度が減ったからか印象が全く違う。

 肌の色だって俺とそんなに変わらない。

 ナイアの手を取ると不思議と懐かしく感じる。

 母さんやレイナと一緒にいるときみたいな。

 野外実習から数ヵ月。ずっと気を張っていたものが切れたのか──


『どうした? 何かあったか?』


 涙が零れていた。

 邪悪な魔王とされるナイアの優しい声音に俺の涙は堰を切ったように流れ落ちる。


『すみません。こんなつもりじゃ……』

『良い良い。もっと近う寄れ』


 ナイアの胸に抱き寄せられると、彼女は俺の頭を撫で始めた。

 次第に彼女の手の力が強まり、俺の顔はローブの切れ目から侵入して、ナイアの豊穣の象徴に埋もれてしまう。


『ニンゲンはこんな子どもに過酷な扱いをしおって……女神はなんてものをこの子に背負わせたんじゃ……』


 温かい素肌──甘い芳香。

 浸っていたいところだけど、柔らかい温もりが俺の鼻と口を塞いでいた。

 く、苦しい……。

 俺はたまらず、ナイアを二の腕をトントンと叩いた。


『ん? どうした? 甘えたいのか? いくらでも甘えても良いのじゃぞ』


 ナイアは俺の頭を頬ずりして更に力強く抱き締める。

 俺がもう少し大人になってから甘えたいものだ。

 それから少しして、ナイアはようやっと気が付いたようで──


『ああ、済まぬのう。口を塞いでおったか』


 と言って、緩めてくれたけど抱き締めるのは止めてくれなかった。


 それからしばらく歩いて、日が陰り始めてから野営を始める。

 この日の野営から俺は見張りをしていない。


『ワシはそれほど睡眠を必要としていない。クウガの傍に居てやるからぐっすりとお休み』


 ナイアはずっと俺の頭を擦ってくれていて、朝、目が覚めても俺の頭に手を置いて傍らで佇んでいた。


 そうやって数日の間、メルダへ向かう山道を進む。

 山間の開けた場所で野営を張った翌朝。

 ナイアは何も言わずに俺のバックパックを背負うと「さて、行こうか」と出発した。

 周辺は霧で視界が悪い。

 しかし、この日、初めて人の気配を察知した。


『馬車が向かってきています』


 父さん譲りの索敵で数キロメートル先に馬車が向かっていることに気がつき、ナイアに伝える。


『そうか? ワシにはまだわからん。だが、警戒は怠るなよ』


 まだ、先だけど数十分とせずにすれ違うだろう。

 腰に下げる短剣の柄を右手で握った。


 時間とともに霧が弱まり視界が遠くまで届き始める。

 次第に霧の向こうに馬車の影が見えた。


『クウガの索敵能力は凄まじいな。ワシの部下にしたいくらいじゃ』


 ナイアの褒め言葉を俺は嬉しく感じる。

 歩みとともに影だったものがくっきりと見え始めた。

 二頭立ての幌付きの荷馬車。

 それもセア辺境伯家に行ったときに乗った馬車のようにガタガタという音がしない。

 車輪が地面で揺れる音はするけれど、馬車が音に同期して揺れる様子が見えない。

 大きくなる音とともに御者席に座る人の姿も映る。


 黒い髪……。


 まぶたの裏に黒い髪の映像が過ぎった。

 セルム湖での校外実習。

 頭を打たれ弾けたミシア先生。

 次々に打たれて死んでいくクラスメイトたち。

 頭にカーッと血が上り、視界が赤く染まった。

 たとえそれが前世の俺のクラスメイトだったとしても、平民の俺を受け入れてくれた現世の教師やクラスメイト、それに、未だに会えていない家族のことを思うと、自然に身体が動く。

 俺は駆ける。

 右手の短剣を抜いた。


「みんなの敵だ!!」


 飛び上がり、剣を振り下ろし、そして、切り返す。

 仕留め損じたか。

 もう一撃──。

 というところで、ナイアが俺の手を掴んだ。


『止めるのじゃ。十分じゃろ』


 ナイアの力はとても強くて俺は右手を動かすことができずにいた。

 黒髪の異世界人は両腕を切られ御者席から転げ落ちる。


「いでぇぇぇぇえええええええっ! いでぇぇぇぇよぉぉぉぉおおおおお」


 腕を切られた痛みでのたうち回る異世界人。


「お前らが殺した奴らはそんなもんじゃなかったッ!」


 気が付いたら俺はまた涙をこぼしている。


『ナイア様! 止めないでくださいッ! 俺はこいつらを殺さなければならないんです!』


 そうして右手に力をいれても微動だにしない。


『殺したいのはわかったが、話を聞いてやってからでも良かろう? 向こうから来たのならクウガの家族のこともわかるかもしれん』


 ローブ姿でフードを深くかぶるナイアはそう言って俺の右手から短剣を取り上げる。


『殺すのはそれからでも遅くない。そうじゃろ?』


 そう言って俺を下ろして地上に立たせると、腕を切り落とされて血塗れでのたうち回る異世界人の傍らに立つ。


『ワシとて異世界人に思うところがないわけではないのじゃ。さあ、回復してやろう』


 俺はまだ右手を掴まれていて動けない。

 ナイアは右手を異世界人にかざすと燐光が舞い、異世界人の腕に纏わり付く。

 ぼんやりとした光がぐるぐると異世界人の腕を周り、次第に腕が再生していくのが見えた。


「い! 今のッ!」


 荷馬車から女性の声がする。

 ガタガタと大きな音をさせて、異世界人の女が駆け下りた。


『あの! 馬車に死にそうな人が居るんです! 今みたいなので助けてもらえませんか?』


 異世界人の女性は大きな声で懇願した。

 それも、ナイアに伝わる魔族の言葉で。


『ほう……ニンゲンが魔族の言葉を話すのか……そういえば勇者もそうじゃったな』


 ナイアは異世界人が魔族の言葉を話したことに感心。

 俺も魔族の言葉がわかるし、これは転生だけじゃなく異世界に転移した場合もそうなのか。

 きっと前世の俺のクラスメイトだろうけれど、俺はクラスで浮いていたし、前世の記憶とクラスメイトを照らし合わせても当時だと十五歳くらいの少年少女とアラサーになろうとしているだろう彼らの面影と重ねようがない。

 そう考えたら、ふとニコアのことを思い出した。彼女も獣人やエルフ、魔族の言葉がわかるのだ。

 もしかして──と、思ったけど、俺を魔都に入れなかった貴族の人間。そんなはずはないだろうと考えないことにした。

 前世のクラスメイトと同じく、あのとき俺を放り出したニコアも、今の俺には知らない人でしかないのだ。


『俺からもお願いします。今ので彼女たちを治してください! お願いします』


 異世界人の男は地べたに這いつくばって土下座した。

 この世界には謝罪やお願いをするために土下座をするという文化はない。

 平伏は服従を意味する。それは魔族の間でも同じらしい。


『貴様らを末席に加えるつもりはないが、見るくらいはしてやろう』


 ナイアは彼らの言葉を聞き入れて、荷馬車の後ろに回り込む。

 俺は手を引かれているのでナイアと一緒に荷馬車に積まれていた女性たちの姿を目にした。

 四肢が傷み腐り落ちている。

 腐臭がして不衛生。ひどい有様だった。


『お願いします。この人たちを助けてください』


 異世界人の女が縋るように言う。


『治したら事情を聞かせてくれるか?』

『もちろんです』

『うむ。ならば、貴様らが命を賭して、この者らを救おうとした想いに免じ、回復してやろう』

『ありがとうございます!』


 ナイアは彼女たちの治療を承諾。


『クウガ、敷布をしいてくれないか?』


 荷馬車から彼女たちを下ろして敷布に寝かせるのだろう。

 ナイアはそう言って背負っていたバックパックを下ろした。

 俺はバックパックから大きめの敷布を取り出して荷馬車の後ろに広げる。

 もともと四人が寝そべって多少の余裕がある敷布である。


『では、ここに寝かせてくれ』


 魔王の言葉で異世界人の男女が荷馬車から女性を一人ずつ下ろして横たわらせた。

 彼女たちの様子は酷い。

 ぜぇぜぇと息をしていて生きているのすらやっとの状態だろう。

 ひとりは俺よりも背が小さい女の子。

 きっと俺と同じ年くらいなんじゃないか。

 ひとりは妙齢の女性。

 ひとりは美熟女に見える。

 皆、手足が貫かれた傷があり、そこから腐って異臭を放っていた。

 顔も腫れて目が潰れ喉を砕かれている。

 これで生きているのが不思議なくらいだった。

 身体は綺麗に洗われているようだから、おそらく、異世界人たちが悪化しないように世話を焼いたのだろう。

 さらに馬車から一人、姿を現す。

 異世界人の女の肩に担がれて金髪碧眼の女性が馬車から下りてきた。


「私は後で良いからお母様と妹たちを先に……」


 とても綺麗な女性だ。

 彼女も傷が酷いが声を出して喋っていた。

 先に下ろされた女性たちと違って手や足が片方ずつ動いているらしい。

 前世の俺が死ぬ間際に体験したけど、動かす度に痛みが走るんだよね。

 なのに彼女は顔をしかめながらも寝そべる女性たちを優先させたがった。

 人間の言葉が分からないナイアに彼女の言葉を伝えると、


『まとめてやるから、一緒に寝かせておけ』


 と、返してきた。

 ナイアの言葉を伝えると、彼女は異世界人の女に肩を担がれて敷布に腰を下ろした。

 それからゆっくりと仰向けに寝かされる。

 おそらく座っていられないのだろう。それでも痛みを堪えて気丈な表情を崩さない。

 打撲痕や潰れた片目を見るに相当に痛いだろう。

 きっとそれが彼女なりの矜持なのかもしれない。


『うむ。準備はこれで良い。さあ、回復してやろう』


 先に異世界人の男を回復したときとは違い、両手を彼女たちにかざした。

 詠唱はない。

 ナイアの両手から燐光が舞い、彼女たちを包み込む。

 この魔法、覚えておきたい。

 ナイアの魔法で起きる変化を深く観察する。

 この回復魔法は回復魔法に見えるけど、まるで組織を再生するかのようだった。

 魔力が自己再生能力を活性化させて本来の姿に戻していく。

 かなりの魔力を使っているがナイアは魔王。その豊満な身体に蓄える魔力は無尽蔵。

 俺にはそう見えた。


「すげぇ……」

「回復魔法ってこんなんだったっけ?」


 金髪碧眼の女性たちがみるみるうちに回復する姿を見て異世界人の男女は驚嘆。

 ナイアは治療を終えて俺の傍に近寄った。


『回復はもう良いじゃろう。しばらくはまともに動けんじゃろうが、少し休めば動けるようになる』

『ありがとうございます。本当にありがとうございます』


 異世界人の女は地べたに頭を擦り付けてナイアに感謝する。


『礼ならクウガにもしてやってくれ。お前らを殺しても致し方なかったんじゃ。それでも自分の気持ちを押し殺して堪えてた。殺されなかったことに感謝を示してやってくれ……これからの話の内容次第では殺すかもしれんがね』


 ナイアはそう言ってフードを後ろにまくる。

 顔と角を彼女たちに見せた。


「魔族ッ!!」


 異世界人の男は後退ったが、女は姿勢を変えず。

 敷布に座る女性の一人はナイアの正体に気が付いたらしい。


「魔王ナイア……死んでなかったのね」


 彼女はナイアを真っ直ぐに見据える。

 座るのでやっとなのか、身体を起こしているだけで精一杯の彼女。

 その近くでは異世界人の男がワナワナと震えだした。


「魔王だって!?」


 震える異世界人を前にナイアは俺から取り上げた短剣を俺に手渡す。


『これは返しておくぞ。それと此奴らと話がしたい』


 俺に剣を返したのは万が一のときは人間を殺しても良いということだろう。

 話がしたいというのは、そのための安全を確保しろということでもある。

 こうして異世界人との対話が始まった。

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