辺境伯家 二

 クウガに送り届けられたニコア・イル・セアは使用人でニコアの世話を担当するリンカ・ル・ジノによって宿屋に招き入れられた。

 宿のエントランスには多くの貴族たちがいて、


「ニコア様──」

「おお、ニコア様がいらっしゃった」


 と、口々に彼女の名を言葉にする。

 彼らは野外実習で湖岸に出ていた者たちの多くが犠牲になっていたことを知っている。

 だから、あの場に行っていたニコアも犠牲になったのだと思っていた。


 ニコアは貴族たちの姿を見て頭を下げ、リンカの手引で階段を上り、ゴンドを始めとしたセア家の家族が休む部屋へと通してもらう。

 リンカが扉をノックして「ゴンド様、ニコア様が参りました」と扉越しに伝えると、


「ニコアだと! 通せ! 早く!」


 と、ゴンドの大声が耳に届いた、


「では、ニコア様──」


 リンカが扉を開いてニコアを部屋に入れると、ゴンドがニコアに駆け寄って抱き上げた。

 そして力の限りキツく抱きしめる。


「ああ! ニコア! 良く無事で──本当に良く無事でッ!!」

「お父様! 痛い! 痛いです!」


 ゴンドから逃れようとニコアは力の限り手で押し退けようとするが力が足りず「離して」と抵抗。


「ああ、済まない……ところで随分と臭うな……」


 ゴンドが鼻をつまむと、リンカが何かに気がついた。

 リンカはこっそりとニコアに近寄って下を指差す。


「ニコア様。下が汚れておりますよ。先に湯浴みをいたしましょう」

「あ……」


 ニコアは気がついた。


「ねえ、私、クウガにずっとおぶさってたんだけど、これって私……」

「きっとクウガという平民もご存でしょう」

「え……あ」


 ニコアは思い返した。

 湖岸でおもらしをしたこと。

 股が濡れているのは把握していたけど恐怖のほうが勝っていた。

 私……クウガに……。

 思い出したら無性に叫びたくなったニコアは、


「ぎゃーーーーーーーーっ!!」


 と、顔を抑えて大声を上げた。


 ニコアはリンカの世話で湯浴みをして身体を清めると着替えを済ませて仕切り直した。


「ただいま戻りました。ご心配をおかけいたしまして申し訳ございません」


 父親のゴンド、母親のセイラ、祖母のミローデに頭を下げる。

 ここはセインとレネルの二人の弟の姿もあった。


「みんなご無事で本当に良かった……」

「本当に……ニコアが無事に戻ってきて嬉しいわ」


 セイラがニコアを抱き締める。

 ゴンドと違って優しく、生きている感触を確かめるように。


「これで全員と言いたいところだけど、レイナがまだよね」


 ミローデは一人娘の心配も当然している。


「それとレオルは帝国にいたわね」


 ミローデの言葉が続いた。

 レイナはゴンドの妹。レオルはゴンドの弟。


「無事だと良いのだが──。レイナがラナと一緒だとするならば私たちが逃げた西門ではなく北門を使ったはずだ。あそこから北上すると険しい道を越えなければならないがメルダに抜けるはずなんだ。メルダから北に抜ければ旧魔族領。そこまで逃れられば当面は安全と言えよう」


 ラナとロインの家は北門が最も近い。そのため、ロインは安全を確保しながら家族とレイナを北門に逃した。

 そして、湖岸で野外実習をしていたクウガとニコアは北門より西門が近く、守衛に放り込まれた荷馬車は西門から抜けるコースを取った。

 セルム城も同じく北門よりも西門のほうが距離が短い。そのため、セア辺境伯家は西門から馬車に乗って逃げたのだ。

 西門から逃げた者たちは海岸に近い街道を通り北上。北門から出たものは山間の街道を抜けて男爵領を抜けてからメルダに入るコースを取る。

 ただ、北門から出た者たちは森の中の道なき道を通るため怪我で動けなくなって諦めたものはそこで脱落している。

 なお、貴族たちの大半は西門から出ている。北門から出た難民のうち、貴族だと言えるものは片手で数えるほどもいなかった。


「そうですか。では、このまま北へ向かうのですか?」


 状況を知らないニコアはゴンドに訊いた。


「ファルタに向かう。ここには昔、建造途中で破棄された軍港と船があるんだ。それを急いで整備させて川を渡ろうと思う」


 ゴンドは昔、ファルタでの軍港の建造に従事していた。

 前当主ガレスの件で協力を停止したが、帝国と勇者がファルタを離れていったことで船と港をセア辺境伯に管理を移管し、その後のメンテナンスを行っていた。


「操舵士と航海士を確保すれば出港できるはずだから数日かけて準備をしたのちに魔族領に逃げる」

「それって宜しいんですか? 民はどうするのです?」

「もう領民だなんだと言っていられないんだよ。このセア家が残るか滅ぶかの瀬戸際なんだ。私の代でセア辺境伯が終わったなんて思われたくない。だから私は生き延びるよ。それに今は帝国が領地を奪って運営を始めている。私たちの手は既に離れているんだ。だから私たちは逃げる」

「そうですか……わかりました」


 ニコアは腑に落ちないが納得はした。

 貴族と平民。

 貴族が生き残れば家はいくらでも再興させることができるはず。

 ニコアはそう思わざるを得なかった。


 それから数日かけてファルタに到着。

 ファルタは人口二千人ほどの町で産業は漁業が中心。

 そんなわけで川岸や海岸には小舟が多く停泊していた。

 ゴンドはファルタの宿を全て押さえ、貴族に貸し与える。

 平民は町に入り切らないので街道沿いだったり町の郊外の空き地なりで野宿することを咎めることをしなかった。

 帝国軍が攻めてきた時に彼らが外壁の代わりになるからだ。

 それから直ぐに操舵士と航海士を確保し軍港と船の整備に着工。

 その間、ファルタでの漁を禁止する。

 ちょうどその頃からクウガが難民やファルタの町民を対岸に送っていたのだが、ゴンドは高を括って安心しきっていた。


 領民が対岸に渡りきった二日後。

 ゴンドはある貴族から報告を受ける。


「ゴンド様。町に人がおりません」

「何だと! 何故!?」

「わかりません。ただ、町にあった漁師の船も全てなくなっております」

「何だって!? まさか……」


 勝手に逃げたのか!?

 言葉にならない。

 これではまずい。


「私たちも逃げよう。急ごう」


 ゴンドの声で町に残った貴族たちが連泊していた宿に使いを送り急いで船に乗るよう指示を出した。

 だが、残酷なことにこのタイミングで帝国軍がファルタに向かっていることがわかる。


「ゴンド様! 帝国軍が見えてます! 急がなければ!」

「くそっ!」


 セア家の家族をゴンドは船に乗せそれから自分も乗船。

 他の貴族が次々と乗ろうとしている途中だがゴンドは出港を指示。


「船を出せ! 急げーー!」


 港からは「ゴンド様! お待ちを! お待ち下さい!」と阿鼻叫喚する声が響く。

 船上は多くの貴族とセア家と使用人たちの姿があった。

 船に乗れた者たちは安堵するも、港に取り残された者たちが帝国軍によって殺される姿を目の当たりにして戦慄。

 しかし、それだけでは済まなかった。


「お父さま、伏せて──ッ!」


 ニコアは見覚えのある男がライフル銃を構えている姿を見て叫んだ。

 だが、遅かった。

 銃声と共にゴンドの頭が吹き飛んだ。

 肉塊が飛び散って船上の貴族たちに降りかかる。


「ゴンド──ッ!」


 倒れるゴンドに居ても立っても居られなくなったセイラがゴンドに駆け寄った。


「お母さま、ダメッ!」


 ニコアの声は届かずに、セイラの胸に大きな穴が開く。それも二番目の弟のレネルを巻き込んで──。


「お母さまーーッ!」


 近くでしゃがんでいたセインが倒れるセイラに向かおうとしたところセインの頭が消え去った。


「セインッ! セインーーーッ!」


 帝国兵による港からの銃撃で多くの貴族が命を失っている。

 誰が生きているのかもわからない。


「どうしてよッ! どうしてよぉーー……。私が何をしたって言うの? どうしてこんなことにならなきゃいけないの?」


 ニコアは自身の無力さに泣いた。

 湖岸でだってそうだ。

 ニコアはただ泣いているだけで、クウガが助けてくれても何も出来ずただかっこ悪く小便を漏らすだけ。

 それでも温かく優しく撫でてくれたクウガをまるで自分の王子様だと見紛うほどに自分の置かれた状況に安心しきっていた。

 それが銃声と共に壊れていく。


「クウガ……クウガ……私の王子様でしょ………助けてよぉ……あああ………」


 ニコアはクウガの顔をまぶたの裏に描いた。

 彼は魔法を使う。

 学校生活で見せてくれたいくつもの魔法。

 その一つに、右手に付けているアンクレット──ついこの間、ラナに返すつもりで探したアンクレットの──。

 女神ニューイットの恩寵で探し当てたアンクレットのその持ち主が最も得意とする魔法。

 このアンクレットは爆炎の魔法少女の二つ名で名を馳せるセア領最強の魔道士のもの。

 クウガが「母さんの得意な魔法らしいんです」と教えてくれた魔法。

 火と水が起こす爆発をニコアは思い描いた。

 女神の恩寵は彼女の願いを了承。


「みんな、しんじゃえーーーーーーッ!!」


 ニコアの叫びで港が大爆発。

 大船が停留していた軍港は跡形もなく吹き飛んだ。


「ああああ、お父さま……お母さま……セイン……レネルぅ……うう……ううう………ああああああああああっ」


 銃弾が止む。

 帝国軍の精鋭部隊は、その多くが爆発に巻き込まれた。ニコアはそれを知る由もなく、ただ、家族を思って泣き叫んだ。

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