9.さようなら。今まで、本当に楽しかった。

「滑川くん、またあたしを呼んで、何したいの? またお家デートにゃの~~?」

 俺の部屋で、依田先輩が媚を売るように首を傾げた。その仕草も、以前なら素直に可愛いと思えたんだろうか。「あっ!」と、依田先輩が芝居がかった仕草で顔を上げた。

「もしかして、またおくすり欲しい? いっぱいあるよ。いつも持ってるんだあ。なんだったら、」

「依田先輩」

 俺は静かに切り出した。そして、黙って依田先輩に佐藤部長のメモを見せた。それを見ても、依田先輩は何も言わなかった。眉ひとつ動かさなかった。

「ああ、これメモ? トリップ入っちゃってた時に落っことしちゃったのかにゃ〜。あは、あはは、」

 俺は無言のまま腕を伸ばして、依田先輩の首元のTシャツをぐいっと掴んだ。

 流石の依田先輩もびっくりしたように目を丸くしたが、表情は微動だにしなかった。

「佐藤部長と繋がっていたんですか」

 俺の声はがくがく震えていた。

「俺に隠して、浮気していたんですか」

「浮気?」

 依田先輩はいつものように、舌っ足らずの口調のまま喋る。

「依田先輩、あなたはクズだ。俺の純情を弄んで、からかって……。挙句、クスリまで渡して。最悪だっ……。二度と俺の前に現れないでくれ。帰ってくれ」

 俺は玄関のドアを指さした。依田先輩は余裕綽々の顔で、俺を上目遣いで眺めていた。

「なんですかその顔は。自分が間違ったことをしていない、とでも言いたげな」

「間違ってないよ? 滑川くん。あなたはーーー」

 依田先輩は口を開いた。

「何か勘違いしてるね。愛は、有料なんだよ」

「……有料?」

「そう、有料。無償の愛なんて存在しないんだよ。駄目だよ、テーマパークにはお金を払わないと。それとも、まさか無条件で好いてくれる人をずっと求めていたのかな? 自分は人間が嫌いだって、ひねくれておきながら? 愚かだねえ〜。

 前々から思っていたけど、人に好かれたいと思いながら、人を拒絶して、あなたという存在は捻れているね。人の上辺だけを見て、軽蔑して、自分のことを尊大な人間だと心の底では思ってる。そしてストレートに人と関われない代わりに、文章を使って人に好かれようと思ってる。まさかそれがバレてないと思った? そんなわけないよね。多少文章が書けたところで、文学に逃げたところで、あなたは親からもらったお金を食い潰すよくいる大学生に過ぎないのにね。

 自分の愚かさがわかったかにゃ? 女性のことを、救われない自分を無条件に救済してくれるママだと思ってたんじゃない? 懺悔した方がいいよ。じゃあね。良い授業だったよね。それじゃ、」

 俺は帰ろうとした依田先輩に、床に落ちていた厚い文庫本を思いっきり投げつけた。文庫本の角が依田先輩の頭に当たり、依田先輩は「ぎゃっ」と悲鳴をあげながら倒れた。

「自分のことをテーマパークって言うんなら――――」

 俺はもう1つ文庫本を手に取って、

「最後まで夢を見せるのが筋だろうが!!」

 馬乗りになって、依田先輩の頭に殴りかかった。

「滑川くん、ちょっと、や、痛、」

 俺はとにかく依田先輩を殴った。やがて文庫本がぐしゃぐしゃになってきたので、

「やめて!! 助けて!!」

 弱々しく叫ぶ依田先輩の首を絞めた。

 しゅー、しゅー……と、しばらく俺の荒い息遣いが響く。痙攣した後に、依田先輩は息をしなくなった。それを確認して、俺は握りしめていた手を首から離す。

 動悸が酷い。景色が揺らぐ。手の汗がすごい。依田先輩の首の感触がまだ残っていた。気持ち、悪い……。

 し……ん、と静まり返った空気を裂くような耳鳴りがする。もう動かなくなった依田先輩の鞄から、キルキルキララのマスコットが力なく項垂れていた。

 秋の夕暮れだった。サークルは全てがめちゃくちゃになり、文学賞に出す小説は完成しなかった。

 俺は、作家になることが出来なかった。

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