8.ラブ・スイート・ドリーム

 外に出ることができない。この息苦しい空間に、ずっと引きこもっている。

 大学に通うことをやめて、俺はひたすら家にいた。最低限の買い出しをすれば、あとはもう何もしない。不自由な自由。もちろん、サークルにも顔を出していない。

 あれからずっと呼吸が苦しい。過呼吸気味の中、俺は生きているのか死んでいるのか、わからない状態にあった。……でも、食料品は買いに行かないと、本当に死んでしまう。買いに行きたくない……。

 対人恐怖がますますひどくなり、いつにもまして人が怖くなった。全員、俺のことをゴミみたいな顔をした浮浪者もどきだと思っているんじゃないか。事実、俺はもうそんな風貌に近くなりつつあった。

 死にたい。楽になりたい。これ以上は苦しい。

 何が大学だよ。小説だよ。サークルだよ。新人賞だよ。

 でも、今までの人生の中、わずかながらきらめいていた日常があった気がする。もしあったのなら、それは……。

『とんとん』

 ピンポン、と玄関の外からチャイムと声が聴こえた。依田先輩の声だった。

『とんとーん。滑川くん、いますか。あ、もしかして、いない〜?』

 俺はゆっくりと立ち上がった。筋肉が衰えて、息切れがする。それでも玄関の方に歩いていった。来てくれたんだ、依田先輩……。

 玄関を開けると、にこにこ笑顔の依田先輩が出迎えてくれた。

「よかった~。滑川くん、いたんだあ。前にお家デートした場所、ちゃんと覚えてたよ。……もしかして、ずっと引きこもってる? ずっとしんどい?」

「は、はい」

 俺はかすれ声で相槌を打った。にへへ~、と依田先輩がやさしく笑った。

「大丈夫だよ。今日は滑川くんにプレゼントをしたいものがあるんだよ。これこれ~~」

 依田先輩は小さなカバンから何かを取り出した。それは、透明なビニールに入ったピンク色のファンシーな錠剤だった。

「これは……薬、ですか?」

「そうだよお〜。これすごいんだよ。びっくりするような場所へ行ける、魔法のお薬なんだよお〜」

「すごい……?」

 一拍おいて、俺はその『すごい』の意味合いを理解した。

「だいじょーぶだいじょーぶ。これ、合法だよ?」

 俺は、驚く元気がなかった。へなへなと崩れ落ちそうになったので、依田先輩に踵を返して無言で部屋に戻ろうとした。もう何もかもがどうでもいい。疲れた。早く死にたい。

 でも、この薬がつらい気持ちを無くしてくれるなら……?

 このままだと自分は自殺を選んでしまう。そんな気がした。だったら、死ぬ前に天国を見に行くのも一興だろうか。どうせ地獄に堕ちる。

 この部屋から出たい。遠くへ行きたい。人が怖い。死にたい。死にたい。

 俺は再び依田先輩に向き直った。依田先輩は笑顔を崩してない。

「この薬は危ない薬じゃないよ。それどころか、あたしの救世主なの。この薬のおかげであたしは生きてこれたんだから。すごい薬なんだよ」

 俺たちにスポットライトが当たっているかのように、周りはしいんと静まり返っている。舌っ足らずに、しかし穏やかに依田先輩は語った。そうか、依田先輩はやはり俺を助けに来てくれたんだ。来てくれて本当にありがとう。依田先輩はやはり天使だ。後光が見える。

 俺は依田先輩の手を掴んで、部屋に連れていった。依田先輩はにっこりと笑って、手を引かれるがまま着いていった。

 二人で座椅子に座る。机の上はごちゃごちゃだった。いつも執筆に使っていたPCは埃を被りつつある。もうしばらく開いていない。

「飲み方は簡単なの」

 依田先輩はしたり顔でピンクの錠剤を手に出した。

「舌下に入れて、ゆっくり、ゆーっくり、溶かしていくだけだよ。簡単でしょ~?」

 依田先輩が笑う。可愛い。俺の手のひらに錠剤を一粒、出してくれた。

「さ、飲もね。いざ、夢の世界へ~……」

 俺は躊躇なく錠剤を口に含み、舌下に入れた。錠剤が口の下で溶けていく。苦みと、ほんのわずかに刺すような甘さを覚えた。

 そのまま数分、少しどきどきしながら待っていたが、何ともなかった。依田先輩は何も言わない。にこにこしながらぼんやりしている。

 ……偽薬?

 まあそれだったらそれで、いいか。人生どうでもいい。退屈してきたので、ふと、換気しようと窓を開ける。外の景色は、サイケデリックな曼荼羅模様が波打つように広がっていた。

「っ……!?」

 それだけじゃなかった。周りが、依田先輩が、自分自身が、ぐにゃぐにゃ歪んでいる。ここは、どこだ……? そして、俺は、誰なんだ、

 依田先輩に手を伸ばす。依田先輩はチェシャ猫のようにニヤニヤしている。本当のチェシャ猫みたいだ、歪む、ピンク、手を伸ばしても届かない。依田先輩の狂ったような笑い声が聞こえる。どこ、ここ、どこ???

 気がつけば俺は、息が出来なくなっていた。「息をする」という概念がわからなくなっていた。苦しい、苦しい、呼吸が出来なければ死んでしまう、助けて、依田先輩、助けてっ……。

 俺の悲鳴は、ぐちゃぐちゃとした波形のように広がっていって、やがて消滅した。なんてことだ、俺はどんどん人間の形を失っていく、神様、神様、もう何もわからない、立っていられない、狂う、いや、狂うってなんだ? 精神世界のアイデンティティの秩序の歪曲された崩壊?? わからない、このままだと俺は死んでしまう、精神世界、狂気、神様、地獄のような曼荼羅模様、秩序、狂う、理性、崩壊、死、歪曲、自殺、神様崩壊理念偽性アイデンティティ殺意狂気刃物屍倫理自殺殺人崩壊秩序狂気哲学、死、死、密接になる、密集したパセリのように、パセリパセリパセリパセ、

 リ?

 そこから記憶が飛んで、ふと部屋で目を覚ます。いつもの部屋、いつもの窓だった。窓の外は昼から夜になっていた。依田先輩はいない。もう帰ってしまったのか。

 ……さんざん引っかき回した後に。

 おそらくバッドトリップをしていたようだ。……と、わかるくらい、脳が冷静になったらしい。深呼吸した後に、コップに水道水を汲みに行った。飲み干す。そしてまた、深呼吸をした。

 一息つき、バクバク鳴る心臓を押さえた。目線を下ろすと、部屋に何かが落ちているのを発見する。見覚えがないこれは……、短い文章が書かれているメモのようだ。 この字体は見覚えがある。佐藤部長の字だ。

『依田にゃん、いつもデートしてくれてありがとう。ささやかながら、マカロンを送るよ。食べてね。大好きだよ依田にゃん。』

 一読して、衝動的に外に出た。皮膚を切るように冷たい秋の風が吹いている。

「なんだよっ……」

 俺は嗚咽混じりの声で叫んだ。

「お前ら、俺をおもちゃにしやがって!!」

 一陣の風が吹き抜けた。

 枝野くん、依田先輩、佐藤部長まで。表向きは楽しくやりながら、俺を褒めちぎっておきながら、全員俺を良いように扱いやがって。信じられない。そして、体の奥を稲妻のような感情が走り抜けた。絶望。これ以上生きていくことは耐えられない。今すぐにでも自殺してしまいたい。

 だが、死ぬ前にせめてもう一度だけ依田先輩と話がしたい。そうじゃないと死んでも死にきれない。

 そう思いながら部屋に戻った。そして、依田先輩にメッセージを送るために、スマホをひらいた。

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