入学

 コレオ帝国の北西部に位置するセア辺境伯領。

 川幅が3kmに渡る広さのファルタ川で隔てた国境の北は魔族領に面しており、ファルタ川の河口から南へと砂浜が続く。

 セア領は平野部が多くなだらかな丘陵が東から西の海岸に向かって伸びている。所々に森林が茂るものの比較的住みやすく農業を営むのに適した環境でもあった。

 東側の領境は森で隔たれていて隣接する領はどこぞの伯爵家の領地。そこに設けられた関所がアスヴァルの砦と呼ばれている。

 セア辺境伯領の領都はセルム。

 人口七万人ほどの中規模都市である。

 セルムの南に少しばかり広い面積を誇るセルム湖があり、そのセルム湖沿いにこの領都は発展を遂げた。

 セルム湖から西に伸びる川の名前もセルム川と名付けられ数十mほどの川幅を維持して西の海に流れ込んでいる。

 最後に、セア辺境伯領は数年前まで魔族領以外にももう一つの国境を有していた。

 それが北東部に存在したメルダ公国。

 メルダ公国は異世界人を中心に編成された帝国軍の手によって滅びた。

 まあ、前振りはここまでにしておいて──。


 今日はセア領民学校の入学式だ。

 十歳になる年齢から六年にわたって通うこの学校はセア領全土から集まってくる子どもたちが集う謂わば上級領民の巣窟。

 セア領内の貴族の子弟が通うこの学校に平民の俺が紛れ込んでいる───とはいえ、平民は俺だけじゃなく他にもいるわけで、俺だけが特別というわけではない。

 領民学校はセルム市の内壁の内側にそれなりの敷地面積を有している。広いグラウンドと大きな校舎は、前世の世界に存在する学校よりもずっと立派な施設に見えた。

 その立派な校舎の大講堂で今日、入学式が行なわれているわけだ。


「ねえ、あなたのお父様、とても悪目立ちしていない?」


 俺の隣に座る可愛らしい女の子。

 ニコア・イル・セア。


 入学式の教室でも彼女は俺に話しかけてきた。

 その時の様子を振り返るとこんな感じで──。


「ごきげんよう。お父様が昼食会に招待したクウガは私と同じ教壇の正面ね」


 俺は左。彼女は右。

 席は最前列のど真ん中。

 話しかけてきたニコアの目は笑っていなかった。

 ちょっと怖かったので丁寧に応対させていただく。


「おはようございます。ニコア様。この私めがニコア様のお隣とはとても烏滸がましくて恐れ多いです」


 先に座ってた俺は立ち上がって荷物を持つと、彼女が俺の袖を引っ張った。


「ねえ、席は決まってるのよ。見たでしょう? だからここに座りなさい。別に私が座るのを待たなくても良いから」


 席順は事前に決まっていて正面のボードに座席の位置の絵と名前が書いてあってそのとおりに座ることになってる。

 けど、席順だと平民の俺と辺境伯のご令嬢が隣り合っていた。

 座りなさいと言われて隣の椅子に座るのは身分的に憚られる。

 俺は床に正座して「はっ、ははーっ」と応じてから頭を下げることにした。


「あのね、そうやって地べたに座って平服もしなくていいから。私のこと一体、何だと思っているのよ」


 そんなやり取りがあって、結果的に俺も椅子に座ったわけだけど、椅子に座ってから直ぐにニコアが話しかけてきた。


「ねえ。クウガ。あなたどうやって満点を叩き出したの?」


 試験の話だ。

 選考試験の結果でどんな高得点を叩き出したのか知りたいのだろう。

 前世の知識チートがあるからですとは言えず──。


「少しばかり頑張りまして。ほら、僕の両親ってアレですし──」

「ちなみに私、選考試験で及ばなかったのは武芸だけなのよ」


 つまり、このニコアは武芸以外は満点で選考試験を通ったということを言いたいのか。

 ということは武芸で負けたのが悔しいとでも?


「左様でございますか……ですが、私には窺い知ることができないことなのでなんとも……」

「そういうことじゃないの。もう、良いッ」


 ニコアが頬を膨らませてプンスカと怒る。

 さすが九歳女児。可愛い。


「あなたのお父様は冒険者だったわね。それも相当に有名なんでしょう?」

「それよく言われるんですけど僕、良く分かってないんですよね。家では母さんの尻に敷かれてるただのヤサオですよ?」

「それは、あなたのお母様も相当なお方なんでしょう? 私のおばさまが敬愛するほどですもの。大したことがないなんてありえないじゃない」

「いや、レイナ様はあれはあれで──」


 レイナは日を追うごとに増していくポンコツで人を扱き使って俺のことをお茶出しマシーンみたいにしてる怖い人とはニコアには言えない。

 すごく優しくて良い人なんだけどね。


 その後、直ぐに教師が来て話はそこで終わって入学式の会場──大講堂に移動。

 大講堂では親が後ろに居るわけで、ちっぱい母さんは胸元が控え目なワンピースのドレスに身を包み美麗さを存分に表現しているけれど、中背でスラッとしてる父さんはいつもの通りで各ご家庭のお母様たちや女性教師たちの視線を集めている。

 今日はいつもと違って子どもという異性からのアプローチをガードする防具が無い。母さんの横で何人かの女性に話しかけられていて、母さんは面白くなさそうな顔をしていた。

 なお、リルムとクレイは家でレイナが預かってくれている。

 公爵家のご夫人だと言うのにレイナが自ら申し出てくれて、母さんは遠慮したけど半ば強引に送り出された格好だった。

 チラチラと後ろを見る度に違う女性と会話をしている父さんは平民だと言うのに冒険者としては稼いでる方だからか着ている正装が妙に決まってる。

 子どもとしてかっこいいお父さんというのは誇らしいけれど、ここまであからさまに視線を集めるのは妙に恥ずかしいものだ。


「──申し訳ございません」

「申し訳──って、クウガとは今まで何度かお会いしてるけど、まともにお話をしたのは今回が初めてでしたね。とても同じ十歳になる子どもだと思えませんわ」

「いえ、ほら、僕、平民ですし……身分の高い方には謙らなければ窒息死しそうになる習性があるんです」

「ここは学校ですからそういうの関係ないってお父様が言ってましたわ。領民学校は優秀な平民を受け入れてるし、これで私があなたを謙らせたらお父様に叱られちゃいます。なので普通に接してくださいませ」


 俺とニコアが会話する様を後ろの席の貴族の子弟も見てるわけだ。


「なあ、あの子、平民だってよ」

「でも、何で辺境伯のご令嬢とあんなに親密にしてるんだ?」


 ボソボソとした声でしっかりと俺の耳に入ってました。

 平穏な学校生活を送るべきか、攻めた学校生活を送るべきか。

 きっとここが分かれ道なのかもしれない。

 そんなことを考えながら壇上で祝辞を紡ぐゴンド・イル・セア辺境伯の声に耳を傾けていた。


 大講堂での入学式が終わり、親と一緒に教室に入る。

 母さんが俺の席の傍らに立っていて、俺の隣にはニコアのお母さんのセイラが立っている。

 彼女もニコアの弟を置いてきたようだ。

 この教室にいるのは子どもとその母親たち。

 男どもは教室の外から教室の様子を伺っていた。


「入学おめでとうございます。このクラスを担当させていただきますミシア・ル・ムディルと申します。何事も無ければ六年間のお付き合いになると思います。どうぞよろしくお願いいたします」


 落第や成績不良でクラス配置が変わるなどがなければミシアと名乗った女性がこのクラスの担当をするらしい。

 落第は生徒だけでなく先生にもあるから先生も頑張るということだろうけれど。

 それから授業のある日の説明や教科ごとに必要な準備、それと机に置かれた教科書などの案内を受けた。

 親がここにいるのはこの荷物を持ち帰るためだな。子どもの力じゃ持ちきれない重さだ。

 そうして一通りの説明が終わると最後に先生のお言葉が紡がれる。


「最後に、この学校は身分に問わず生徒を受け入れております。平民の子もおりますし、商人や農民の子もいらっしゃいます。貴族は当然ですがこちらも男爵や騎士爵、上は辺境伯の子弟も、領民学校では身分で教室を隔てることがございません。ですので学校内で身分を振り翳して他の生徒を蔑ろになさらないようにお気をつけください」


 先生はそう言って「では、今日のところでこれで終了します」と挨拶をして入学式の一日が終わった。


 教室を出ると廊下で女生徒に絡まれている父さんの姿を発見。

 一人が父さんに話しかけていて、その子の周りに数人の女生徒がうっとりした顔で父さんを見ていた。


「あの、この間はありがとうございました。お父様が大変お世話になりまして、お名前を伺っておりましたが、お父様に聞いた話よりもずっと素敵なお方で──こうしてお話できて嬉しく思います」

「それは、どうも……」

「こちらにいらしたのはお子様の入学か何かですか?」

「そうですね。息子が入学式で……、あ、ちょうど良いところに」


 俺と母さんの姿に気がついた父さんが困った表情を俺と母さんに助けを求める。

 母さんは辟易して「ふぅ」とため息をつくと、手に持っている教科書たちを父さんに預けた。


「こちらが私の息子でして……」


 女生徒たちは母さんには目もくれず、父さんの声に反応して俺を見る。

 目が合うと父さんと俺の顔を見比べた。


「凄い! 可愛らしいですね! でも、お母様似なのかしら?」


 彼女たちは俺の顔が父さんに似ている箇所が少ないことに気がついたらしい。

 俺は母さん似なのだ。

 母さんを知っている人に言わせると、俺は『小さい頃のラナに瓜二つ』と口を揃える。

 それにしてもこのアラサー美丈夫は相手の年齢を選ばないらしい。

 しかも、十五歳位の女の子には母さんの防衛策の効果がないようだ。

 彼女たちの作戦の方向性だ。将を射んと欲すれば先ず馬を射よという前世の格言を俺で実感することに──。


「クウガくんっていうの?」

「可愛い!」

「明日からよろしくね!」


 俺にやたらとペタペタ触って弄り始めた。

 こうして彼女たちの足がかりが俺ということになり、徐々に攻めていくんだろう。

 この世界に生まれてもうすぐ十年になる。

 俺は学んだのだ。

 暴風のような少女たちが去り、母さんは父さんの手を取った。


「さあ、帰ろう」


 俺の手は……。

 俺は少し寂しい気持ちで父さんと母さんのあとについていった。

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